イーゲー・ファルベンの誕生


はじめに

 最初の神経剤となったタブンは、殺虫剤の開発中にイーゲー・ファルベンの研究者のゲルハルト・シュラーダー博士によって偶然発見された。このイーゲー・ファルベンとはどのような会社であろうか?

 イーゲー・ファルベンは、Interessen -Gemeinschaft Farbenindustrie AGを簡略化したものである。Interessen は英語のInterestで「利益」の意味であり、Gemeinschaftは英語のcommunityで「共同体」を意味する。Farbenは「色」の意味で Farbenindustrie は英語のdye industryで「染料工業」のことである。AGは Aktiengesellschaftで株式会社のことである。

 このことから、イーゲー・ファルベンの意味するところは「染料工業利益共同体株式会社」ということになる。ただし、イーゲー・ファルベンは、染料に限らず、火薬や肥料などを製造する、両大戦の戦間期のドイツに存在した巨大な総合化学工業会社であった。

その誕生までの経緯を紹介する。


ドイツの化学工業の始まり

 ドイツの化学工業は、ドイツの工業化とともに発展した。

 ドイツでは1835年に鉄道が敷設されたことにより、工業原料の物流手段が得られたことから、製鉄や機械工業が発展し始めた。機織り機が製造され、それを用いて綿織物が製造されるようになった。一方、硫酸、水酸化ナトリウム、ソーダ石灰、さらし粉などを製造する化学工業も興ってきた。ソーダ石灰はガラスの原料であり、水酸化ナトリウムは石鹸の、さらし粉は漂白、殺菌剤として使用された。これらの製品は、衛生状態の向上に大きな貢献をし、その結果寿命の延長と、それに伴うさらなる労働生産力の向上へとつながった。


合成染料の開発

 当時衣服等の繊維を染める染料には、アカネ、インディゴ、ウコン、ベニバナなどの植物染料や動物染料などの天然染料が用いられていた。ところが、生活と工業生産性が向上し、繊維産業の製造量が増大すると、綿織物や絹織物の染色に使用する天然染料が不足した。

 また、病気の治療薬の需要も増大してきた。特に、マラリアの特効薬であるキニーネは、ペルーから輸入されるキナ皮から抽出されており、需要の増加に薬が追い付かない状態になっていた。そこで、これを合成する研究が行われていた。これらの製造に石炭から採取されるタールが注目された。

 ウィリアム・パーキン(William Perkin)はロンドンでキニーネの合成を試みていた際に、アニリンをクロム酸で酸化したところ、黒いタール状のものになり、失敗したと思ったが、そのフラスコをアルコールで洗ったら、紫色の溶液に変化することを発見した。この溶液は絹や木綿の染色に使用可能であり、モーブ (Mauve)と名付けられた1856年のことであり、これが世界初の合成染料となった。

 この合成染料はアニリンパープルと呼ばれ、チリアンパープル、古代紫とも呼ばれた。その後短期間で、アニリンイエロー、ビスマルク・ブラウンからホフマン・ヴァイオレットに至るまで様々な合成染料が開発されることとなった。これらの合成染料は、その発色の美しさや鮮やかさから、高価で取引されるようになり、合成染料の開発、製造、販売は、その研究者、製造業者、販売会社のすべてに対して大きな収益源となった。

BASFの誕生

ドイツの金銀細工加工業出身のフリードリッヒ・エンゲル・ホルン(Friedrich Angel Horn)は、1948年にマンハイムにガス灯のガスを供給する会社を設立した。彼の事業が拡大すると、石炭からガスを製造する過程で廃棄物となるコールタールの処分の問題を抱えるようになり、彼はその有効利用法を探っていた。

 イギリスでパーキンがアニリン染料の合成に成功したことを聞きつけたエンゲル・ホルンは、化学者のカール・クレム(Carl Clemm)博士と組んで、1861年6月19日にフクシンとその原料となるアニリンの製造会社を設立した。フクシンは、その名前が花のフクシア(ホクシャ)に由来すると言われる赤い染料である。製造を開始すると、その原料となる化学薬品も自らの傘下の会社で供給する体制をとることの必要性を感じたエンゲル・ホルンは、関連会社を統合して、1865年4月6日にバーデンのアニリン・ソーダー製造会社(Aniline of Baden & Soda Fabrik -BASF)を設立した。

 BASFは1865年4月21日、狭隘となり、付近の住民や放牧されている牛に排煙ガス被害を与えるマンハイムから、ルートヴィヘスハーフェン(Ludwigshafen)に工場を移設した。

 それまで西洋アカネの根を用いていた赤色染料の成分のうち、赤い成分はアリザリン(Alizarin)であるが、BASF社の化学者カール・グラーベ (Carl Gräbe) とカール・リーバーマン (Carl Liebermann) は1868年に、これをアントラセンから合成する方法を開発した。これが天然物と同等な初の人工染料となった。

バイエルの誕生

 以前から民間療法として柳の樹皮に解熱、鎮痛作用があることが知られていた。19世紀までに、柳の樹皮のサリチル酸がこの薬効を示すことが分かってきた。しかし、サリチル酸は胃を荒らす作用が強いという欠点があった。フランスのシャルル・ジェラール(Charles Gerhardt)は、1853年にサリチル酸をアセチル化することで、胃に対する副作用の少ないアセチルサリチル酸を合成した。

 その10年後である1863年、フリードリヒ・バイエル(Friedrich Bayer)及び彼の共同経営者ヨハン・フリードリヒ・ヴェスコット(Johann Friedrich Weskott)は、ドイツ西方で現在のヴッパータール(Wuppertal)の地にバイエルを設立した。バイエルを一躍有名にしたのは、1899年にアセチルサリチル酸をアスピリンの商標名で商品化し、大成功したことであった。

 バイエル社は、1912年にレヴァーク-ゼンに、写真用薬品製造の工場を建設した。その後、この工場では印画紙の製造も行った。

アグフアの誕生

 1867年に現在のベルリンの郊外に、アニリン系染料の製造会社が設立された。1873年に、この会社は社名をアニリン製造会社(Aktiengesellschaft für Anilinfabrikation)とする株式会社となり、その頭文字からアグフア(AGFA)と呼ばれるようになった。アグフアの設立者の一人はポール・メンデルスゾーン(Paul Mendelssohn Bartholdy)で、有名な作曲家のメンデルスゾーンの二男である。

 1878年にアメリカのイーストマンがゼラチン写真乾板の製造販売を開始するが、アグフアも写真乾板や写真印画紙の製造で著名な会社となる。

 アグフアは、1916年からカラー写真の現像薬品の開発を開始し、その後もカラー写真の品質向上の研究を継続して行った。



ヘキストの誕生

 カルル・マイスター(Carl Meister), オイゲン・ルシアス(Eugen Lucius)とルートヴィヒ・ミューラー(Ludwig Müller)の3人は、1863年にタール系染料の製造工場である「タール色素・マイスター・ルシアス社(Teerfarbenfabrik Meister, Lucius & Co.)」をフランクフルト・アム・マイン近郊のヘキストに設立した。最初の製品は、赤色染料のフクシンであり、この工場は「赤の工場」としても知られた。その後、あらゆる色の染料の製造を行った。

 1880年には、1,200名の従業員を抱えるまでに成長し、「マイスター・ルシアス・ブリューニング染料株式会社(Farbwerke vorm. Meister Lucius & Brüning AG)」となったが、世界的には分かりやすいヘキスト染料製造会社(Farbwerke Hoechst AG)と呼ばれた。1883年には解熱鎮痛剤であるアンティピリン(Antipyrin)の製造を開始し、染料メーカーから総合化学薬品メーカーに成長した。

 1890年にロベルト・コッホ(Robert Koch)が開発した結核菌ワクチンのツベルクリンを結核診断薬として1892年から製造開始した。その後、麻酔薬のノヴォカインと梅毒の初の治療薬となったサルバルサンの製造販売を開始する。1906年にはアドレナリンの合成に成功し、1923年にはインシュリンの抽出に成功し、これをドイツ内で独占的に販売した。このころから、会社名としてはヘキストが用いられるようになった。

 1907年には、ヘキストは、カレ化学工場、カセラ社と3社で資本共同組合(Dreiverband cartel)を結成し、原料の共同購入などを行った。

カセラ社

 カセラ社は、ユダヤ人のレオポルド・カセラ(Leopold Cassella)が18世紀末に始めた商社に起源があり、彼は1812年にはフランクフルトの市民権を獲得し、レオポルド・カセラ社(Leopold Cassella & Co)となり、染料の取引などを行った。

 子供のいなかったカセラは姪と結婚したルートヴィヒ・ガンス(Ludwig Ahron Gans)を共同経営者に選んだ。ガンスは1870年にタール染料工場ををフランクフルト郊外のマインクールに設立した。そして、1900年までに、2,400人の従業員を擁する世界有数の合成染料製造会社に成長した。

 その後、カセラ社はアニリンやソーダを製造する総合化学会社に成長した。

カレ化学工場

 ヴィルヘルム・カレ博士(Dr. Wilhelm Kalle)と父親でパリから商品を購入し販売する商売を行っていたヤコブ・カレ(Jakob Kalle)は、1863年に共同経営の染料工場カレ化学工場(Chemische Fabrik Kalle & Co.,)を設立した。当初3名の作業員で出発した工場であったが、1885年には医薬品の製造まで行うカレ社(Kalle & Co. AG) に成長した。一方、ヴィルヘルムの兄弟のフリッツ・カレ(Fritz Kalle)はそれらの販売会社を作った。

 1907年には、ヘキスト染料製造会社、カセラ社と3社で資本共同組合を結成し、原料の共同購入などを行った。 

BASFの発展

 19世紀のヨーロッパに最も多く用いられていた青色染料のインディゴは、インドから輸入される高価なものであった。ドイツ領のシュトラースブルク(ストラスブール)の化学者アドルフ・フォン・バイヤー(Adolf von Baeyer)は、1865年にインディゴの研究を始め、1880年にその合成に成功した。

 BASFは、バイヤーと共同でその染料を工業化する権利を得て、大量生産の研究を行った。しかし、その研究は難航し、BASFがそれを完成するまでには17年の歳月と、会社の資本金を上回る開発経費の負担を強いられた。そして1897年になって、ようやく工業的合成法が開発された。このときに開発されたホイマン・プフレーガー法(Heumann-Pfleger process) は現在でもインディゴの工業合成における標準的な手法となっている。アニリンから製造されたフェニルグリシンとホルムアルデヒド、シアン化水素を 無水アルカリ化したナトリウム・アミドと融合させることで合成される。

 BASFの発展とともに周囲の近代化も進み、1882年にはルートヴィヘスハーフェンに公衆電話が敷設され、電話番号1番はBASFであった。1887年にはライン川の水力を用いた発電が開始され、電気の時代に入り、BASFは自社の電力需要をまかなう発電を行った。

 BASFは、アリザニンの生産量を上げるために、その重要な原料物質であるスルホン酸アントラキノンの製造で大量の発煙硫酸を必要とした。BASFのそれまで購入量では不足し、価格も高騰したため、発煙硫酸の自社調達を目指した。同社のルドルフ・クニーチェ(Rudolf Knietsch)は1988年に、バナジウム触媒を用いて2酸化硫黄を3酸化硫黄に酸化する工程が含まれている接触式硫酸製造法として知られる廉価な方法を開発した。これによってBASFはその当時、世界で最大の硫酸製造メーカーとなった。同じ年にクニーチェは、液化塩素製造という更なる革新をもたらした。これによって純度の高い塩素が鋼鉄ボンベで輸送可能となったことから、BASFの発展に大きく貢献した(これは、第一次世界大戦で使用された塩素ガスの供給源となった)。

 様々の合成染料の製造に必要となるフタル酸の触媒製造法もBASFのオイゲン・ザッパー(Eugen Sapper)が開発した。

 1901年BASFのレネ・ボーン(René Bohn)は、インダンソロン(Indanthren)という新たな建染め染料を開発した。この染料は染まりやすく、洗濯しても色落ちしにくく、退色もしにくく、新たなプリント染色の分野を開くこととなった。

 20世紀に入ったヨーロッパでは、農地の開発はすでに飽和状態であり、土地生産性を向上させるための肥料の需要が高まっていた。窒素肥料に必要な硝石は、チリに依存していた。窒素は空気中に十分存在するのだが、この反応性の低い元素を活用する方法は知られていなかった。この大気中の窒素の利用に道を開いたのがフリッツ・ハーバー(Fritz Haber)とカール・ボッシュ(Carl Bosch)の触媒を使用した大気中の窒素を利用したアンモニアの合成法の開発であった。

 ハーバー・ボッシュ法によるアンモニアの工業規模での合成法の開発にあたって、当初高温高圧ガスによって発生する配管の爆発事故が相次いだ。そのため、製造設備をコンクリートブロックで閉じ込めるようになった。カール・ボッシュはその解決策として、内側が軟鋼製のパイプで、それを外側の高強度鋼管で覆う2重鋼管パイプを採用して切り抜けた。この問題の解決のため、化学工場であるBASF内に材料強度検査会社が作られた。

 工場建設から1年後の1913年に、BASFはハーバー・ボッシュ法を用いて世界初のアンモニア製造の工業化に成功した。これによって、BASFは繊維産業とだけかかわる染料メーカーから、農業生産にかかわる肥料メーカーにもなった。それとともに、高温高圧合成化学の道も開拓した。高温高圧合成化学では、製造設備のコストが増大するとともに、その設計には化学者と機械技術者の緊密な連携が必要となったが、ドイツは当時の世界最先端の技術を獲得していった。

 当時のアンモニアの年間生産量は7,200トンで、このアンモニア用いて36,000トンの硫安が製造された。それから90年後のBASFのルートヴィヘスハーフェン工場でのアンモニアの年間生産量は当時の100倍以上の875,000トンという。  

イーゲー・ファルベンの誕生

 1903年にアメリカのスタンダード・オイル社を訪れたバイエル社の カール・ドゥイスベルク(Carl Duisberg)は、アメリカの染料工業のトラストの実態を知った。彼は、ドイツでもトラストの必要性を感じて帰国し、1904年にトラストの結成をタール工業会に提案した。ドゥイスベルクのカルテル結成の提案を受けて、ドイツでは2つの染料工業カルテルが結成された。一つは、BASF、アグフア、バイエルの3社によるドライブント(Dreibund)という3社カルテルで、もう一つは、ヘキスト、カレ化学工場、カセラ社の3社によるドライフェアバント(Dreiverband)という3社カルテルであった。

 第1次世界大戦に突入すると、染料より軍事物資に需要が高まり、兵役による人手不足の問題も発生し、これはさらなるカルテル強化の要請につながった。1916年8月18日、二つのカルテルは統合され、イーゲー・ファルベンの母体となるドイツタール染料工業利益共同体(Interessengemeinschaft der Deutschen Teerfarbenfabriken)を設立した。続いて、1917年にはグリースハイム電子化学工場(Chemische Fabrik Griesheim-Elektron)がこれに加わった。この7社カルテルは、後に「小イーゲー」と呼ばれるようになった。

 グリースハイム社の主な製品は、肥料、硫酸、硝酸、グラファイト(溶接や製鉄分野で使用された)、アルミニウム(航空機産業で重要)、塩化ビニルなどであった。またピクリン酸及びそれを用いた爆薬は、第1次世界大戦中に、ドイツ軍に対する最大の供給元となった。この結果、この共同体は染料以外の分野までカヴァーすることになった。やがて、原料を生産する炭鉱の経営を掌握し、BASFが主導する石炭液化による合成ガソリンの製造権限を独占した。そして、バイエルとBASFが主導して、1925年にすべての染料メーカーが一つとなったイーゲー・ファルベンが結成された。

 イーゲー・ファルベンは、ヨーロッパ最大の企業となり、世界でもGM、USスチール、スタンダード・オイルに次ぐ4番目の規模の企業となった。イーゲー・ファルベンの最高経営任者となったのは、BASFのカール・ボッシュ(Carl Bosch)で、ナチの反ユダヤ主義に反対したが、コストのかかる合成ガソリンの製造に国家補助を得るために、ヒトラーとの関係を深めて行った。

 その後、イーゲー・ファルベンがナチの戦争に深くかかわって行く様子は、本書で詳しく紹介されている。

 なお、原書では、イーゲー・ファルベンに加わった会社を「ドイツの化学会社の最大手6社(Germany's six largest chemical concerns)」としていたが、「化学関連の最大手6社など」と訳した。




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