エッジウッド兵器工場


はじめに

 エッジウッド兵器工場は、第一次世界大戦期から、アメリカの化学兵器関係の研究開発、製造、訓練の中心施設の役割を果たしてきた。

 Edgewood Arsenalといい、エッジウッド造兵廠が古い呼び方であろう。  エッジウッド兵器工場がの誕生から、化学兵器の廃棄活動を行う場所になった経緯を含めて、この工場について紹介する。


ガンパウダー・ネック

 エッジウッド兵器工場のあった場所は、現在エッジウッド化学・生物センター(Edgewood Chemical Biological Center)となっている。その場所は、奥行きが300km以上あるチェサピーク湾の奥まった部分にあり、ガンパウダー・リヴァー(Gunpowder River)とブッシュ・リヴァー(Bush River)と呼ばれる入り江に挟まれて、角のように突き出たガンパウダー・ネックと呼ばれる半島にある。

ブッシュ・リヴァーを挟んで、ガンパウダー・ネックの対岸のブッシュ・リヴァー・ネック(Bush river Neck)と呼ばれる半島には広大なアバディーン性能試験場(Aberdeen Proving Ground)が広がっているが、現在エッジウッドは、アバディーン性能試験場のエッジウッド地域(Edgewood Area)と呼ばれている。

 西欧人が入植する以前のガンパウダー・ネック一帯は、サスケハノック族が居住していて、1600年ころには7,000人ほどが住んでいたという。1608年に、ジョン・スミス(John Smith)が探検したのが、この地域に西欧人が足を踏み入れた最初とされている。

 ガンパウダー・ネックへの最初の入植者の一人はトーマス・オダニエル(Thomas O'Daniel)で、1663年にボルティモア領主から土地所有を認められた。そして1681年にはオダニエルの娘婿が、現在マックスウェル・ポイント(Baxwell Point)と呼ばれるガンパウダー・ネックの先端までの細長い土地を所有した。その他にも何人かの有力な入植者がガンパウダー・ネックに入った。

 1687年には、現在のルート7(フィラデルフィア・ロード)となる道路も敷設され、交通の便が提供された。

 1835年には鉄道(現在のアムトラック(Amtrak))が敷設され、農産物の輸送手段が改良され、エッジウッド駅の周囲には商店も作られた。1850年までに、ジョージ・カッドウォルダー(George Cadwallader)は、ガンパウダーネックの大半となる8000エーカーの土地を取得した。彼は北軍の大佐であったが、戦績がおもわしくなく、この地に振り向けられていた。カッドウォルダーは、この地を農業だけでなく、野鳥猟に適した場所と考え、裕福な人の狩猟の場所としても開発した。その後、周囲にはフィラデルフィア・ガンクラブ、ニューヨーク・ガンクラブなどの狩猟施設ができた。ニューヨーク・ガンクラブの会員の一人にはJ.P.モルガンがいた。

第一次世界大戦への参戦

 アメリカが第一次世界大戦に参戦したのは1917年4月6日で、ドイツがイーペルで初めて塩素ガスを使用した1915年4月22日からほぼ2年が経過していた。イギリス軍やフランス軍がそうしたように、アメリカのヨーロッパ派遣軍も、化学剤を充填した弾薬を携行することが決定された。そこで課題となるのが、それまで製造していなかった化学兵器をどこで製造するかであった。

 化学兵器薬剤の製造は民間会社に委託するとしても、その薬剤を砲弾に充填する工場を建設する必要があった。化学兵器充填工場建設用地としては、工場からの原料搬入とヨーロッパへの砲弾輸送に便利な場所が最適であった。その適地として、ガンパウダー・ネック保留地が選ばれた。ボルティモアとフィラデルフィアを結ぶ鉄道が通過しており、チェサピーク湾に通じるブッシュ・リヴァーに面しているという地理的条件を満たすとともに、地主の数が少ない農村地帯で、接収に好都合な場所であった。

 ところが、充填すべき化学薬剤の供給に問題があることが分かった。化学兵器充填薬剤として、塩素、クロロピクリン、ホスゲンとマスタードの4種類が計画されたが、アメリカ国内では、塩素と少量のホスゲンを除くと十分な量を調達できなかった。また民間会社は、戦後に不要となる製造設備に対する投資には積極的でなく、国内産業での増産が見込めなかった。また、毒物の輸送を安全に行うには相当の経費が必要であることも分かってきた。これらの問題があることから、1917年12月には、薬剤もガンパウダー・ネック保留地で製造することが決定され、即座に工場建設が開始された。

エッジウッド兵器工場の建設

 エッジウッドにおける化学兵器の製造は極秘裏に行われ、秘密保持の理由から、工場の正門には武装した歩哨が、工場へ出入りする車両を厳重にチェックした。1918年5月4日にウイリアム・サイバート大将(William L. Sibert)がガス局(Gas Service)の局長になり、ガンパウダー・ネック保留地の責任者になると、この場所はエッジウッド兵器工場と呼ばれるようになった。

 エッジウッド兵器工場に完成した最初の工場は、クロロピクリンの製造工場で、1918年6月にはクロロピクリンの製造が開始された。マスタードの製造工場は1918年5月に建設が着手され、6月にはマスタードの製造が開始された。ホスゲンの製造工場は1918年3月に建設が開始され、その年の7月からホスゲンの製造が開始された。

 1918年6月には、化学戦局(Chemical War Service)が設立され、エッジウッド兵器工場にその本部が置かれた。そして化学戦局は、化学兵器に関しては攻撃、防御のすべての分野で、陸軍兵器局(Ordnance Department)から独立して研究開発、製造、供給を行う権限を得た。

 塩素は、化学工業における基本的な薬品であり、化学兵器に用いられた薬剤の中で、民間でも大量に製造されていた唯一のものであった。ところが、戦争になると、塩素が品薄となり、塩素もエッジウッドで製造することに決定され、1918年5月11日に塩素工場建設に着手され、9月にその製造が開始された。

 1917年秋までは農地だったところが、1918年10月までにクロロピクリン、ホスゲン、マスタード、塩素の製造工場と、砲弾への3系統の充填工場、第1化学研究所(Chemical Laboratory No.1)、砲弾の集積場、病院、食堂、物資集積場、作業員宿舎などが次々に建設され、鉄道と道路、発電所、上水道も整備された。

エッジウッドでの生活

 エッジウッドの化学兵器工場は、安全第1に配慮されて建設された。建設作業は民間人が従事したが、薬剤製造と砲弾への充填作業は兵士が行った。マスタードの充填工場でも、作業員は防毒マスクなしに作業を行うことができた。運動場や映画館などの厚生施設もあり、通常の軍隊生活が行われていた。ヨーロッパに派遣されるよりは気楽な任務に思われたが、化学兵器製造に伴う危険は常に存在した。1918年の製造作業中に、925人の死傷者を伴う事故が発生した。そのうち3名がホスゲン中毒で死亡し、1名がマスタード中毒で死亡した。

第一次世界大戦終了時の製造能力

 1918年11月11日に第一次世界大戦が停戦したことにより、エッジウッドでの化学兵器製造はただちに停止された。その直前の化学兵器の製造能力は、塩素が日量100トン、ホスゲンが日量80トン、クロロピクリンは日量22トン、マスタードは日量100トンであった。砲弾充填工場では第1充填工場(75mm砲弾専用)が1日33,000発、第2充填工場(75mmと4.7インチ兼用)が25,600発、第3充填工場(115mm、6インチ、8インチ)が20,000発であり、9,2インチと240mm砲弾用の第4充填工場は建設中であった。その他化学手榴弾2万発、発煙手榴弾2万発、焼夷弾2千発などの製造能力があった。

 薬剤は最大生産量で操業されないこともあったが、砲弾の弾体の方が不足しており、薬剤が超過する状態が続いていた。

大戦間のエッジウッド

 第一次世界大戦終了とともに、化学戦局は再び陸軍兵器局傘下に戻ったが、エッジウッドは化学兵器の研究開発機関として永続的な立場を得た。そしてアメリカ各地に分散していた化学兵器関連施設のエッジウッドへの統合が開始された。ニューヨーク州ロング・アイランド(Long Island)にあったガスマスク製造施設は解体されてエッジウッドに搬入され再組立された。そこでは、緊急時に備えてしばらくの間ガスマスクの製造が継続された。ニュージャージ州レイクハースト(Lakehurst)の化学兵器性能試験場の機能もエッジウッドに移された。同じくレイクハーストの化学兵器戦学校(The Chemical Warfare School)もエッジウッドに移転された。

 エッジウッドの化学兵器製造施設はいつでも製造再開できるように休眠状態とされたが、増産のための一時的施設は解体撤去された。それとともに、施設の警備体制も大幅に緩和された。

 大戦間のエッジウッドでは、化学兵器の研究開発、防護装備の研究開発、化学兵器要員の訓練と化学兵器の性能実験が業務となった、それに伴い、第2化学研究所(Chemical Laboratory No.2)と医療研究所<Medical Research Laboratory)が建設された。ガス室を備えた研究施設では、動物実験とともに、志願者に対して、ガスの吸入にどこまで耐えられるかの人体実験も行われた。

 その他に、船舶に発生する害虫であるワタミゾウムシや海洋穿孔虫、フジツボの駆除や、船舶を利用する移民者の腺ペスト対策の薬剤製造なども行った。

 1922年10月には、エッジウッドの南部地区には第6野戦砲兵隊がフォート・ホイル(Fort Hoyle)を築いた。エッジウッド地区の敷地も、訓練や実験の他、ゴルフコースや水泳プールなどのレクレーションの場として活用された。ゴルフコースの上には、航空機からマスタードを散布し、その下で防護服を着て待機することで、化学兵器の防護服に対する自信をつけたり、薬剤の検出訓練などにも利用された。

 大戦間には、ルイサイトとマスタードの試験製造工場が新たに建設され、少量の製造が行われたが、休眠状態とされた第一次世界大戦時の化学兵器製造施設は手入れが行き届かなくなり、次の大戦までの20年間で、次第に荒廃して行った。  

第二次世界大戦におけるエッジウッド

 1930年代後半に、次の戦争への懸念が生じると、化学戦局はエッジウッドでのマスタードの製造を再開し、少量の備蓄を行った。第二次世界大戦への懸念が高まっていくにしたがい、ホスゲンと塩素の製造工場の補修が行われ、新たにアダムサイト、青酸、防護服用の繊維であるCC2の製造工場が建設された。

 戦時に備えた製造が活発になると、製造物の貯蔵場所が必要になり、エッジウッドの東部地区にレンガ造りの弾薬庫や耐火壁(Transite)で囲んだ貯蔵庫が建設された。この貯蔵庫は、東海岸地区で唯一の化学兵器貯蔵設備となった。さらに製造設備のある西部地区にも貯蔵施設が建設された。1942年には、新たな化学研究所も建設された。

 第二次世界大戦が始まると、エッジウッドは化学兵器関連のすべての活動を行うためにはスペースが不足してきた。1942年には、エッジウッド兵器工場は名称を化学戦センター(Chemical Warare Center)と名称変更された。エッジウッドの南部地区の第6野戦砲兵隊が戦場に派遣されるためにフォート・ホイルを出たことから、この南部地区に新たな化学兵器製造工場が建設さた。第一次世界大戦時は化学兵器の製造は軍人だけが行ったが、第二次世界大戦中の化学兵器の製造は、半数以上が民間の女性によって行われたのが大きな違いである。

 戦時の生産活動が活発になると、エッジウッドだけでは化学兵器関連の活動をすべてカヴァーできなくなり、エッジウッド以外に化学兵器製造工場が建設されるようになった。化学兵器貯蔵庫も別の場所に増設されたことから、エッジウッドの機能は化学兵器に関するすべての活動を行う中央施設の立場から、次第に開発研究、試験製造、実験などの機能に移行して行った。

陸軍化学センター

 第二次世界大戦が終結すると、化学戦センターは化学兵器部隊(Chemical corps)の管理の下、陸軍化学センター(Army Chemical Center)と名称変更されて存続した。

 第二次世界大戦で化学兵器は使用されなかったが、ドイツが開発した神経剤の研究とその開発、防護技術の開発が主な研究テーマとなった。その他、ナパーム弾、火炎放射機、枯葉剤、煙幕弾、信号弾の研究も行われた。これらの兵器は、第二次世界大戦中にも活躍し、1950年に発生した朝鮮戦争を始め、60年代のヴィエトナム戦争で実戦に投入された。

 エッジウッドが化学兵器の研究開発センターの役割を果たすようになる一方、教育訓練施設としての役割は1951年にアラバマ州のフォート・マクレランに譲った。一方で、ドイツ軍から捕獲した化学兵器の廃棄作業や、余剰老朽化化学兵器の廃棄作業も行われた。

 第二次世界大戦後もエッジウッド兵器工場内で研究開発活動は活発に行われ、そのために1956年に化学兵器研究所(Chemical Warfare Laboratories -CWL)が設けられ、それは1960年には化学研究開発研究所(Chemical Reearch and Development Laboratories-CRDL)と名称変更された。1962年に陸軍資材司令部(United States Army Material Command-AMC)が設立されると、エッジウッドはその下位組織の弾薬司令部(MUCOM)に組み込まれ、CRDLは単に研究所(Research Laboratories)と変更された。

 エッジウッド地区は、1954年から1959年の間は高性能爆弾を搭載した地対空ミサイルのナイキ・エイジャックス(NIKE Ajax)の、1959年から1973年にかけては核弾頭を搭載したナイキ・ハーキュリーズ(NIKE Hercules)の発射実験施設として利用された。

 1971年7月1日、エッジウッド兵器工場はアバディーン性能試験場に統合された。それ以降、エッジウッドはアバディーン性能試験場のエッジウッド地区と呼ばれるようになった。

 ニクソン大統領が攻撃的生物兵器開発計画を放棄したことから、1971年にその名称は化学研究所(Chemical Laboratories)に名称が変更された。そして、1977年には化学システム研究所(Chemical System Laboratories)に名称変更され、その活動も化学兵器防御に重点が置かれるようになった。1980年代には2種混合型化学兵器の開発研究が行われたが、それも1990年には終了した。

 1986年には、陸軍の化学兵器廃棄計画による廃棄作業が、アバディーン性能試験場のエッジウッド地区で開始された。

1990年代以降のエッジウッド

 エッジウッドは、1990年から1991年にかけての砂漠の楯作戦と砂漠の嵐作戦では、化学兵器防護と化学兵器探知技術で協力した。

 1991年1月に化学兵器禁止条約がアメリカを含めた130カ国によって調印され、1997年4月25日にクリントン大統領が条約批准書に調印したことから、アメリカはもはや新たに化学兵器を保有する根拠はなくなった。エッジウッドでは、引き続き化学兵器防護の研究を継続しているが、条約にしたがって備蓄化学兵器を安全に廃棄することも重要な任務となった。

 マスタードを中和して廃棄する作業は2003年4月23日に開始され、2005年3月11日に終了した。エッジウッドは2007年4月末に創立90周年を迎え、記念行事が行われた。




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