科学的手法と法律


(1) はじめに
(2) 序文
(3) 科学と予測
(4) 自然科学と社会科学
(5) 科学的手法
(6) 経験的観察とフィードバック
(7) 帰無仮説と確実性の探究
(8) 法律における二値論理学
(9) 結論


(1) はじめに

 ここに紹介する論文は、カリフォルニア大学ヘースティングス法科大学校の季刊誌「ヘースティングス法律ジャーナル」の第19巻(1967-1968年)に掲載されたものである。著者のベルナルド・ダイアモンド(Bernard L. Diamond)は、カリフォルニア大学を1935年に卒業し、1939年に博士を取得した精神科の医師である。その一方で、カリフォルニア大学バークレー校の犯罪学と法律科の教授であるとともに、サンフランシスコのマウント・ジオン病院の精神科副所長であった。この論文は、ヘースティングス法科大学校が1967年3月17日にカリフォルニア州サンフランシスコで開催した第13回全米法律レヴュー会議における彼の講演に手を加えたものである。

 科学とはなにか、科学には自然科学(ハードサイエンス)と社会科学(ソフトサイエンス)があること、法学は社会科学に属するが、それをより緻密なものへと発展させることが自らの仕事だと説いている。

 この論文は、アメリカで法科学を志す者が読んでおくべきものの一つとされている。この論文も、畏友ジョン・マードック(John E. Murdock)が提供してくれたものである。



(2) 序文

 若かりし頃、私が医学を専攻しようと決心するきっかけとなったものに、「異常と奇形の医学(Anomalies and Curiosities of Medicine)」と題する素晴らしい書物があった。この分厚い本は、1897年に初版が出版されたもので、人間に発現するあらゆる種類の身の毛もよだつような奇形と異常の図と、その解説を集大成した本であった。中には性的な含みのあるものが多く、若者の不健全な興味を引くには十分な代物であった。

 この本を初めて読んだ当時、いつの日か自分が異常と奇形を扱う医者になるとは夢にも思っていなかった。しかし、そんなことよりも、みなさんの前に立っている私は、みなさんにとって大変特異な人物であろう。医者、精神科医、精神分析医であり、科学者であり(そうでありたいと思っている)、その上どうしたわけか法学部の教授である。それなのに法律家ではなく、法律の教育は一切受けていないことから、皆さん方から異常な人物に見えるはずだ。

 なぜ私のような法律家でない医者で科学者の私が、評判の高い法学部の教授なのかと疑問に思われて当然である。以前は、こんなことはなかった、それでは、なぜ今はこのようなことがあるのか?私にとっては、これは当然のことに思える。この仕事は良い仕事だからだ。私にとって、法律、特に刑法は面白い。報酬も悪くない。さらに、バークレーのアカデミックな環境は、私が専門教育を受けたサンフランシスコの医学部のざわついた環境よりずっと好みに合っている。しかし、私はこのようなことを理由に法学部を選んだのではない。法学部は、私にとって特別のことを意味しているからである。今晩は、皆様方にそのことを話そうと思っている。

 法律家は医者と同様に職業である。ただ、通常の職業と異なり、これらの職業には資格証明書がある。証明書がその職業を営むだけの実質的力量があることを示している。この証明書は、その職業の一員となるだけの教育を受けたことを認定し、その職業に就くことを許可している。このように、法律家が法学部をコントロールするのは、医者が医学部をコントロールするのと同じである。この資格認定は、この職業に大変保守的な性格を与える。このような専門学部では、自分たちのイメージに合った学生を選択し、その学部が望むような考え方をし、行動をとるように学生を教育することになる。

 しかしながら、最も保守的な職業といえども時代とともに変化し、考え方や実践に変革が生じる。そして、1、2世代も経ないうちに、その職業に属する人たちの行動の基ととなる精神をも変革する。変革が生じていることを示す最も確実な指標は、小さなものではあるが、学部の性格に表れる。これらのことから、近い将来、少なくともいくつかの法学部は、法律の理論と実践について、以前よりずっと科学的になるものと私は考えている。今後、科学的手法や科学的な見方が、現代の生活のあらゆる場面に行き渡るようになると考えても驚くには当たらないであろう。

 科学と、それが生み出した技術が現在の世界にあふれていることを逐一説明する必要なないだろう。科学的変革は、コペルニクス(Copernicus1473-1543)とガリレオ(Galileo1564-1642)に始まり、ものすごいスピードで現在の20世紀まで進んできた。我々の生活全体が科学に支配されているといっても過言ではなかろう。ただ、あらゆる変革と同様、良いことと一緒に悪いことも進んでいく。科学は人類に多大な恩恵を与えた。しかし、それと同時に悪の力をも生み出し、神の力など些細なものと思えるような破壊力をも造り出した。

 現在の科学時代に、法律を科学的なものにできるかという課題設定はありえない。そうではなく、法律を社会に恩恵を与える科学とし、人間性を破壊しない科学としよう、というのが課題である。

(3) 科学と予測

 科学が果たす役割は多岐にわたるが、その中でも未来を予測する心理的な作用の果たす役割が大きい。その未来予測の能力によって、現在を操る大きな力が生まれる。それによって、科学は未来を変化させることができるようになる。科学の内容と力の実態は、科学の持つ将来予想の能力に基づいているが、科学者以外がその内容を理解するのは難しい。その上、科学の強力な未来予測能力を利用しない、あるいは利用できない者にとっては、その力は理解できない。たとえば、原始時代から存在した科学の中で、もっとも偉大な発見は農業である。大地に種をまく行為は科学的行動ではない。多くの鳥や動物たちが種をまいているが、我々は鳥や動物を科学者とはみなさない。しかし、種をまくと植物が育ち、それを食料に利用できることを予測した最初の原始人は、その後の人類と環境とのかかわり方を全く変化させ、それによって大きな科学的な力を取得した。人類の環境とのかかわり方は、社会の形を決定づける基本要素の一つであり、種をまくことによって人類の経済生活と社会生活は抜本的に変化した。

 ここで改めて強調しておく。科学の核心は予測にある。事象の観察と記述は、単なる歴史に過ぎない。過去に起こったことを基に、将来何が起こるかを予測できるようになって初めて、歴史は科学となる。この予測能力、すなわち過去のことを未来に当てはめる能力を通じてのみ、人類は現在を操り、その結果として未来を操ることができる。

 人類がホモサピエンスという単一の種となるはるか前の、もっとも初期の原始人は、予測こそすべての権力の源であることを知っていたようだ。人間以下の動物の中ですら、未来予測の能力を備えたものがいるようだが、利用できる証拠からはその数は少なく、多くは本能に従い、自動的な行動パターンを取っているようである。しかしながら、原始人は将来予測に夢中になっており、その他の未来予測能力を高度に発達させていた、それは神秘主義であった。科学と同様、神秘主義の本質は将来予測能力にあり、現在を操ることによって、未来をいかに変化させることができるかを教えるものである。

 ここで、神秘主義と科学をできるだけ簡単に定義してみよう。神秘主義は、経験的に観察された事実に基づかずに、将来を予測する。科学は、経験的に観察された事実に基づいて将来を予測する、と定義できるだろう。現代の知識人にとって、なぜこれほど長い人類の歴史において、過去の経験を利用せずに未来予測をしてきたのかを理解することは難しいであろう。ただ、科学が発達する以前は、人類の観察能力は極めて限られたものであったことに加え、観察能力があっても、観察することを拒んでいたということは驚くべき事実である。

 たとえば、サモスのアリスタルコス(Aristarchus of Samos)は、紀元前約200年に、地球は太陽の周りを回転していると唱えた。この優れた科学理論は、コペルニクスより1,700年も先立つものであったが、当時のプトレマイオスの理論を主たる根拠として、ギリシャの天文学者や哲学者から排斥を受けた。その議論は、もし地球が太陽の周りを回っているとしたら、高所から落とされた石は真下に落下せずに、角度を持った軌跡を描いて落下するであろうというものであった。この力学に対する誤った認識は、当時のギリシャ人であっても、2方向のベクトル成分を持った力が作用する落下物を用いた簡単な実験観察によって正すことができるものであった。信じられないことだが、この簡単な実験は、航行する船のマストの上から石を落下させる実験をガッサンディ(Gassendi)が行うまでの、その後の1,900年間にわたって行われることはなかった。石はマストの根元に落下し、石には船の進行方向の運動も加わっているが、落下方向にもその成分が加わっているので、見かけの落下位置にその影響は表れないというガリレオの法則がこの実験で証明された。

 ギリシャ人も船を持っていた。アリスタルコスでもプトレマイオスでも、これと同じ実験を行うことはできたはずである。そうすれば、科学は2,000年も進歩は速まったであろう。なぜ、ギリシャ人はこの実験を行わなかったのであろうか?この質問に対する答えは複雑になり、今では明らかにできない点もあろう。しかしながら、一つの要因は明らかである。ギリシャ人は、自然や宇宙、力の作用に関する重要な発見が、単純な観察によって導くことができる、という重要な予測を信じていなかったのである。その代りに、真実は純粋理性によってのみ導かれるものと信じていたのである。彼らは、すべての真実は、ユークリッド幾何学と同様に導かれるものと考えていた。純粋ではなく、不完全で、信頼性の低い感覚器官を通じた知覚を通じて得られた結果に依存することなく、超越的な力を通じて純粋理性で真理は導き出すことができると考えていたのである。このような神秘的な考え方によって、プラトンの理想主義やアリストテレスの論理学が発達し、それらは現在の法理論に浸透している。

 神秘主義は、原始的宗教のアニミズム、占星術などの占いの純朴さ、伝統的哲学の理屈に見られるものだが、それは予知の手段として用いられる。すべての神秘主義は信仰、確信、信念に基づいている。人の心は、信仰を行動に移すようにできている。そのようにして起こる人間の行動は、現在を操ることによって将来を変化させる。それによって、神秘的な信念が、何か真実のように思えるようになり、予想されたことが実際に起こったりする。神秘主義は、人類の世界で強力な力となり、先史時代から現在に至るまでの間、実際に作用するものとして生き残ってきた。神秘主義が予想したことは、偶然に賭けるよりは分が良かった。これは、予言が自己達成される心理的メカニズムによって実現される。信仰を持つ人々は、信仰が実現されるように行動する。

 不運にも、予言の主要な手段として神秘主義を執り行う者の中に、宇宙の原理について予言するものは誰もおらず 唯一の例外として人間自身につての予言は行うものの 自己実現につながる予言に過ぎなかった。神秘主義は、自然の厳しさを受容するという難しい作業を常に行ってきた。それを避けるために、魔術による錯覚、奇跡、儀式、宗教や願掛けに逃避することになった。神秘主義は、空想の破綻の言い逃れをするための、手の込んだシステムを延々と構築してきた。それらの大半は、神秘主義による予言が、出まかせのペテンであることがばれないようにするため、経験に基づく観察結果によって試されることを避けてきた。

 素朴な迷信だろうが手の込んだ哲学のように見えようが、宗教の形を取ろうが、法律の形を取ろうが、どのような形の神秘主義も、人々を操るもっとも強力な手段であると私は信じている。なぜなら、それは自己実現につながる予言となり、人間の将来の行動を予言したり決定することができるからである。しかしながら、それは宇宙のその他の部分に何らの影響も与えない。とりわけ、人間の身近な環境を作り上げている物事の多様性の理解には、何の役にも立たない。そのためには科学が必要となる。

 神秘主義は、すべての人々行動を予言したり決定することはない。単に、それを深く信じている人に作用するだけである。信心や信仰がなければ、自己実現につながる予言は存在せず、信仰の厚い人々の行動は予測できても、信仰心のない人々の将来の行動を予測することは不可能である。信者たちの将来に及ぼす力は、懐疑心があると奪われてしまう。そのため、迅速な改宗と信心が要求され、信者には狂信的になることが要求される。わずかな懐疑心も、予言どおりに行動する心理的な力を大幅に奪ってしまい、人間の行動を期待する方向に向かわせる力が弱まり、予言したものとは異なる行動をすることにつながってしまう。

 その結果、神秘主義者は科学者とは対照的に、経験に基づく観察結果を重視せず、その結果を自身のみならず他者が利用することをも許さない。観察結果によって不確実性が生じ、懐疑心を生むことになり、それによって彼の予言能力は大幅に弱まり、彼の将来に対する決定力を単なる偶然任せの予言へと弱めてしまうからである。

 しかしながら、神秘主義は科学の経験的客観主義に対して、一つの計り知れない強みを持っている。神秘主義への信仰と信念(とりわけ宗教や道徳の形をとったもの)からは価値が生まれる。他方で、科学は価値を生み出さない。科学は、単に観察をし、その結果を記述するだけである。

 この点を分かりやすく説明しよう。橋を架けることは、それ自体は科学ではない。単なる機械的な作業の積み重ねで橋は架けられ、それによって生活の利便への欲求を満たすことができる。ただ橋を架けるためには、橋に掛かる荷重を推定し、橋を建設するのに必要な材料を選定して設計するために科学的な原理が必要となる。そこで正確な予測を行うことができれば、実用可能な橋が完成する。もし予測を誤れば、完成した橋は崩壊するであろう。しかし、いかなる工学知識も、橋の建設が良いことであるとか、橋を建設しない方が良いとかを告げてはくれない。また、橋を渡りたい人がいるかどうかを予想できる科学者もいない。さらに言えば、人々が橋を渡りたいと思うように将来を導きたいのであれば、神秘主義の信仰の方が、科学より強制力が強いことが分かるであろう。しかしながら、人々が橋を渡るかどうかを予想する、よりよい手段を科学が提供するであろうことにも注目したい。

 このような観点でみると、科学が我々の周囲の自然環境を驚くほど支配してしまい、その範囲は全宇宙にまで及んでしまったことに、20世紀のジレンマがあることがよく分かる。現在の我々にとって、宇宙旅行も可能となっている。宇宙の起源からその行く末までを、科学的に解明できるようにもなってきた。原子に潜む謎をほぼ解明でき、物質そのものからエネルギーを取り出せるようなところまで来ている。原子力エネルギーを利用して、安価で便利な夜間照明を家庭に点灯し、水素爆弾を使えば、人類のある民族全体を効率よく絶滅させてしまうことまで可能となった。残念ながら、科学はどの道を選ぶべきかを我々に教えてくれることはない。それを決定するためには、価値を図るシステムが必要となる。倫理的、人間的な価値を創造するためには、神秘主義の産物である信仰に訴える必要がある。

 ここで、神秘主義が、倫理的にも宗教的にも、さらには迷信の点においても、この2000年間に大して進歩していないという困難な問題に直面する。この、2、3世紀の間に生まれた新しい価値観は、いずれも数千年も前から知られていた基本的価値観と大した相違はない。特に法律は、倫理、道徳、正義、善と悪などの価値観、さらには強制力を伴った状況でのこれらの価値観と関係している。価値観について知られていること、あるいは語られていることをすべて集約すると、古いものにたどり着く。価値の法則は西洋社会の4大文明の起源にたどり着くというものである。それらは、ユダヤ文明、ギリシャ文明、ローマ文明とキリスト教文化である。現代法についての諸説の大半は、これらの異なった文化の中から取捨選択と融合の上、全体的にうまく機能するように合理的に作り上げた価値基準となっている。

 法律は、価値観を告げるだけのものであってはならず、それを執行しなければならない。法を執行するためには、信仰、信念や確信の力に頼らざるを得ない。大半の人々は、法に対する信頼感を抱いており、法律は道徳的価値観を表明したものであると信じている。文化の神秘性を共有せず、法律に懐疑心を持っている人々に対して、法は執行力を発揮し、物理的力と心理的な強制力をもって、その価値観を押し付ける。もちろん、最初の段階では、法を信じない者たちを捕まえ、彼らが法律を信じないものであることを明らかにし、続いて何らかの方法で彼らを処罰するという段階を踏まなければならない。司法行政機関は、これらの段階に応じて、警察、裁判所、刑務所と処刑場で構成される。そして、前に掲げた4つの文明は、すべて明文化された法律を好んでいたことから、我々も法律を明文化している。そのためには、法律と規則、さらにはその立法府が必要となる。法律は吟味し解釈する必要があることから、この機能を果たす控訴裁判所が用意されている。弁護人と裁判官が警察、検索、刑執行者を兼ねてはならないという実務上の理由から、これらの機能は政府機関に任されている。これによって、法律は、完全な形で確実に政治機構と一致している。

 司法制度は、立法者から刑の執行官まで多くの人々によって遂行され、極めて複雑な一連の社会的活動となっている。それぞれの関係者が固有の仕事をしており、それぞれが固有の問題や不十分な点、そして失敗を抱えている。絞首刑の代わりに行われることとなった電気椅子などのわずかな例外を除くと、法の執行に科学はほとんど関与していない。なぜ、法律がここまで非科学的なのであろう?法律がさらに科学的になると、社会にもっと役立つであろうか?

   私はこの疑問のうち最初の、「これほどまで科学が社会に浸透している現在においても、法律はなぜこれほどまで非科学的なのか」に対して答えることは容易と考えている。2番目の疑問に対して答えることは、これよりずっと難しいと考えている。

(4) 自然科学と社会科学

 科学的手法が司法制度に利用されていないのは、科学の発展の歴史的経緯の結果である。現代の自然科学(いわゆるハードサイエンス、物理科学あるいは精密科学)の発展の歴史は、16世紀のコペルニクスとガリレオにさかのぼる。ケプラー(Kepler、1571-1630)とニュートン(Newton、1643-1727)からアインシュタイン(Einstein、1879-1955)とプランク(Planck、1858-1947)までは、素晴らしい科学の成果が連続して得られ、物質とエネルギー、空間と時間、そして宇宙に対する我々の知識は革命的に進歩した。自然科学は我々に素晴らしい予測手段を提供し、エネルギーと物質に対する信じ難いほどの力を与えてくれた。一方の神秘主義は、この自然科学と予言と操作能力を競っても勝ち目はなかった。自動機械を用いた大規模な工場を作ったり、航空機を飛ばしたり、宇宙空間に飛行士を送ったり、悲劇的なことだが戦争に科学技術を用いるときに、現代人は信仰や祈りや迷信を用いることはない。経験的観察と実験に基づく自然科学は、現代のすべての科学技術の基礎となっている。

 しかしながら、人々の生活に関連した科学は、最近になって発展し始めたばかりである。医学を含む生命化学は19世紀に始まり、心理学や社会学の大半は20世紀になってから生まれた。生命科学の進歩は著しく、病気の治療や根絶、寿命の延長や食糧の生産や加工に目覚ましい成果を上げた。テレビや航空機のような物理科学の恩恵の多くが生み出されたのも、日々の食料を調達するための骨の折れる作業から多くの人々が解放されたからこそ可能になったことである。生命科学による農業と畜産の進歩によって食料生産の効率化が進んだことによって、多くの人々が都市部に移住したことから、我が国は農村経済から都市経済へと転換した。このような都市の発達は、たぶん物理科学が生み出した技術をフルに活用するために必要であっただろう。しかしながら、物理科学も生命科学のどちらも、長い目で見て、これらの技術開発が良かったのか悪かったのかを教えてはくれない。さらに悪いことには、寿命が延びて健康となり、食べるものも豊富で技術的に進歩したこの生活によって、人々が以前より幸せになり、もっと平和になり、自己実現が進んだのかを、経験的観察によってもいまだ明らかにできないのである。

 心理学、社会学や人類学などの社会科学(ソフトサイエンス)は、未だ創成期にある。その発達は、高々19世紀後半にしかさかのぼれず、その後も細々とした進歩しかしておらず、心理学のコペルニクスもアインシュタインも見当たらない。社会科学の分野で活動している科学者が、本当の科学者であるか否かもはっきりしていないとさえ言える。社会科学が用いる技術や手法は古典科学のものとは異なる。その経験的観察は曖昧で不確かなものである。さらに、もっとも価値のある科学的器材や数学を効果的に使用することができないのである。それは、いまだに神秘主義者が科学者としての仮面をかぶった状態にあり、観察や実験よりも信仰や信念に頼っているようにみえる。

 法学が扱う対象は倫理や道徳の問題であり、人間の行動やその規制を対象としていることから、法学がもっと科学的になるとしても、それが頼るべきものは主に社会科学であることは明白である。社会科学が、二千年以上にわたって我々が利用してきた伝統的な神秘主義的手法より強い力を、人間の行動予測と行動決定をする際に発揮できるか否かは、現在のところはっきりしない。人々に社会が望むような行動を強制する上で、社会科学がもつ力は弱いだろう。このことから、法学が古い概念を放棄して、心理学や社会学が提示する派手な新モデルに飛びつかないことはもっともだ、と私は理解している。

 それにもかかわらず、人間の問題における神秘主義とソフトサイエンスの力関係が変化するときは目前に迫っていると思う。心理学と社会学と、それに関連する人類学や犯罪学などの行動科学は、間もなく人間の未来行動に強い影響を与えるようになるだろう。それは、信念や道徳規範や精神性よりもっと一貫性があって有用な形で利用されるようになるであろう。そうなれば、人間の行動を規制する法学も、神秘主義よりも科学に頼ることが多くなるだろう。

 私はまた、法学は神秘主義を排除するにあたって、選択肢はそれほどないものと考えている。あらゆる分野で科学が応用されるようになり、それも実体を伴った物質的な恩恵を享受できるようになった現在、非科学的な理論や手法に基づく信仰の道にとどまろうとする人々は、明らかに少なくなってきているように思える。先に述べたとおり、法律は、大半の人々に対して法的強制力を発動する必要がないことを大前提としている。人々は、法律が明言しているとおり、法律が人々の生活に不必要に干渉しないと信じている。しかし、我々は、禁酒法時代のような確かな経験から、法律が主張する価値観が大多数の人々によって共有されないと、法律違反が頻発することになり、法執行のメカニズムは、膨大な事件数の重圧に耐えられなくなって破たんすることが分かっている。

 すでに説明したとおり、ある種の道徳的態度は、もはや昔のように行き渡らなくなっている。このことは、多くの人が法律が要求するものに反した行動を取ることを意味する。それは、知能犯、窃盗、小切手偽造、性的倒錯、薬物乱用、青少年の犯罪などの顕著な増加となって現れている。すでに刑法がこれら多くの犯罪のごく一部にしか有効に対処できていないということは、残念ながら認めなければならない。民法も大変なことになっている。個人による損害賠償訴訟の件数は急激に増加しており、肥大化する政府とともに行政法は複雑化し、離婚訴訟などの家庭内の法律問題が増加し、社会保障に伴う法律問題も複雑化し、これらすべては我々の司法制度の脅威となっている。

 さらに事態を複雑にしていることは、最高裁判所は刑事事件の裁判の質と倫理的基準の引き上げを決定したようだ。たとえば、これまであまり問題となっていなかった人種差別問題などへも法律を適用しようと考えていると思われる。これらの圧力に応えるためには、法律の守備範囲を大幅に拡大するか、あるいは人間の行動のかなりの部分を法規制対象から外してしまうか、それとも法律をもっと科学的にして、より効率的なものとするかの対策を取らなければならなくなってきている。私が想像するところでは、法律は、この3種類の対策をすべてとることになるだろう。

 どうすれば法律がもっと科学的になれるであろうか?それと同時に、これまでの伝統的価値観がすっかり揺らいでしまい、科学も新たな価値観を与えてくれないこの世界を、どうすれば法律が的確に制御し、価値観の基準たる立場を維持し続けることができるだろうか?私には、この問題に対する答えは、新しい世代の法律科学者の手にゆだねられていると思える。

(5) 科学的手法

 法律に科学を適用しようとするとき、多くの法律家が科学の成果を直接的に法律に応用したがるように思える。このような法律家は、科学が生産したものの消費者にはなれるが、法理論や法手続きに科学を応用することにはならない。たとえば、法律は、酒気帯び状態の決定には大変熱心であり、その決定は法律の目的にもなっている。したがって、法律は呼気中や血液中のアルコール濃度を、ためらわず証拠として受け入れている。そのような科学的証拠を法廷で認める裁判官は、科学を扱うことができて、自らを現代的で科学的と感じているだろう。ところが、彼は本当は科学的ではない。彼は単なる科学の消費者であって、それはテレビを購入する消費者と同じレベルなのである。法律を真に科学的にするためには、さらに突っ込む必要がある。アルコール依存症の本質の解明や、法律を含めて社会がいかにしてアルコール依存症問題と取り組んでいくかの問題解明に科学的手法を利用して初めて、法律が科学的になるのである。

 もっと一般化した議論をすると、科学的な法学というものは、科学的手法をその理論、価値観と業務に対して直接用いるものでなければならない。新たな法規制に対する一般大衆からの抗議の処理から、各種係争問題の最終的決着に至るまで、すべての段階で科学的手法を用いて精査する必要がある。法的な手続きに関係する人々の中のすべてではないにしても、大半の人々が、ある種の科学者となり、科学的理論と手法をその業務に応用しなければならないだろう。その中で中核となる人々、裁判官、刑罰学者、警察官、労働争議仲裁人など業務の大半は意思決定である。すでに意思決定において科学は大きな役割を果たしているが、現在、意思決定に関する真の科学が急速に発展しており、複雑な意志決定過程を解明可能な、革新的な手法が開発されつつある。軍は、他のどの社会機関より科学的手法を積極的に取り込んで来ており、この種の先進的な数学的手法を、物資輸送(兵站)の決定過程に導入している。なぜ法学がそれをできないのであろうか?

 行動科学の成果の大半は、法学によって消費されるところまで、未だ十分熟していないと私は認めざるを得ない。したがって、行動科学者の主張を受け入れることに、法学が慎重になっていることに疑問を差し挟むつもりはない。たとえ私の専門分野である精神医学が認められなくても反論しない。科学的手法は、それとは全く異なったものである。科学的手法の有効性と信頼性はほぼ500年間にわたって、絶え間なく証明されてきた。今、法学に正しく適用できるものは科学的手法であり、その恩恵は莫大なものであると私は信じている。

 科学的手法は複雑なのものでも不可解なものでもない。手短に言えば、これまでの観察結果に対して、帰納法を用いて一般理論を導き出す手法である。これらの一般理論は、試験によって有効性が検証される。予想が的確であるか否かの検証には、さらなる帰納法と時には演繹的な手法を用いて検証される。これらの予想は、さらなる観察結果によって検証され、新たな観察結果と理論による予想が対応するものであれば、一般原理(理論)は真実の近似として許容される。

 ここで用いられる観察結果は、常にとまでは言えないが、しばしば人為的に単純化された条件の下でなされる。この単純化によって、影響因子を限定することができ、科学者が興味の対象としている変数の影響が分かりやすくなる。これが科学的実験の意味するところである。科学の中には、たとえば天文学や社会学などのように、適切な実験をすることが困難であったり不可能なものが存在する。そのため、これらの科学は、自然現象をそのまま実験として利用する。そこでは、自然に生じた事象を観察し、その事象にもっとも大きな影響を与えたと思われる変数を探し、影響の小さかったと思われる変数を考慮の対象から外す。当然のことだが、実験のできないこの種の分野で仕事をしている科学者は、時間の大半を好都合な結果が得られる自然現象の発生を待たねばならず、研究の進行ペースは遅くなる。非実験科学と誰もが認める天文学であっても、時には実験手段が考案される。人工衛星の軌道解析は、天文学の実験に違いない。

 行動科学で臨界実験を考案することはたやすく、それができれば、行動科学の進歩が急加速されることは間違いない。しかしながら、そのような実験は、純粋科学的な視点からはもっとも望ましいものであっても、倫理的、あるいは人道的な観点から完全に禁止されている。そのため、行動科学者は、重要性の低い実験を行うか、めったに起こることのない自然発生する現象を観察できる機会を気長に待つしかない。

 行動科学の対象はあまりにも複雑すぎる。人間のもっとも単純な行動ですら、膨大な数の変数が含まれることから、行動科学は自然科学と比較して成熟が遅れている。宇宙の起源について解明することの方が、人間の一つの小さな考えがどこから生じたのかを解明するより易しいかもしれない。人間の神経システムは、この世に存在するすべてのものの中で、けた違いに複雑な構造をしている。人間が成長の初期の過程で、子供が母親のことをなぜ「ママ」という言葉で呼ぶようになるのかを解明するより先に、生命の秘密を解明し、実験室の中で化学物質から生命体を創造する方が先かもしれない。いずれにしても、これまでの科学的発見も、これからなされる科学的発見のいずれも、科学的手法の成果であることには変わりない。

 科学的手法は、見かけによらず単純なものだ。それは、何世紀にもわたって、果敢な勇気を持った多数の人々の、血と汗の結晶として得られた知識の応用である。それを制限する要因は、人間の知的能力ではない。古代ギリシャのすべての哲学者は科学的思考をする十分な知的能力を持っていた。しかしながら、彼らは科学的思考をしなかったし、それができなかった。なぜならば、彼らの精神は、世界を取り囲む神秘的なものの見方によって科学的思考を妨げられていたからである。彼らが科学的思考をしようとしても(彼らはしばしば自らの思考を科学的と考えていた)、彼らの考え方は、洗練され精緻にはなっていたとはいえ、単なる神秘的なものであった。神秘主義的先入観から解放されて現実観察を行い、知識を集積するには、それから2000年も待たなければならなかった。そうしてようやく科学的手法の選択が可能になった。

(6) 経験的観察とフィードバック

 科学と神秘主義との最も大きな違いは、科学はフィードバックという手段を用いている点にある。フィードバックとは、ある手法の出力が、その出力を生み出す手法の制御に用いられるということである。フィードバックは自然界ではごく普通に存在するもので、生体内の作用にはフィードバック機構が働いている。そしてそれは、すべての生物の生命活動に恒常性をもたらす上で本質的な働きをしている。生物が生きていく上で産出されるすべてのものは、工場で生産される消費財とは異なり、外に排出されてしまうわけではない。生体内で産出されたものは、それを産出する過程を制御するために用いられる。工業製品におけるフィードバックの簡単な例は、温度調整機能付き暖房器にみられる。暖房器の生産物は熱である。この熱は主に室内を暖めるために用いられるが、その熱の一部は、暖房器具をコントローするサーモスタットにも作用する。これによって、生み出された熱が、その暖房器具のオン・オフを行い、発熱量を制御できる。その結果、外の気温が上下したとしても、室内は暑すぎたり寒すぎたりせず、温度が一定に保たれる(恒常性が維持される)。

 工業製品の出力を制御するものは、サーモスタットや蒸気エンジンの調速機(ガバナー)などの単純な機械的な部品であるか、自動車の運転手の知覚の場合もあろう。科学の世界では、この制御機構は、経験的観察や推論によって得られた考えに、最終的に組み込まれている。種を植え付けた原始時代の科学者は、どの種を植えれば成長し、どの種は成長しないかを経験的観察結果から会得しており、植物の成長に必要な降雨量や土壌の質などの条件についても推定していた。そして、これらの観察結果をフィードバックして、植物の植え付けの手続きに応用し、生産量を適切に保てるよう作業を調節していた。満足な成長をしないと予測された時点で、その種の植え付けを中止できれば、彼は真の科学者となっていた。

 法律を含め神秘主義の世界では、これができない。その世界では、プラトンのように、物事はどうあるべきか、物事はどうなされるべきかという視点から推論された。彼らは、信念の証となる行為を勧め、信仰をくじかないように、懐疑心が生じないように、不確かなことが発生しないことを眼目に行動することが良しとされ、得られた観察結果をフィードバックしないように細心の注意を払っていた。このような神秘主義の利点は明らかである。そのシステムは、異議や議論を投げかけられない。そのため、恒久性と安定性が極めて高く、数百年の間、いや数千年にわたって変化せずに持続した。手続きの確実性と正確性に対する信頼は価値観を生む。確信を抱くことによって自主性が生まれ、その手続きに参加している人々の信頼を勝ち取り、さらにその恩恵を受ける多くの人々からも信頼されるようになった。

   特に、このような主体的な価値観と経験的観察事実をフィードバックしないことにより、それに参加している人、それから恩恵を受けている人たちは、夜よく眠ることができた。価値観に対する信仰と手続きが正しいと信じることは、不安を取り除き、疑問や疑念を振り払い、期待通りのことが実現されるとの錯覚を与えるからである。特に、人生に目的を与えてくれる。すなわち、人は、その刹那の利己的欲望を満たすことを超越した目的に対して、何事かをなすべきだという目的を持たせてくれる。神秘主義が目指す究極の関心事は、人生に目的と意味を与えることであり、さらには宇宙とは何かという問題を解くことである。これは、宗教にとってのまさに基本の問題であり、法律も他の神秘主義的手続きと同様に、この点について、神学的土台に深く埋め込まれているのである。

 このようなシステムは、それが生み出すものの価値のいかんにかかわらず、変化せずに生き残る能力がある。ただ、それが生み出すものは幻影ばかりではないということを強調しておきたい。この心理的効果は、人間に行動を起こさせたり、その行動を制御する力があり、 自己達成の予言としての一定の機能を果たす。

 たとえば、法律は、犯罪行為を抑止する主な手段として刑罰を用いる。社会学や心理学によれば、刑罰の効果は多種多様であることを容易に示すことができるが、法律によれば、刑罰の目的は犯罪抑止である、と単純明快である。刑罰によって犯罪を抑止できると、法律は数千年にわたってその信仰箇条としてきた。法律の部内者、部外者を問わず、大半の人がこれを真実だと信じ込んでいる。これほど多くの人々が信じているのだから、ある程度これは真実であろう。ただ法律が刑罰の結果について、経験的観察によって試験されることを注意深く避けてきたことを見れば、この信念には神秘主義的性格があることは明らかである。刑罰が犯罪を抑止できないという経験的観察結果に直面しても、法律は、その観察結果を法律の手続きにフィードバックすることを拒否し、刑罰が犯罪を抑止するという基本的信念を変更することを拒み、犯罪行動に影響を与える新たな手法が発展する可能性を妨げてきた。たとえフィードバックが許されたとしても、それは現状を肯定するフィードバック(ポジティブ・フィードバック)だけであり、現状を否定するフィードバック(ネガティブ・フィードバック)は許されない。科学が用いる試行錯誤法は、ポジティブとネガティブの両者のフィードバックを用いる。結果の出力は、手法の加速と減速の両者に用いられる。しかし法律は、刑罰によって犯罪を抑止できないことが分かったとしても、改善策は唯一、厳罰化でしかない。これは犯罪対策における立法面の典型的取り組み方である。

 法学がもし科学的であったなら、法学はどのように対処してきたであろうか?単純に言えば、対策の効果をできる限り綿密に調べ上げ、刑罰によって抑止できる犯罪の種類と犯罪者の種類は何かを明らかにし、刑罰によっても犯罪を抑止できない犯罪の種類と犯罪者の種類を分類するであろう。さらに、刑罰が高い効果を与える相手や環境、逆に効果の低い相手や環境について、特に強い関心を寄せるであろう。それから、経験的観察事実に基づいて、法学は、それまでの犯罪と刑罰の関係についての仮説を放棄するか、その観察結果を利用して、犯罪と刑罰の間の相互作用についての帰納的分析を行い、その関係についての新たな仮説を立てるだろう。このような新たな仮説は、行動計画において試験され、そこから得られた新しい結果が再び評価される。このような試行錯誤的実験を数百年行えば、様々な種類の人間と、様々に変化する環境の組み合わせにおいて、刑罰が犯罪を抑止する効果があるのか、それともないのかについて科学的な結論が導き出せるかもしれない。それによって、犯罪行動をコントロールするための効果的な対処法について、科学的で正確な相当量の知識が次第に集積されるであろう。異分野の科学的知識を利用して得られた結果まで、この分野にはめ込む(補間する)ことができれば、法学は現在の神秘主義による自己達成的予言を行うような手法から、もっと効果的に目的を達成できるようになるであろう。

 このような観察と実験によって、駐車違反のような犯罪行動は刑罰によって抑止することは容易だが、殺人のような犯罪行動は刑罰によって抑止できないだけでなく、実際には刑罰によって増強されてしまうことが発見されるであろう。さらに研究すると、我々のように犯罪学に携わっている者の間で高い可能性が指摘されている点であるが、ある環境下である種の犯罪を犯す者は、別の環境下で別の犯罪を犯す者と、犯罪を犯す動機が異なることが分かるだろう。したがって、法律が犯罪抑止の問題を解決するために生み出さなければならい手法の数は、膨大になるだろう。

 もちろん、今の法学でもこの程度の研究はできるだろう。それによって、法学がある程度は科学的になれるはずである。ところが、仮説の中にはよく成り立つものがある一方で、現実と合わない仮説もあるという観察結果を、今の法学は責任を持って認めようとしたがらない。なぜ駐車違反の罰則を強化すると駐車違反件数は減少するのに、殺人事件の刑罰を強化しても殺人事件の件数は減少するどころか、かえって増加するのかといった問題を研究することは、真に科学的な法学が行うべき分野である、と私は強く考えている。

 法学を科学的にするために研究しなければならないテーマは、掛け値なしに数千件は簡単に挙げることができるだろう。もし、すでに確立されている科学的手法を用いてこの種の研究を行うならば、人々の行動を制御する上で、法律がどのような効果を発揮できるかの予測能力は向上するであろう。この予測能力によって人々の行動を制御する能力が生まれ、それが結局のところ法律の主たる仕事なのである。

(7) 帰無仮説と確実性の探究

 科学的手法で用いられる帰無仮説とは、科学の領域内の概念に適用され、経験的観察によって否定されるべき概念(仮説)のことを意味する。(科学の領域内の概念とは、科学的手法を用いて研究されるテーマで、それから科学的演繹と帰納が行われるものである。)

 科学的に有効な理論では、その理論が正確であることは要請されない。要請されることは、その理論が扱っている実際の事象を観察することで、その理論を否定することが可能なように理論が記述されていることである。したがって、惑星は太陽の周りを楕円軌道を描いて回転しているということは、科学的理論として提案することは可能である。この理論は、数学的に推論することもできるし、一定の経験的観察によって、これを否定することもできるだろう。理論を提出したら観察を行えばよい。それによって理論が否定されたら、理論は放棄される。理論が否定されなければ、その理論は、とりあえず近似的に有効なものとして受け入れられる。

 科学的仮説が、このような否定形で提出される理由は、観察結果によって理論を肯定的に証明したとしても、それによって、その理論の恒久不変性や確実性を証明したことにはならないからである。理論には、新たな観察によって修正や改良を絶えず加える必要がある。無限の観察によってのみ確実性を達成することができる。

 この手法の対極に位置するのが、古代の天文学の神秘理想主義である。惑星は、完全な円軌道を描いているものと信じ込まれていた。この理論は、きわめて神秘主義的色彩の強い信仰の上に成り立っていた。それは、神が惑星軌道を創造し、神が創造したものであるから完全なものに違いない。円は完全なものだが、楕円はそうではない。もし、人間の観察結果が円軌道を否定しているとしても、それは人間の知覚に欠陥があることを示すもので、惑星の円軌道を否定するものではない、という理論である。自然現象に対するこの種の理論は面白いかもしれないが、それを論理的に否定することはできない。ただ、この種の理論は、神秘的心情には訴える力が強く、確かなものとして永続的に受け入れられ、その後新たな観察結果が得られても変更できない性質がある。残念ながら、この理論は空虚なもので、我々がそれまでに仮定していたこと以上のことは何も伝えていない。神秘的心情は、その理論が空虚であることを認識することがきわめて困難である。その論理が必然的に空虚になることを理解するには、初等論理学を用いる必要がある。そのためには、ライヘンバッハ(Reichenbach)が1951年に著した素晴らしい著作、「科学哲学の形成(The Rise of Scientific Philosophy)」を読まれることを皆様に勧めたい。

 法律家の意識は、常に確かなものを探し求めており、一方では、科学は確かな答えを与えるものと素朴に思っている。精神鑑定が頻繁に受ける批判は、精神医学は精密科学ではなく、それから得られた知識は確かなものではないというものだ。精神分析医は、悪気のない裁判官から「何百年か後に精密科学になった暁に、また法廷で証言してください。そうしたらもっとはっきり証言できるだろうし、法廷もその証言を歓迎したい。」と慇懃にいわれることがある(裁判官は、おろかにも自然科学を信頼できるものと考えているようだ)。しかし、法律がそれまでに、精神科医の証言や理論を受け入れる状態になっているはずはない。裁判官は、自らが空虚な夢を語っていることに気づいていない。精神科学が法律分野の様々な問題に対して、価値のある多くの情報を提供しようとしているのに、裁判官はそれらを吸収することを自ら拒んでいるのだ。

 その一方で、裁判官は、彼らには「精密」科学と感じられる証言に、最も騙されやすい人々である。「精密」という言葉が意味するものは、通常、数字か、あるいはグラフや図表などの視覚に訴えるもので表現できるものと考えられている。発射痕鑑定専門家が、比較顕微鏡を用いて撮影した弾丸の比較写真や、精密測定器を用いて得られた腔旋痕の痕跡の測定結果は、裁判官の心情に強く訴えるものがある。法律家は、科学の価値と真実は、得られた数字や図表にあるのではなく、その手法にこそあることを学ぶべきである。法律は予測確率を探し求めるべきであり、数値で与えられた観察結果に騙されてはならない。たとえ、きわめてラフな推定であっても、問題となっている部屋の天井の高さが、一般の部屋の天井の高さよりずっと高かったという情報は、利用価値のある科学的観察結果である。これによって、見たことのない部屋の天井の高さを予想することができる。ある部屋の天井の高さが9フィート4.25インチ(2.85 m)であると正確に測定しても、それは科学ではない。なぜなら、それによって他の部屋の天井の高さについては何も分からないからである。それは単に、一つの測定結果に過ぎない。測定対象を単一のものに限定すれば、それを正確に測定することはたやすい。予測するには測定範囲を一般化する必要があり、一般化によって不確定なものが入り込む。科学における測定は、確率が関与しており、正確性だけが問題ではないことを法律家は認識すべきである。そして、行動科学などで語られる多くの興味深く価値ある意見は、数字を用いて語ることはできないのである。

 我々がすでに知っていること以上には何も主張していない定理は空である。空の定理は将来を予測しないばかりか、現実についても何も伝えていない。定義をしている範囲では正しいが、その内容に論理的操作を加えることはできない。「2+2=4」という定理は、その種の空な定理である。これは、定義としては正しい。ところが、数の体系を別のものにすれば、2に2を加えたら5になってもよい。すでに計算機の世界では行われているが、数の体系を変えれば別の答えが得られるのである。

 与えられた定理や論理の過程が空であるか否かを決定することは、常に易しいわけではない。そして、現代の哲学、論理学、意味論や言語学では、この問題を盛んに扱っている。特に空の質問について盛んに研究されている。空の質問とは、意味論上矛盾のある正しくない質問であり、答えは得られない。これらの、いわゆる意味のない質問は、きわめて不可解なものではるが、無意味であることを意味論的に見破ることは易しくない。意味のない質問の例として、「死後に命はあるか?」というものがある。この質問に論理的に答えることはできない。なぜなら、その答えがすでに質問の意味に含まれているからである。そして、それ以外のあらゆる答えは、「命」と「死」という言葉の定義を侵すことになってしまう。

 法学がこれまでずっと掲げてきた問題の多くは、この種の意味のない質問である可能性が高い。「正義とは何か?」は、その種の質問である。大半のの質問は、犯罪者責任の定義に関係している。傷害事件の被害を主観的痛感に変換し、慰謝料で賄うというのは、この種の意味のない定義の類であろう。法学が、その存立をかけた重要課題としている問題の多くを、優秀な哲学者たちが言語学的分析を行おうとしてることは、問題を弄んでいるようにしか私には思えない。

 有名な三段論法に次のようなものがある。「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。したがってソクラテスは死ぬ。」これは、「2+2=4」と同様に、定義を語る以外に何らの科学的内容も持たない空の命題である。どのような演繹的な分析を行っても、これから更なる内容を引き出すことはできない。

   一方で、次のような推論「これまで見たカラスはすべて黒かった。したがって、この世のすべてのカラスは黒い。」には、前提条件以上の内容を含んでいる。この主張は、未だ見たことのないカラスの色が、今まで見たカラスの色と同じであると推定している。ソクラテスの三段論法は真であることが保証されている。一方で、カラスの色の推定の正しさは、これを保証することはできない。それは真実の近似とみるべきであり、さらなる観察によって修正を受けなければならないものである。もし、黒くないカラスが明日発見されれば、この推論を放棄するのではなく、新しく得られた知識にも適合するように推論を修正することになる。それはこのようになるだろう。「これまで見たカラスは1羽を除いて、すべて黒かった。したがって、この世のほとんどのカラスは黒い。」カラスの色に関する二つの推定は、ともに確率を推定している。後の推定は、「ほとんどの」という確率を示す用語が含まれていることから、それを理解することは容易だろう。一方、ソクラテスの類の3段論法には、確率の推定は含まれておらず、更なる観察を加えたとしても、その信頼性が影響を受けることはない。

 事実の予測能力をもった論理導出法は、必ず帰納的手法を含むことが明らかになったのは、フランシス・ベーコン(Francis Bacon(1561-1626))の功績である。ベーコンは、さらに帰納的推測の限界についてよく知っていて、特にカラスの例のような列挙型帰納法については、その限界を知っていた。その種の帰納的主張には、常に誤りが含まれる危険性が存在する。しかしながら、予測の価値がある一般的論理を構築するためには、我々はこのリスクを取らなければならない。

(8) 法律における二値論理学

 法律は、二値論理学を継続的に使用することにより、演繹的合理主義から外れたものとなる。法律は、対象がこうあるべきか、こうあるべきではないかを仮定している。被告人は有罪か、有罪でないか?被告人は精神障害者か精神障害者でないか?極秘文書か、極秘文書ではなかったか?といった具合である。さらに言うと、法律は、対象がこうあるべきか、こうあるべきではないかを適切に決定できない場合は、証拠が不完全であることがその理由としてきた。もし法律が適切な規則(たとえばマクノートン・ルール(M'Naughten Rule))に照らしても、被告人が精神障害者か精神障害者ではないのかを決定することが困難な場合は、証拠が不完全であるか、証拠に間違いが含まれているに違いないと法律は判断する。そして法律は、もっと完全な証拠、もっと正当な証拠、あるいはもっと科学的に正確な証拠があるならば、その決定は容易となり、正しい決定が下せるものと考える。

 この決定が困難であった理由は二値論理学で物事を決めようとした点にあり、正当な証拠や正確な証拠がいくらあろうとも、多値の問題を二値で解くことはできないのだが、法律家の頭には、それが全く思い浮かばないのである。

 物理の世界で提唱されているハイゼンベルク(Heisenberg)の不確定性原理が、法律家の自由意思に対する信念を正当化するために使われている。これは私には形而上学的ナンセンスとしか思えない。「不確定性原理」の正しい意味は、あることについて知りたい思うと、人は同時に別のことを知ることはできない、というものである。さらに、ある種の矛盾は解決できないし、解決する必要もないということも意味している。

   因果律を信じ込んでいる神秘主義的合理主義者は、統計的確率論をある程度認めている。コインを1回投げたとき、コインの表が出るか裏が出るかを予想することはできないが、1000回コインを投げれば、コインの表と裏の出る割合がほぼ半々であることは知っている。ところが彼にはもっと知識があり、すなわちスーパーマンとなれば、コインを投げる時の手からコインに伝わる力加減から、周囲の空気の揺らぎに至るまですべて把握できれば、1回投げたコインの裏表を決定できると考える。これで彼は、厳格な決定論主義者となる。

 物理学者は、このような決定論主義者ではない。現代の物理学者は、すべての衝突力が分かったとしても、少なくとも原子レベルのある種の現象を推定することはできないことを知っている。たとえ量子論の統計的概念を適用しても、大量の原子核粒子の挙動は予測できても、一個の粒子の挙動は、一定の不確かさを持ってしか予測できない。我々はもはや、フランスの数学者ラプラス(Laplace(1749-1827))が思い描いたような、宇宙のすべての原子の 位置と運動量を知り、すべての数式を解くことのできる優秀な知能をもってすれば、宇宙の未来の出来事をすべて正確に予測可能であるというような夢を描くことはできない。一方法律は、未だラプラスのように、限りなく完全な証拠法を用い、限りなく正直で完全な証人がいれば、完全な正義が実現できると思い描いている。

 法律は自由意思の名の下に、決定論を拒絶したがる。ところが、法律によって決定可能であると思い込んでいることを見れば、法律が厳格な決定論に自信を持っていることが明らかとなる。もし、法律が科学的になろうとするなら、法律は、自らが大切にしている有罪と無罪に関する考え方や犯罪者の責任論の考えを放棄しなければならない。特に、精神障害者に法律を適用しようとするときはそうしなければならない。法律が人々の行動を理解できるようになるには、20世紀の物理学者が原子の挙動を理解するためにしなければならなかったことをなぞるようなことになるはずだ。

 原子核物理学者は、こうあるべきだ、いやこうあってはならないとったジレンマからはもはや解放されている。たとえば、電子のような素粒子を記述するには2種類の方法がある。電子は、時空間に明確な座標を有する小さな粒子として記述することができる。または、電磁波として記述することもできる。論理的な定義からは、波動は粒子ではない。したがって、この2種類の記述は、互いに両立しないものである。この点についての論議によって、原子核物理学の発展の経過で多くの時間が浪費された。この問題は、電子に粒子としての性質と波動としての性質の両者が発見されたことによって結局のところ解決した。そして、互いに相容れない物質の二面性は、単に観察者側の純粋理性の意味論の中にしか存在しないのである。たとえ電子の実際の構造を記述する適切な言葉が、科学者の頭に思い浮かばないとしても、それと観察者の言語上の問題であって、物理学の問題ではないとされた。この言語上及び概念上の困難さは、物理学の問題ではない。なぜならそれは数学の言葉で記述されているからであり、数学には本質的にこの問題がないからである。

 物理学者は、数学を用いることで、五感で得られる大局的でマクロ的な世界観から類推される限定的推定や、偏った観念から解放された。もし法律が人のことを理解したいなら、そして、人の行動を効果的に予測し、その行動を制御したいと思うなら、法律も使う言葉にもっと気を配らなければならないと私は思う。

(9) 結論

 行動科学を法律に応用することは可能と、私はきわめて楽観的に考えている。私が楽観的なのは、科学を法律に適用することが私の仕事だからである。また、私が精神科医であることもその理由であろう。すべての行動科学の中で、精神医学は、法律に最も影響を与えてきた(必ずしも良い影響だけではないが)。そのことから、法律が近い将来に、もっと科学的になるだろうと私は思っている。法律が科学的になるといっても、それが科学者の手によって行われるようになると私は思わない。そうではなく、法律理論や実務に、科学的手法を用いるようになるだろうということである。これによって、法律は現在の物理学や人類学のように科学的なものとなるだろう。そうなれば、法律の機能が、たぶんもっと効率的になり、現在うまく機能していない神秘主義的理論や手法を捨て去るようになるだろう。

 法律業務は、主に3つの大きな活動からなっている。決定すること。論争を解決すること。そして人間の行動を制御することである。これらが法律のアウトプットである。これら3つの出力を、それぞれ科学的に分析し、その分析結果を法律がその手続きの中で調節し、与えられた業務をさらに効率的に遂行できるようにフィードバックする。そのためには、法律はその手続きの中に、もっと科学的手法を用いて、科学的な観察を行う必要がある。

 この法律を科学的にする作業は、法律家としての観点を持たないアウトサイダーの手によって始められた。それはまだ十分ではない。法律は、自ら科学的法学を開発すべきである。弁護士や裁判官が、科学的手法にもっと習熟し、その手法を法律に適用できるようになり、自らの学問として発展させるべきである。

(2011.5.20)



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