はじめに
アメリカン大学は、第一次世界大戦時から、アメリカの化学兵器関係の研究開発、製造、訓練の中心施設の役割を果たしてきた。
アメリカン大学が化学兵器の研究開発の場所となった経緯を紹介する。
|
アメリカン大学の誕生
アメリカン大学は、ジョージ・ワシントンが国を代表するような大学の建設の必要性を説いたところまでその起源をさかのぼり、主にメソジスト教会の支援を受ける私立大学である。ワシントンD.C.にメインキャンパスを置いている。
1890年代にメソジスト教会が、ワシントンD.C.北西地域の農耕地帯にあった90エーカーの広大なデイビス農場(Davis farm)を購入した。1983年に議会によってアメリカン大学の設立が許可され、1986年に最初の建物であるハースト・ホール(Hurst Hall)の起工式が行われ、アメリカン大学の建設が着手された。しかし寄付金が期待通りに集まらず、大学としての整備はなかなか進まなかった。ようやく1901年になって、セオドア・ルーズヴェルト(Theodore Rooevelt)大統領が礎石を置いたマッキンリー・ビルディング(McKinley Building)が建設された。また、1914年には、ウッドロー・ウイルソン(Woodrow Wilson)大統領が大学院を開設し、27人が入学し、1916年には2名の博士と1名の修士を送り出すところまでになった。
|
大学キャンパスの軍への提供
アメリカが第一次世界大戦に参戦して間もない1917年4月30日、アメリカン大学評議会は、大学キャンパスと校舎の一部を軍時使用するために政府に提供するとの書簡をウイルソン大統領にあてて送った。アメリカン大学への交通路は未舗装であり、軍事施設建設には適さなかった。軍の調査の結果、緊急舗装をすれば使用可能であるとの結論が5月28日に得られた。そこで、陸軍工兵隊が砕石を敷いた道路を整備し、一部アスファルト舗装をして、アメリカン大学構内の軍事利用の体制が緊急に整えられた。
|
アメリカン大学試験場の建設
アメリカン大学試験場の建設が開始されたとき、アメリカン大学には二つの建物しかなかった。それは、オハイオビル(Ohio Building)と呼ばれるマッキンリー記念オハイオ・カレッジ(McKinley Memorial Ohio College of Government)と、ヒストリービル(History Building)と呼ばれるヒストリー・ビルディング・カレッジ(College of History Building)であった。
オハイオビルはアメリカ鉱山局が実験施設に利用するために、アメリカン大学試験場(American University Experiment Station)に改造された。ヒストリービルは工兵隊が宿舎と技術兵の訓練施設に改造しキャンプ・アメリカン大学(Camp American University)とした。ただ、キャンプ・アメリカン大学とアメリカン大学試験場が混同されやすかったため、これは後にキャンプ・リーチ(Camp Leach)と名称変更された。
|
施設の拡充
既存の建物を利用しただけでは、化学薬品や材料の貯蔵施設、実験動物小屋などが不足していることがすぐに分かった。そこで、オハイオビルに近接した場所に、これらの目的に利用するための一時利用の、多くの木造建物が建てられ始め、その数は124にもなった。ヒストリービルのそばには管理施設も増設された。
ガス漏洩から周囲を守るために、鉱山局はアメリカン大学から地下ピットの建設許可を取り、コンクリート製地下ピットで化学兵器爆弾の爆発実験を行った。
1917年12月1日、オハイオビルのあるアメリカン大学の西側の敷地を鉱山局が、ヒストリービルのある東側の敷地を陸軍工兵隊が管理する取り決めを交わした。その後、鉱山局にとっては本格的な研究所の建設が急務となり、その建設場所はオハイオビルとヒストリービルの中間の工兵隊が管理する土地で了解され、1918年5月27日に建設が開始された。
1918年11月には、研究所を除くアメリカン大学のすべての施設は化学戦局の管理に移された。第一次世界大戦終了時には大小合わせて153の施設がアメリカン大学の敷地とその周辺の土地に広がっていた。
|
試験場の研究開発活動
アメリカン大学試験場での毒ガスの研究開発及び実験はアメリカ鉱山局の主導の下に行われた。その後、パーシング総司令官の意向で、鉱山局が管理していたアメリカン大学の試験場は陸軍省の管理に戻された。
当時のアメリカの化学兵器に関連した技術は、軍需品部(Ordnance Department)、衛生部(Medical Department)と化学戦課(Chemical Service Section)が担当していた。大統領命により、1918年6月28日には、これら3部門を統合した化学戦局(Chemical War Service-CWS)が設置された。そして、アメリカン大学の試験場を化学戦局の研究部とすることになった。
しかし、研究活動を軍の管理下に置くと、自由な研究活動が妨げられるとする、鉱山局を管理する内務省長官からの強い反対もあり、第一次世界大戦終了まで、アメリカン大学試験場の実質的な管理体制に大きな変化はなかった。
アメリカン大学試験場には、12の研究課が置かれた。防護課、攻撃課、薬理課、触媒課、化学兵器防護課、化学兵器攻撃課、ガスマスク課、火薬課、分散質課、少量生産課、機械研究開発課と爆発物課で、体制変更後に作られたのは触媒課のみであった。
アメリカン大学試験場では、マスタードやその他の化学兵器の効果の検証と、毒ガスから防護する防毒マスクの試験を行う野外実験が行われた。
|
第1次世界大戦後
1918年11月11日に第1次世界大戦が終結すると、それまで継続していたアメリカン大学試験場の増設計画はすべて停止された。キャンプ・リーチは、すべての施設が撤去され、ピットなどは埋め戻され、できる限り元の状態にしてアメリカン大学に戻された。
一方、化学戦局は、終戦後も化学兵器の研究は継続して行うべきであり、アメリカン大学試験場を使用し続けようとする意向があった。ところが、化学戦局の初代局長のウイリアム・サイバート(William L. Sibert)少将は、アメリカン大学試験場でのすべての活動を1918年12月31日までに中止し、その機能をエッジウッド兵器工場に移転することを決定した。
1920年に、化学兵器関係施設は研究施設も含めてエッジウッド兵器工場に集中することが決定され、アメリカン大学試験場は廃止された。鉱山局は引き続きアメリカン大学試験場の施設を用いて研究を続行する意向を持っていたが、陸軍省はそれを許可しなかった。1921年春までに、アメリカン大学が不要とする建物はすべて撤去され、マスタードなどの残余薬剤は焼却処分された、破壊できないピットなどは、立ち入り禁止措置が取られた。
アメリカン大学及びその周辺の化学兵器による環境汚染は、安全除去作戦(Operation Safe Removal)によって除去され、環境汚染は残されていないとされている。
|