時々眺める富士山

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2011年10月1日
父の旅行土産(守常ブログ(次男の日記)から)
父は学会などで出かけた際に、お土産を買ってきていた。母に対するお土産もあったようだが、家族全体に対するお土産は食べものだった。ただ、お菓子を買ってくることは少なかったと記憶している。
その中でよく覚えているのの一つに、静岡のわさび漬けがある。静岡に出掛けたということでなくても、昔は、途中駅での停車時間が長かったことから、駅で買ってきたのだろう。父はショウガとミョウガは嫌いでも、わさびは昔から好きだった。
小さいときは、わさびのような刺激物は嫌いなことが多いが、父がわさび漬けをよく買ってくることから、わさび漬けはよく食べるようになった。
菓子は少なかったが、桃やブドウなどの果物のお土産も多かったように記憶しいてる。
広島のお土産は、もみじまんじゅうではなく、カキだったと思う。広島のカキには特別の思い入れがあったようだ。
家族に不評だったお土産は、京都の大徳寺納豆だった。父は京都に出掛けると、大徳寺納豆をよく買ってきた。子供たちは皆食べたがらなかったと記憶している。私もほとんど食べなかった。それでも父はよく買ってきた。家族が、もういらないと強く言うようになって、京都土産が八つ橋に変わったと思う。
このような記憶も、昭和40年代前半までの話である。

2011年10月2日
父と出かけた旅行(守常ブログ(次男の日記)から)
家族全員で出かけた旅行が何回かある。
最初に遠出したのは、小学校低学年の頃だっただろう。
春休み頃だったろうか?明日は早起きをして旅行に出かけるということが知らされた。
朝5時ごろの下り列車に乗った。昔は長距離の普通列車が何本かあった。私が高校生のときも、帰りの通学時間帯に姫路行きの列車が走っていた。
小学生の頃は、大阪行きや名古屋行などもあっただろう。
早朝の列車には、我々以外の客はほとんどいなかった。
客車を通り抜けて歩いても、あまり迷惑をかける状態でなかったことを覚えている。
乗ってからしばらくして、日の出を見たような気がする。
母が作ったおにぎりを、みんなで食べたような記憶がある。
どこに出かけるのかは良くわからなかったが、太陽が高くなるにつれて、車内も込み合ってきた。何時間掛かったのだろうか?降りた駅が弁天島だったことを覚えている。そして、浜名湖周辺を散策した。
基本的に列車に乗って移動するだけの旅だから、降りてからも周辺を歩いただけであったと思う。
ウナギは食べたのだろう。
帰りは、1本の列車で帰ることはできず、静岡や沼津で乗り換えて帰ったと記憶している。
夕方家に戻った日帰り旅行であった。このころは、皆元気であった。

2011年10月3日
父と出かけた旅行(2)(守常ブログ(次男の日記)から)
湯河原には、父の職場関係の保養施設があった。
温泉街の一番奥で、少し外れた場所にあったと記憶している。
小学生のころ、この保養所に何回か訪れた。
最初は、父の職場の同僚夫婦と一緒だったように記憶している。
その後も、他の家族と一緒に訪れたことがあった。
住居から比較的近くて、リーゾナブルな価格であったらしく、手じかな家族旅行としても、何回か訪れた。6人家族が皆で訪れたことも何回かあったと記憶している。
ただ、周囲に何もなく、車でどこかに行くわけでもなく、やがて訪れなくなった。

2011年10月4日
父と出かけた旅行(3)(守常ブログ(次男の日記)から)
小学生の頃、家族旅行で伊豆半島に出掛けた。
湯河原の保養所の宿泊とセットにして出かけたような気がするが、記憶ははっきりしていない。
父は電車や列車の旅が好きだったので、もちろん電車の旅だった。伊豆急線が開通したということで出かけたものだった。記憶がはっきりしないので、調べてみると伊豆急下田線の営業運転開始は1961年12月ということだ。開通して間もなく出かけたと思うし、まだ小学生だったと思うので、小学校6年の春休み、中学入学直前だったのだと思う。
伊東の駅から伊豆急線に乗って下田まで行った。単線でゆっくり走っていた。
覚えているのは、「唐人お吉」ゆかりのお寺「宝福寺」に行ったこと。その他、周囲が工事が多くて、開発が進んでいることだった。
たくさん歩いて疲れたことも覚えている。再び伊豆急線に乗って帰宅した。まだ新幹線のない時代だったが、新幹線があっても新幹線は利用しなかっただろう。
その後、結婚して子供ができてから、伊豆には何度か家族旅行をした。車で西海岸の海水浴場に出掛けたり、サイクルスポーツセンターに出掛けたりした。スーパーヴュー踊り子号が運転を開始し、東京から直通で下田まで高速で出かけられるようになって、下田にも1度だけ行った。スーパーヴューは東海道線区間は高速運転をしていたが、伊豆急線の区間は、昔通電車と同じようにゆっくりとした運転だったことを覚えている。
その時、下田では海水浴はしても、宝福寺には出掛けなかったと記憶している。

2011年10月4日
朝は冷え込み、日中は暖かかった
今朝はだいぶ涼しかった。
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西の空に見える富士山は、南側が白くなっていた。
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雪なのか、雲なのか分かりにくいが、こんな姿の富士山を見たのは初めてのような気がする。
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上の方が雪で、下の方は雲であろうか?
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今朝の富士山は、マイナス10度近くまで冷え込んだようだが、北側には白いものが少ない。
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金木犀の花は、今が盛りだ。強い香りが周囲を覆っている。
秋の虫にとっては、ここの所の気温は寒すぎるようだ。昨晩は鳴き声がすっかり静かになってしまった。カエルも冬眠場所に移動したようだ。

2011年10月5日
父と出かけた旅行(4)(守常ブログ(次男の日記)から)
家族6人そろって出掛けた最後の観光旅行は、中学2年の夏休みの時であった。
その年の4月に、上の姉は大学に入学、下の姉は高校に入学していた。
夏休みも後半のころだったと記憶している。
夏が、今のように極端に暑くはなかったようにも思う。
最初に鬼怒川の温泉で一泊し、続いて那須高原に出掛け、塩原温泉で一泊したと思う。
ともに温泉地であった。
子供だけ那須岳に登山したが、途中から霧が濃くなりすぎて、登山をあきらめたことを覚えている。
温泉地の亜硫酸ガスで、母と上の姉が体調を崩してしまったことも覚えている。
その旅行の帰りが大変だった。黒磯駅から東北本線に乗車して帰宅するはずであった。
ところが、落雷で東北本線が不通となっていた。駅は人であふれていた。
当時の記憶が確かではなくなってきているが、臨時に運行された蒸気機関車にけん引された列車に乗り込み、満員で息苦しい中、戻ってきたのではないかと思う。上野駅まで、そうやって戻ってきたのか、途中駅で電車に乗り換えたのかは定かでない。それから東京駅を経て帰宅したわけだから、大変な帰り道になったはずだ。
今では、それ以上の詳しいことは覚えていない。
これが、家族6人で出かけた宿泊旅行の最後のものとなった。
その後は、親子で旅行することはあっても、4人の子供が全員そろって宿泊したことはなかった。
思えば、6人が一部屋に泊ることで、かなりにぎやかであっただろう。
その頃のことも、いまでは記憶が薄れてしまっている。

2011年10月6日
父と出かけた旅行(5)(守常ブログ(次男の日記)から)
父は学会の関係で、ドイツ、オーストリア、ポーランド、ソ連、インドなど、当時ではあまり出かけることのない国を訪問していた。列車の中で、憲兵のパスポートチェックを受けた話がこのブログでも紹介されている。
その一方で、アメリカには行ったことがなかった。そこで、私の学会のあるヒューストンに連れて行くことにした。1991年6月のことで、父はその時76歳だった。最初は両親を連れて行くつもりだったが、その直前に福岡にいた兄の連れ合いが病気となり、母はそちらの看病に出掛けたことから、両親を連れて行くことはできなかった。
父は、学会の家族向けのツアーに一人で参加し、途中で迷子になってしまった。バスを降りた解散場所と、集合場所が異なっていたらしいが、解散場所でずっと待っていて、バスが来なかったということだ。だいぶ経ってからおかしいと気づいたが、さてどうしたことかと困ったらしい。警察官を見つけ、それから警察署までパトカーに乗って行き、事情を話したら、学会の会場のホテルを警察が捜してくれたそうだ。父は、そのホテルの名前を知らなかった。
やっとのことで、父はホテルに戻ってきた。私は、その日は講演の日だった。ともかく、父が無事だったことと、こちらの講演が無事終了したことから、二人でホテルのバーで酒を飲んだ。ここでまた失敗があり、二人とも酔いつぶれてしまった。
ともかく、二人とも無事にアメリカ旅行から帰国できた。その後、父はその時の体験を同窓会で講演したらしい。

2011年10月7日
父と出かけた旅行(6)(守常ブログ(次男の日記)から)
父と出掛けた最後の家族旅行は5年前のことであった。 私の家内と娘は温泉旅行を趣味としており、その時は、私の両親と一緒に箱根の温泉に出掛けようということになった。父はその時91歳になっていた。
父と出掛けた温泉というと、湯河原、鬼怒川と那須塩原になるが、その時は、旅館に着くと、いち早く風呂を浴びて、早朝も、いつの間にか風呂を浴びてきたという感じだった。5年前のときは、こちらが一緒に風呂に連れて行かないと、風呂を浴びるとは言いださなかった。
私の家族の計らいで、外に専用の露天風呂のある部屋を予約していた。ところが、部屋に案内されると、露天風呂がなかった。その時、露天風呂のある部屋へ交換する交渉をしたのは私の娘であり、こちらも世代交代が進んでいた。
小さな露天風呂もいいが、大きな風呂に入るために、父を大浴場に連れて行った。風呂は3段ほどの階段を下って入らなければならないが、父はその階段を降りることができない。階段の上り下りが大変な客も多いものと思われ、手すりのある階段があったのだが、父は風呂のところまで、なかなか降りることができなかった。
父にはプライドがあるから、「90になるまではこんなところは簡単に歩けたのだが、90歳を過ぎたら急にこんなところを歩けなくなった」と周囲に聞こえる大きな声で言って、自分が90歳を超えていることをアピールしていた。
昔の父は長風呂で、特に温泉では、長く入っていて、こちらがすぐに出てしまうと、何でそんなに早く出てしまうのだ、といっていた。ところが、その時は、ほんの少し入っただけで出てしまった。風呂から上がる階段は上ることができた。足の筋肉が衰えると、階段は上るより降りる方が大変なのだ。
風呂の外にはマッサージ機があったが、すでに他の客が使用しており、しばらく待ったが、結局父に使わせてあげることはできなかった。
その後、部屋で食事をした。父はお酒を飲んだ。
若い頃は温泉では何度も風呂を浴びた父だったが、往復の大変さを考えてだろう。大浴場にはもう行かなかったし、こちらも声をかけなかった。幸い、部屋の外に露天風呂があるので、翌朝は露天風呂に入っていた。
朝食も豪華なものだった。父はしっかり食べていた。もちろん母もよく食べた。
チェックアウトタイムぎりぎりまで滞在し、車で帰宅した。
これが両親と出掛けた最後の宿泊旅行となった。

2011年10月7日
穏やかな秋空
当地は、昨晩雨が降ったが、朝から良い天気となった。
ただ、西の空には雲があり、朝から午後まで富士山は見えなかった。
時々雲が多くなったが、1日穏やかな秋空だった。
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西の空の雲も次第に薄くなり、夕方には富士山が見えてきた。
20111007


暑かったころとは異なり、雲は北から南に流れている。
2011年10月7日
指の関節痛はだいぶ和らいだ(闘病記から)
急に寒くなったころから、痛みがきつくなっていた左指の関節は、ここの所の陽気の回復の影響もあるだろうが、だいぶ軽くなった。

2011年10月8日
父と鉄道(守常ブログ(次男の日記)から)
我が家は国鉄沿線にあり、道路1本を隔てた場所を東海道本線が走っていた。毎日機関車や電車、列車を見たいときに見られる環境だった。鉄道マニアにとっては恵まれた環境だっが、その分、列車の通過時の騒音や振動は大きく、慣れないと住めない場所である。昔の窓は、密閉性良好なサッシではないく木製の引き戸やガラス戸であったことから、列車が通過する際は、窓ガラスがガタガタ音を立てた。
我が家の裏の線路は、駅に近い場所だったので、ロングレール化がだいぶ遅れたが、遅ればせながら20世紀が終わろうとする頃にはロングレールとなり、振動はだいぶ減った。それまでは、列車の走行音がかなり遠くから聞こえてきて、それに伴って振動が大きくなり、それからしばらくして列車が通過した。そのようなことを知らない人が訪ねてくると、必ず「地震だ」と指摘された。
特に、機関車がけん引する特急寝台列車の振動は大きかった。このような列車を利用しないと、これらの振動騒音問題は、一方的な被害者となってしまうが、父はこれらの列車を時々利用していた。
昭和30年代までは、蒸気機関車が貨物の入れ替え作業などに用いられていた。小学生のころには、蒸気機関車の音と煙は当たり前のことであった。駅のそばには、石炭置き場があり、その周囲の道が黒くなっていた。時々走る蒸気機関車の煙は、次第に落ちてくるので、外に干した洗濯物が汚れることから母は嫌っていたが、私はあの煙の匂いが好きだった。

2011年10月9日
父と鉄道(2)(守常ブログ(次男の日記)から)
ビジネス特急「こだま」が登場したときだった。父は海側の座席を予約したということで、家の裏の道路に出て、皆で「こだま」に乗った父を見送ることになった。最寄りの駅は停車駅ではない。父は職場の近くの駅から乗車したのだろう。我が家の脇を通過する際、海側の窓際の席に座った父が手を振っていた。我々も手を振った。一瞬の出来事であった。
若いころの父は、最寄駅の時刻表を暗記していた。特に、始発列車の時刻は反射的に口に出てきた。何番線からの発車であるか、短い編成か、長い編成の車両であるか、などを事細かに覚えていた。毎年10月1日のダイヤ改正の時は、早朝に駅に出かけ、無料で配布される駅の時刻表をもらってきて、この電車の出発時刻が1分早くなったとか、遅くなったとか、記憶しなおしていた。
国鉄からJRに変わった後も、父は最寄駅の時刻表を暗記していた。東京から訪れた私が帰る際に、あの電車が便利だとか、この電車は編成が短いから混んでいるとか、盛んに世話を焼いた。そのような父も、90歳を過ぎて、電車に乗って外出することがほとんどなくなり、時刻表の記憶も確かではなくなった。そのころは、駅の時刻表はインターネットから入手することが普通となっており、インターネットを使わない父は置いてきぼりだった。
目も悪くなり、駅で配られる携帯時刻表は、父にとって見にくくなっていた。ところが、インターネットの時刻表を拡大印刷してあげても、父はそれをあまり喜ばなかった。

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気象予報士試験に合格した。父は、入院していた7月の末まで、私の試験がいつなのか気にしていた。
母によると、昨日の未明、父が亡くなってから初めて枕元に父が現れ、私の試験合格を喜んでいたという。
母は、久しぶりに父に会えたと喜んでいた。

2011年10月10日
ぽかぽか陽気だった
今日は、朝方こそ雲が多かったが、その後はよく晴れ、日差しは暖かかった。
これまで、強い香りを放っていた金木犀は、昨晩の雨で、だいぶ花が散った。
道路際の金木犀の下の道路は、橙色に染まっていた。我が家だけでなく、近所の金木犀が一斉に花を落としたので、道路のあちこちが橙色になっていた。
ピラカンサの実はだいぶ赤みを増してきた。

20111010


夕方の西の空には、ぼんやりと富士山が見えていた。

2011年10月11日
今日は母の86歳の誕生日(守常ブログ(次男の日記)から)
今日は母の86歳の誕生日だ。
母にとっては、父が亡くなってから初めての自分の誕生日となる。
この連休中に、妻と娘を呼んで、お祝いの食事会を行った。
今日母は、自分の誕生日のお祝いとしてちらしずしを作るという。

2011年10月11日
楊に花が付いた
桜の花が咲いたとところがあるという。
台風で葉が落ちたろ頃で、一旦寒くなった後に暖かくなったことから、春になったと勘違いしたという。
台風の強風で、我が家の樹木も落葉が進行した。おかめ桜は8分がた落葉した。ただ、今のところ桜に花は見られない。
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一方、柳に花の付いている枝を見つけた。
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若葉の新芽が密集して吹き出している枝もある。

2011年10月12日
母は疲れたといっている(守常ブログ(次男の日記)から)
昨日は母の86歳の誕生日だった。
自分で、お祝いのちらしずしをつくった所、あまりうまくできず、すっかりくたびれてしまったという。
ちらしずしはおいしくできていた。
その後、暗くなるまで寝てしまったという。

2011年10月12日
上空が騒々しい
昨日から上空が騒々しい。
昨日は3機、今日は2機のヘリコプターが旋回を続けていた。
今日はその機体の撮影をして、確かめた。
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これはNHKの報道ヘリコプター。
20111012


これは、テレビ朝日の報道ヘリコプターのようだ。
当地で嫌な事件が起こったものだ。

2011年10月13日
母はだいぶ元気になった(守常ブログ(次男の日記)から)
母はだいぶ元気になって、今日も午前中買い物に出掛けた。
片づけもだいぶ進んだようだ。
古くなった道具類は処分することにしたという。
これまで、使わなくなったことは分かっていても、父の給料から購入したものは、父が生きている間は申し訳なくて処分できなかったとのことだ。

2011年10月16日
久しぶりにすっきりと見えた富士山
昨日も今日も、朝早い時間は風雨が強かった。
昨日はそのまま曇り空が続いたが、今日は9時過ぎから雲が少なくなり、昼過ぎには快晴となった。
ここの所、西の空の低いところには白い雲がかかっている日が多く、しばらく富士山は見えなかった。見えたとしても、雲の後ろにぼんやりとだった。
ところが、今日の昼過ぎからは、富士山はすっきりとした姿を現した。
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雪はすっかり消えているようだ。
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2011年10月17日
少しかすんで見える富士山
昨日は暑さがぶり返したが、今日は再び秋風が吹いている。
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これは昨日の夕方の富士山。雲がすっかり晴れて、富士山のきれいなシルエットが望まれた。
20111017


これは、今朝の富士山。庭掃除などが一段落してから撮影したため、午前10時ごろの姿となっている。少しかすんで見えるが、富士山の手前に濃い雲は見られない。富士山後方には、層状にたなびく雲が見られる。
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ここの所、かなりの降水があったはずだが、雪が見られないということは、富士山頂でも雨だったのだろう。下界は日曜日が暑かったが、富士山の気温は土曜日から日曜日の午前中にかけて高かった。

2011年10月17日
母は耳がだいぶ遠くなった(守常ブログ(次男の日記)から)
母は、ここで耳がだいぶ遠くなった。
普通の声でしゃべりかけても聞こえない。
そこで、大きな声でしゃべるとうるさいと言われる。
高い音の方がよく聞こえるようで、ワンセグTVの高音の強い音の方が聞き取りやすいらしい。

2011年10月18日
早咲きの椿が咲いた
早咲きの椿、西王母が咲いた。
実は、先週末から咲いていたようなのだが、雨で写真は撮影しなかった。
今日になったら、花はかなり傷んでいたが、その姿を記録に残した。
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次に咲く蕾が大きく膨らんできている。
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2011年10月18日
ツワブキの蕾が膨らんできた
ツワブキの花のつぼみが膨らんできている。
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この花が咲くと庭は冬のたたずまいとなる。
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ただ、咲きだすのにはもうしばらくかかるだろう。
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今日もサルビアの花を撮影した。
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マリーゴールドの花が再び増えてきた。

2011年10月19日
肌寒い1日
今日は1日曇り空で、冷たい北寄りの風が吹いていて、肌寒かった。
ほぼ1日中富士山は見えなかったが、夕方になって見えてきた。
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明日は、南から暖かい空気が流れ込むといいう。

2011年10月20日
次の西王母が咲いた
今日も曇り空で、北よりの風が強く肌寒い。
そんな寒空の下、咲きそうになっていた西王母の蕾が開いた。
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大きくなった蕾もたくさんあり、これから次々と開きそうで楽しみだ。
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マリーゴールドの花はどんどん増えてきた。
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長く咲き続け、だいぶ株も大きくなった。
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寒くなると花の傷みが少なくなる。
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このバラの花アンジェラは1週間以上咲いていたのだが、今朝になって撮影した。
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こちらのバラは、撮影のタイミングを外してしまい、散りだしてしまった。

2011年10月20日
父と新聞(2)(守常ブログから)
父は若い頃、ということは私が小さい頃、新聞を読んでいて面白い記事に出会うと、声を出して読み上げ、こんな面白い記事があると周囲の人に知らせていた。周囲の者は、面白いと思うこともあったが、うるさいと思うことの方が多かった。特に、母がそれをうるさがったことが多かった。
私が大学生頃になると、記事を読み上げることはなくなり、ここに面白い記事があるといって新聞を差し出すようになった。
新聞の切り抜きをしていた頃は、新聞にあんな記事があったとか、こんな記事があったということは食事時の話題でもあった。
父は去年まで、新聞が配達されないと大騒ぎをしていた。新聞がないと生活にぽっかりと穴が開いたような気分だったようだ。
それが、今年になると、新聞を開いても、読んでいる時間は2,3分となってしまい、面白い記事があったか尋ねても、何も答えが返ってこなくなった。
それでも、父が入院していた時は、毎日新聞を届けた。
病院では、新聞の広告に出ていた女優が誰だか看護師さんに尋ねていた。
文字に対する反応は弱くなっても、病院にいたころは絵に対する反応は強かった。
それが退院してきてからは、TVがよく見えず、TVの音声もよく聞こえないことからTVを観ることもやめてしまった。もちろん新聞は読めなかった。

2011年10月21日
今日も曇り空
今日もどんよりとした曇り空だ。気温は昨日、おとといより高そうだが、風は冷たい。
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こんな曇り空だが、西の空には富士山が望まれた。
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薄い層状の雲がたなびいていた。

2011年10月26日
つわぶきが咲いている
昨日は残暑の暑さを感じたが、今朝は一転寒い空気と入れ替わっている。
空はよく晴れている。
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そんな中、寒くなると花を開くツワブキが、庭の片隅で咲いている。
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この黄色い花を見ると、冬が近づいたことを感じさせられる。

2011年10月26日
雲の間に見える富士山
昨日は暑かったが、今朝は肌寒い。
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今朝はよく晴れていたが、西の空に雲は多かった。
富士山の上には、夏の名残りを感じさせる雲があり、低い場所も雲があった。
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富士山は雲に囲まれていたが、山頂付近は雲の間から望まれた。

2011年10月27日
あわただしかった4日間
この10月24日の昼前、妻の母が亡くなった。
8月に父を亡くしてから2か月で、また、通夜、告別式とあわただしく過ぎて行った4日間だった。
義母も92歳で、天寿を全うしての旅立ちだった。
幸いなことに暑くも寒くもなく、好天が続いた。
亡き義母の冥福を祈るとともに、皆様お疲れ様でした。

2011年10月28日
雲一つない西の空に望まれる富士山
おととい木枯らし一号が吹き、空気はすっかり入れ替わったようだ。
今朝の西の空は雲一つなく晴れていて、その中に富士山が望まれた。
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周囲は朝日で、ほんのりピンク色となっている。
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真冬の富士山ほどはっきりとは見えないが、これから富士山がよく見える日が増えると思う。

2011年10月27日
夕焼けに染まる富士山
1日中西の空には雲が少なくなり、季節が移ったことを強く感じさせる。
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朝晩の気温が低くなり、昨日から虫の鳴き声は一切聞かれない。
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2011年10月29日
今朝も富士山がよく見えた
今朝もよく晴れていた。
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西の空に雲はほとんどなく、富士山はよく見えた。
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日が高くなると、日差しが暖かく、まさに小春日和だった。陽射しを背中に受けると、体が温まる。
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午後になっても雲はなく、富士山はずっと見えていた。ただ、空気は真冬のようには澄んでおらず、霞がかかった富士山ではある。

2011年10月29日
1日中富士山がよく見えた
今日は1日中陽射しがあって、ぽかぽか陽気だった。
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夕方には、西の空に少し雲が増えたとはいえ、富士山はよく見えた。
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天気はこれから下り坂だという。 西日本ではすぐに雨が降り出すようだが、当地は明日の午後から天気が崩れるらしい。

2011年10月30日
これから天気は下り坂
ここの所、雲の少ないぽかぽか陽気が続いていたが、これから天気は下り坂になるらしい。
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西の空の雲は、昨日より大分多い。大気中の水分量も多いようで、富士山の霞も昨日より強い。
20111030


西日本ではすでに雨になっているようだ。

2011年10月31日
明け方までの雨は上がった
昨晩から明け方まで雨がぱらついたが、それも上がり、天気は急速に改善している。
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西の空の雲も減ってきて、富士山が見えている。
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山頂付近は、少し白くなっているようだ。
20111031


その後、雲はすっかり晴れ、山頂付近の雪が見えてきた。

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