銃器鑑定の歴史

 IAI銃器分科会編集

                      鑑識ニュース誌 第15巻6号(1965年6月)


(1) はじめに
(2) まえがき
(3) 第1部 銃器鑑識の発端
(4) 第2部 科学となった銃器鑑識
(5) 第3部 その後の発展
(6) 第4部 最近の研究について


(1) はじめに
 国際鑑識学会(International Association for Identification-IAI)は、1915年に設立された100年近い歴史を誇る学会で、鑑識関係では最も古い国際学会とされている。設立当初から、指紋鑑定を主な守備範囲とする学会であったが、これまで法科学の広い分野を扱ってきた。ただ、20世紀後半になって学問の細分化が進行するにしたがい、多くの分野が独自の学会に活動の場を移すようになった。そのため、今では国際法科学会での活動がほとんど見られない分野も多くなっている。銃器鑑識の分野もその一つで、1969年にAFTEという独自の学会が設立され、IAIの場で議論されることはほとんどなくなった。現在のIAIは、指紋、足痕跡、履物痕、タイヤ痕、顔貌識別、画像解析、デジタル解析分野などが主な守備範囲となっている。ただ銃器鑑識分野も、AFTE設立までの間は、IAIで積極的な活動を行っており、ここで紹介する文献は、その当時の活動の成果である。

 ここで紹介する文献は、当時IAI内にあった銃器分科会がまとめた銃器鑑識の歴史で、18世紀後半に始まる銃器鑑識の黎明期から、1963年に発生したケネディー大統領暗殺事件までがまとめられ、1965年6月の会誌に発表された。編集責任者は、銃器の安全装置の研究家として有名で、訳者も親しくしていただいたスタントン・ベルグ(Stanton O. Berg)である。仲間内では、彼のことをオーバーグと呼んでいた。編集者の中のアンディー・ハートとバート・ムンハルも、訳者がAFTEで顔を合わせたことがある懐かしい名前である。

 この文献は、20世紀半ばまでの銃器鑑識の歴史が詳細にまとめられていて、大変貴重な資料となっている。この文献も、訳者の畏友ジョン・マードック(John E. Murdock)を通じて入手した。なお、見出しの一部に、訳者が便宜上付けたもので、原文には存在しないものがある。

(2) まえがき
 (銃器鑑識の)歴史を集めて、最終的に以下の形式にまとめたのは私だが、データの編集は分科会のプロジェクトである。銃器分科会のすべてのメンバーは、例外なく独自の研究分野があり、歴史的情報について、各自の固有の貢献を果たした。分科会のメンバーは、アンディー・ハート(Andy B. Hart)、バート・ムンハル(Burt D. Munhall)、ウォルター・パーキンス(Walter E. Perkins)、フレッド・ライマー(Fred R. Rymer)とレスリー・スミス(Leslie L. Smith)である。
      スタントン・ベルグ(Stanton O. Berg)
      銃器分科会長

 この銃器鑑識の歴史は、重要事件、重要な出来事、重要な文献の発表などを、年代順に並べたものである。その歴史は、大きく3つの時代に分けた。それは、銃器鑑識の創世期、科学的な銃器鑑識の到来期、そして現在につながる銃器鑑識の発展期である。

(3) 第1部 銃器鑑識の発端
 銃器鑑識の発端は、1800年代半ばから20世紀になる頃のことである。この頃、銃創の研究が注目を浴びていたことは確かである。その頃の法廷では、銃創や、問題の銃器の最近の発射形跡の有無、発射薬残渣や発射薬パターンについて専門家に証言を求めていた。この頃から、口径を比較したり、腔旋痕の有無による簡単な発射銃器の識別も行われるようになっていた。

国・地域 出来事の概要
1857年 フランス
パリ
銃創に関する文献
  NoiHesにより小火器による銃創についての論文が出版される
1863年 アメリカ合衆国
南北戦争
バージニア州チャンセラーヴィル
口径と弾丸形状による簡易な発射銃器識別
 南軍将軍ストーンウォール・ジャクソンは、5月2日の夜に重症を負って死亡したが、その死には不審な点があった。その後、彼の傷口から回収された弾丸を検査したところ、口径約0.67インチの球形弾であることが判明した。そのことから、将軍は、部下が誤って発射した弾丸によって死亡したことが明らかとなった。この種の球形弾は、旧式となったマスケット銃(訳注:先込め式の歩兵銃)で使用されるもので、当時の北軍ではすでに使用されなくなっていた。一方、南軍のヒル師団では通常の装備銃であった。北軍が通常使用していた弾丸は、弾丸底部側が円筒形、頭部が円錐形となっている、口径0.58インチのミニエー弾であった。
1864年 アメリカ合衆国
南北戦争
バージニア州スポットシルヴァニア郡
弾丸形状のみに基づく発射銃器識別
 北軍将軍ジョン・セジウィックが、南軍の狙撃兵によって射殺された事件(ジョージア第4歩兵隊のグレース軍曹が、800ヤード離れたところから射殺したとされている)。この件では、弾丸が6角形をしていることを理由に発射元が特定された。この形式の弾丸は、南軍がイギリスから持ち込んだホイットワース社のライフル銃に用いられるものであった。このライフル銃は命中精度が高いことで有名で、主に南軍の狙撃兵や腕の良い射手が使用していた。
1876年 アメリカ合衆国
ジョージア州
モウグホン対州事件ジョージア州判例集第57巻102ページ
 この事件では、裁判所が銃器の取り扱い経験の長い証人の、専門家としての資格を認めて、銃器が最後に発射されてからの経過時間についての証言を認めた。この種の証拠が認められた初期の事例である。
1879年 アメリカ合衆国
ミネソタ州
ミネソタ州対ロウラー事件、ミネソタ州判例集第28巻216ページ
弾丸に残された腔旋痕を用いた簡易な発射痕鑑定が行われた事件である。
この話題に富んだ事件はウィノーナ市で発生し、フレンチ・ルーの名で知られる売春宿の経営者が関与していた。ルーを含んだ3名の紳士が激しい口論となった末、そのうちの一人が射殺された。残りの2名は、いずれも拳銃を所持しており、そのどちらが犯人であるかが問題となった。一人は、口径0.32インチのスミス&ウェッソン回転弾倉式拳銃を、もう一人は口径0.32インチのフード回転弾倉式拳銃を所持していた(訳注:フード(Hood Firearms Company)は、1875~1879年の間、コネチカット州で回転弾倉式拳銃の製造を行っていた)。裁判で証言を許された銃工は、スミス&ウェッソンの拳銃は腔旋銃身だが、フードの拳銃は銃口近くに見せかけの腔旋があるだけの銃だと証言した。さらにこの銃工は、死体から摘出された弾丸は、スミス&ウェッソンで発射された弾丸ではありえず、フード回転弾倉式見銃で発射されたとみられると結論付けた。
1883年 アメリカ合衆国
テキサス州
メイヤーズ対州事件、テキサス州判例集第14巻付録35ページ
裁判所は、銃器が最後に発射されてからどの位の時間が経過しているかについて、専門家が意見を証言することを認めた。その意見は、発射された、抑えの役割を果たすワッズと銃身の鑑定結果に基づくものであった。
1885年 フランス
リヨン
銃創に関する文献出版
回転弾倉式拳銃の弾丸で生じた射入口の法医学的研究。リヨンの法医学研究所論文集。
1889年 フランス
リヨン
回転弾倉式拳銃の発射弾丸の変形についての論文
犯罪刑法学雑誌第5巻ページ70-79。
1896年 アメリカ合衆国
カンザス州
州対アズベル事件カンザス州判例集第57巻398ページ。アメリカ太平洋州判例州第46巻770ページ。
この事件で裁判所は、銃器の取り扱い経験豊富な証人の証言を認めた。その証人は、証拠物の拳銃と、(その拳銃に装填されていた実包と)同種の実包を用いて、人間の頭髪と紙標的に対して、何通りかの近接射距離による射撃実験を行った。この実験によって生じた発射薬による焼け焦げ痕が証拠とされた。
1897年 フランス
パリ
小火器の弾丸に関する論文
Philouzeによる論文「短銃身銃器の発射弾丸」出版
1898年 フランス 射距離決定に関する論文
Corinによる論文「銃器から発射された弾丸の射距離の決定」出版
1899年 アメリカ合衆国
ニューヨーク
銃器を接射した時の傷害に関する論文
William B. Chisholmによる「接射の理論-フランク・N・シェルダン事件の顛末」法医学雑誌1899年6月号。
1899年 アメリカ合衆国
サウスカロライナ州
州対デイビス事件アメリカ南東部州判例集第33巻449ページ。サウスカロライナ州判例集第55巻339ページ。
裁判所は、銃器の取り扱いの経験豊富な証人が、銃器と打ち殻薬きょうが最近発射されたことを示す形跡があるか否かについて、専門家として証言することを認めた。
1900年 アメリカ合衆国
ニューヨーク州
バッファロー
腔旋痕による弾丸の異同識別の論文
アルバート・ホール博士(Albert Llewellyn Hall)がバッファロー医学誌の1990年6月号に「弾丸と武器(The Missile and the weapon)」を発表した。この論文は、初期の発射痕の異同識別の文献としては最も価値の高いもののひとつである。この論文は、1931年になってシカゴで出版されたアメリカ警察科学誌の第2巻311~322ページに再掲された。この論文には、弾丸径の測定法のみならず、旋丘痕と旋底痕の計測法が詳細に説明されている。さらに、メーカーによって弾丸のスタイルが異なることについても触れられている。さらに、銃身内に残存する発射薬と、それが時間の経過によってどのように変化するのかについても議論されている。
1902年 アメリカ合衆国
マサチューセッツ州
州対ベスト事件マサチューセッツ州判例集第180巻492ページ。アメリカ北東部州判例集第62巻748ページ。
裁判所は、銃身内の腔旋及びその他の痕跡が、その銃身から発射された弾丸に与える影響に関する専門家の証言を許可した。
1905年 ドイツ
ライプチッヒ
発射弾丸についての論文発表
コッケル(Kockel)による「専門家による発射弾丸の鑑定」が発表される。犯罪抑止誌、ライプチッヒ、1905年
1906年 フランス
ナンシー
小火器の法医学的研究
ジラール(Girard)による論文「小火器の法医学的研究」が発表される。


(4) 第2部 科学となった銃器鑑識
 銃器鑑識が独自の科学として確立されたのは、1900年代初めから1930年代にかけての時期である。弾丸や薬きょうの発射銃器を特定する鑑定は、この時期に初めて行われている。この時期に、比較顕微鏡が発射弾丸の比較に用いられるようになり、それは現在に至るまで銃器鑑識の標準的機材となっている。この時期に、銃器鑑識や銃器の研究に利用される多くの機材が考案された。銃器鑑識を扱った多くの論文と、何冊かの本が出版されたのもこの時期である。法曹界からの認識も、この時期に勝ち取っている。この時期は、まさに銃器鑑識の黄金時代であった。

国・地域 出来事の概要
1907年 アメリカ合衆国
テキサス州
ブラウンズビル
ブラウンズビルの暴動
打ち殻薬きょうによる発射銃器の特定
1907年、数名の兵士は、テキサス州ブラウンズビルで発生した暴動に関与した。その暴動の後、口径0.30インチのライフル銃用打ち殻薬きょう39個が採取され、その他に採取された数個の弾丸と何丁かの容疑のライフル銃と合わせて、フランクフォード兵器工場に鑑定送付された。フランクフォード兵器工場のスタッフは、これらの証拠物件を研究し、薬きょうに付けられている痕跡から発射銃器を識別する手法を考案した。39個の打ち殻薬きょうのうちの33個の薬きょうは、11個、11個、8個と13個の4グループに分類できた。そして、それぞれのグループに属する薬きょうは、容疑のライフル銃の中の特定の1丁と、それぞれ関連付けることができた。残りの6個の薬きょうは、容疑銃器の中のいずれとも関連付けることはできなかった。発射弾丸については、それを発射したライフル銃を特定する結論は得られなかった。
1907年 アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
ブラウンズビル暴動の事件報告書
「テキサス州ブラウンズビル暴動事件の発射弾丸と打ち殻薬きょうの研究」アメリカ陸軍軍需品部年報、35~36ページ。アメリカ政府印刷局、ワシントン、1907年
1908年 アメリカ合衆国
ウィスコンシン州
ポラック対州事件ウィスコンシン州判例集第136巻136ページ。
裁判所は銃器の射距離決定のための実験と、それに基づいた専門家の証言を認めた。その結論は、発射薬の汚れが、どれだけ離れても付着するか、どこまで離れてしまうと付着しないかを、実験を行って観察した結果から導かれた。
1909年~1913年 フランス
パリ
弾丸と薬きょうの発射銃器の特定
パリ大学のバルタザール教授(V. Balthazard法医学部教授)が、発射弾丸からその発射銃器を特定する手法を考案したのはこの時期である。彼の手法は、現場弾丸と試射弾丸の周囲の写真を何コマも撮影するものであった。弾丸周囲に残される腔旋痕の一連の写真を撮影した。続いて、それらの写真を拡大焼き付けして、拡大写真を用いて痕跡を比較した。バルタザールは、撃針痕、閉塞壁痕、抽筒子痕と蹴子痕を用いて、薬きょうの発射銃器を特定することも行った。
1909年 フランス
パリ
弾丸の発射銃器特定の文献
 「回転弾倉式拳銃から発射された鉛弾丸の発射銃器の特定」V.バルタザール、科学アカデミー論文集 第148巻188ページ。
1911年 フランス
パリ
銃創に関する論文
ノイル(Noilles)の論文「銃器による傷害」
1912年 ベルギー
リエージュ
射撃方向決定の論文
O.へノンショウ(O.Genonceaux)、N.ウェルシュ(N.Welsch)の論文「射撃方向決定手法に関する実験的研究」 国際法医学論文集、95~105ページ。
1912年 ベルギー
リエージュ
鉛弾丸に付けられる布目痕の論文
O.へノンショウ(O.Genonceaux)の論文「鉛弾丸に付けられる布目痕」 国際法医学論文集、第3巻365~374ページ。
1913年 フランス
パリ
弾丸の発射銃器特定に関する論文
V.バルタザール(V. Balthazard)の論文「銃器から発射された弾丸の識別法」 法医学会会報1912年3月20日号、同じ論文は、法医犯罪学論文集 第28巻421~433ページ(1913年)に再掲。
1913年 フランス
リヨン
自動装填式拳銃の打ち殻薬きょうの発射銃器特定の論文
V.バルタザール(V.Balthazard)の論文「自動装てん式拳銃の打ち殻薬きょうの異同識別」 法医犯罪学論文集 第28巻900~905ページ、1913年12月14日。
1913年 フランス
セントエチエンヌ
殺人事件の発射痕の論文
クリヴォラ(Crivolat)の論文「ベソン(Besons)郵便局における暗殺事件の弾丸と薬きょうの研究」
1914年 ベルギー
リエージュ
弾丸の異同識別の論文
G. コーリン博士(G. Corin)とヘノンショー(Genonceaux)砲兵司令官による「弾丸の異同識別の研究」、国際法医学論文集第5巻146~158ページ。
1915年 アメリカ合衆国
ニューヨーク
スティーロー殺人事件-型式特徴による単純な弾丸異同識別
小作人のスティーロー(Stielow)は、雇用主とその家政婦殺害容疑で起訴された。いかさま専門家が、致命傷を与えた口径0.22インチの複数の弾丸は、スティーローの拳銃で発射されたもので、それ以外の銃によって発射されたものではありえないと証言した。その結論の根拠は、それらの弾丸には、通常は見られない擦過痕が9本認められたというものであった。ニューヨーク州知事は、この有罪判決に納得できず、独自の調査を開始し、現場弾丸をボシュロム社のマックス・ポーザー(Max Poser)博士に鑑定依頼した。その結果、現場弾丸には、スティーローを有罪とした根拠になった9本の異常な擦過痕など存在しなかった。その一方で、現場弾丸の1条の旋丘痕幅は、他の旋丘痕幅の2倍あるという異常なものであった。それに対し、スティーローの拳銃の試射弾丸には、5条すべての旋丘痕幅と旋底痕幅が揃っている通常の痕跡が認められた。この痕跡の差は歴然としたものであった。この結果を得て、知事はスティーローを赦免した。
1918年 キューバ
ハバナ
拳銃弾丸による銃創の書籍出版
アントニオ・バレラス・フェルナンデス博士(Antonio Barreras y Fernandez)の「拳銃弾丸による銃創」
1918年 フランス
パリ
銃創の書籍出版
P.シャヴィグニィ(P. Chavigny)の「火器による傷害の評価」
1919年 ブラジル
サンパウロ
発射痕鑑定のための弾丸の線条痕の論文
フランシスコ・アントニオ・デルアピ(Francisco Antonio Dell'Api)の「腔旋銃身から発射された弾丸を識別する際の線条痕の価値」
1920年 アメリカ合衆国
マサチューセッツ州
サッコ・ヴァンゼッティ事件州対サッコ事件 マサチューセッツ州判例集第255巻369ページ
この有名な事件は、マサチューセッツ州サウス・ブレインツリーで発生した強盗殺人事件に関するものである。2名の被告はともに無政府主義者で、その結果として、民衆の大規模な抗議活動が巻き起こった。以来、この事件に関する1本の映画、数冊の書籍、数百本の雑誌記事や新聞記事が書かれた。この事件では、サッコとヴァンゼッティが結局処刑されるまでに、裁判が7年間続いた。被告の有罪の決め手は、主に銃器関係証拠に関する専門家の証言であった。現場弾丸の1個と現場薬きょうの1個が、サッコの口径0.32インチのコルト自動装填式拳銃で発射されたものと特定された。この鑑定結果は、後に行われた再鑑定結果で追認された。
1920年 ブラジル
サンパウロ市
打ち殻薬きょうの発射銃器特定の論文
この論文は、自動装填式拳銃で発射された薬きょうの異同識別に関するものである。ウルバノ・シルヴェイラ(Urbano Silveira)の「自動装填式拳銃の打ち殻薬きょうの異同識別」
1921年 アメリカ合衆国
オレゴン州
州対クラーク事件オレゴン州判例集 第99巻629ページ
この事件では、打ち殻薬きょうの発射銃器特定についての専門家証言があった。銃器鑑定の専門家として正式に認定された保安官が、容疑者のライフル銃の銃尾面にある小さな傷が、そのライフル銃から排出された打ち殻薬きょうの縁に、識別可能な痕跡として残された経緯を説明した。
1921年 ブラジル
サンパウロ
弾丸の射撃距離推定に関する論文
ホルゲ・ティビリカ・フィルホ(Jorge Tibirica Filho)の「鉛散弾の排出状態からの射距離の決定」
1921年 ブラジル
サンパウロ
弾丸射入口の傷と発射痕の論文
「回転弾倉式拳銃をウールの布地に向けて近接射撃した際の発射弾丸の射入口周辺の実験的研究」
1921年 アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
銃創に関する論文
ルイス・ウィルソン(Louis B. Wilson)の「弾丸エネルギーの消失と傷害の程度との関連について」軍事外科学誌 1921年9月号、ワシントン
1922年 アメリカ合衆国
ミズーリ州
州対ハーラン事件アメリカ南西部州判例集第240巻197ページ
裁判所は、資格を認められた銃器専門家の、発射銃器と打ち殻薬きょうとの間の距離がどれだけ離れていたかについての証言を認めた。
1922年 アメリカ合衆国
コロラド州
デンバー
弾丸の発射銃器特定の論文
C.G.ウイリアムズ(C.G. Williams)の「弾丸に残される指紋」アウトドア生活誌 第49巻ページ329-331、1922年5月、デンバー。
1922年 アメリカ合衆国
ニューヨーク州
イサカ
雷管の鑑定に関する論文
エミール・モニン・チャモ(Emil Monnin Chamot)の61ページにわたる研究論文「小火器の雷管の顕微鏡観察」
1922年 フランス
パリ
弾丸の発射銃器特定の論文
バルタザール(Balthazard)の「弾丸の異同識別:完成した技術」法医学会年報 第2巻30~32ページ。1922年1月。
1923年 アメリカ合衆国
オレゴン州
州対ケーシー事件 オレゴン州判例集第108巻386ページ。
裁判所は、「現場弾丸は被告人が所持している拳銃と同種のコルト・アーミー・スペシャル回転弾倉式拳銃によって発射されたものである」との拳銃専門家による証言を証拠として認めた。
1923年 アメリカ合衆国
コロンビア特別区
ランシー対合衆国事件 連邦判例集第294巻412ページ
裁判所は、現場弾丸が被告人の拳銃から発射されたとする専門家証言には証拠能力があると決定した。
1923年 アメリカ合衆国
コロンビア特別区
銃器鑑識に関する論文
R.E.へリック(R.E. Herrick)の「弾道学の法律論」 武器と男誌、第70巻第17号、1923年5月15日
1923年 フランス
パリ
銃創の論文
シャヴィグニー(P. Chavigny)とゲルマ(E. Gelma)の「回転弾倉式拳銃の近接射撃弾丸によって生じる頭部の裂傷痕」、法医学年報、第3巻、345~352ページ。
1923年 フランス
パリ
バルタザールの論文
バルタザール(V. Balthazard)の「弾丸鑑定手法の改良」法医学年報、第3巻、618~620ページ。
1923年 フランス
パリ
デ・リヒターとマージの論文
デ・リヒター(DeRechter)とマージ(Mage)の「発射弾丸と打ち殻薬きょうの異同識別の現状」法医学年報。
1923年 ドイツ
ライプチッヒ
弾丸の種類と発射銃器の識別の論文
フルスト(Hulst)の「弾丸の種類と発射銃器の決定」犯罪学雑誌、ページ300。
1923年 イギリス
ロンドン
銃器と弾丸の鑑定の論文
ルーカス(A. Lucas)の「裁判のための銃器と弾丸の鑑定」雑誌「分析者」にある。
1924年 アメリカ合衆国
コネチカット州
州対ハロルド・イスラエル事件アメリカ法律レヴュー誌 第59巻161ページ。
この有名な事件は、元アメリカ司法長官のホーマー・カミングス(Homer S. Cummings)が州検事をしていた時の事件である。この事件でカミングスは、被害者の頭部から摘出された弾丸は、被告の拳銃から発射されたものではありえないとする6名の専門家の証言を根拠に、イスラエルに対する起訴を取り下げた。この事件では詳細な議論がなされていることから、銃器鑑識の原理はこの当時すでに知られていたことが分かり、銃器鑑識が「確実な科学」として語られている。
1924年 フランス
パリ
発射薬の硝酸塩化合物の反応の論文
フォワチエ(M. Foyatier)の「発射薬の硝酸塩化合物の反応の研究」法医学年報 第4巻、521~526ページ。
1924年 イギリス
ロンドン
ヒュー・ポラードの論文
ヒュー・ポラードの「弾丸は何を語るか」ディスカバリー誌、1924年11月号。
原注 1925年以前のこれらの時期における発射弾丸識別の一般的な方法は、平らに伸ばした鉛箔や、歯科用歯型採取剤、ワックス、プラスチックの上で発射弾丸を転がして、痕跡を転写するものであった。転写された痕跡は、類似した痕跡の付けられた試射弾丸と並べて置いて比較された。例外はバルタザールの、写真を撮影して比較する手法であった。
1925年 アメリカ合衆国
ニューヨーク州
発射銃器の識別鑑定への比較顕微鏡の導入
ニューヨーク州検事総長事務局付き特別捜査官のC.E. ウェイト(C.E. Waite)、顕微鏡写真専門家フィリップ・グラベル(Phillip O. Gravelle)、工具設計と精密測定の権威者で、以前米国標準局に勤務していたジョン・フィッシャー(John H. Fisher)、米国軍需部予備役将校のカルヴィン・ゴダード中佐(Calvin H. Goddard)が集まり、「法科学弾道局」を設立した。彼らの活動の過程で、グラベルの提案の下、比較顕微鏡が銃器鑑識の分野で採用された。比較顕微鏡は、当時すでに類似したものの比較に利用されていたが、銃器鑑識分野で用いられたのはこれが最初である。比較顕微鏡は、現在でも弾丸と薬きょうの比較と発射銃器の特定を行うための標準的機材となっている。フィッシャーによってヘリクソメーターが開発されたのもこの時期である。ヘリクソメーターは、腔旋の回転ピッチの測定と、銃腔の検査に用いられる。ただ、この測定機材を実際に利用したのは、一部の上級専門家に限られていた。
1925年 アメリカ合衆国
カリフォルニア州
検察対ウイリス事件 (カリフォルニア州判例集第70巻 465ページ。)
この事件で、銃器鑑定専門家は、証拠物件の銃を用いて行った引鉄牽引力の実験の結果と、銃の機構と操作に関して、裁判で証言を許された。
1925年 原注 1925年になると、銃器鑑定の書物が一挙に大量に出現するようになり、ここでは、その中から歴史的に興味深いもののみを取り上げることにする。
1925年 アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
ゴダードの比較顕微鏡の利用についての論文
カルヴィン・ゴダード(Calvin H. Goddard)の「法弾道学」Army Ordnance誌第6巻 196~199ページ。1925年11、12月号
この論文には、発射銃器の識別鑑定に比較顕微鏡を利用する方法が初めて紹介されている。この論文によって、「法弾道学」という用語が一般に知られるようになった。この用語が発射痕鑑定に対して適切なものではないとする意見が多いが、よく知られた用語となったことは確かである。
1925年 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州
フィラデルフィア市
法弾道局についての論文
ウエズレィ・シュタウト(Wesley W. Stout)の「弾丸指紋:事実を静かに語る証人」サタディ・イヴニング・ポスト紙 1925年6月13日及び6月20日付け
この論文は、当時「法弾道局」で行われていた発射痕の識別作業について記述している。この2本の論文の原稿料によって、法弾道局は引き続き研究と鑑定を行う資金が得られた。
1926年 アメリカ合衆国
発射痕鑑定についてのゴダードの論文
「刑事事件の弾丸鑑定」軍医誌 第88巻12号 1926年2月、ワシントンD.C.
「発砲事件の証拠としての弾丸:その摘出法と保存法の注意点」ニューヨーク州医学雑誌 1926年8月15日号
「銃器と弾丸の科学的鑑定」刑法と犯罪学誌 第17巻254~263ページ、シカゴ 1926年8月号
1926年 ブラジル
サンパウロ市
発射薬の識別法の論文
「発射薬の研究とその識別法」
1928年 フランス
リヨン市
銃器鑑定の教科書
ハリー・ゾダーマン(Harry Soderman)の「小火器の識別法」Joannes Desvigne and Sons出版
この書物が、発射痕識別法についての最初の教科書として知られている。
1929年 アメリカ合衆国
イリノイ州
シカゴ市
聖バレンタインデー虐殺事件 1929年2月14日
この日、シカゴ市のガレージ内で、ギャングが用いる典型的な手法によって6人の男たちが殺害された。銃器関連証拠は、口径0.45インチの70個の発射弾丸あるいはその破片と、同口径の70個の打ち殻薬莢と何個かのバックショットがだった。検視陪審はゴダード中佐に証拠物件の鑑定を依頼した。彼は証拠物件の検査を行い、口径0.45インチの現場弾丸と打ち殻薬莢は、2丁のトンプソン・サブマシンガンによって発射されたものと結論した。そのうちの1丁は50発のドラム弾倉が、もう1丁は20発の弾倉が使われていた。さらに、12番の散弾銃が使用されたことも結論した。この結論に感心した検視局は、ゴダードに研究所をシカゴ市に移転することを提案し、後にゴダードはその勧めを受け入れた。新たな研究所はノースウエスタン大学と提携して、銃器鑑定以外の科学的犯罪鑑識の分野も含まれるものに拡張された。研究所は、1930年にノースウエスタン大学の一学部として開所された。大学では、同じ年にゴダードの監修の下、「アメリカ警察科学誌」の出版を開始した。この雑誌は、後に「刑法と犯罪学雑誌」と統合された。現在この雑誌は、「刑法、犯罪学及び警察科学誌」として、継続して出版されている。当初の研究所のスタッフのチャールズ・ウイルソン(Charles M. Wilson)は後にウィスコンシン州の、クラレンス・ミュールベルガー(Clarence W. Muehlberger)は後にミシガン州の犯罪捜査研究所長となっている。1931年には、ノースウエスタン大学は科学的犯罪鑑識法の初めての講座が開設された。
1929年 アメリカ合衆国
ニュージャージー州
州対ボッカドラ事件 アメリカ東部州判例集 第144巻612ページ。
この事件では、殺人に使用された銃器が結局発見されなかったが、裁判所は致命傷となった弾丸は、被告人の銃から発射されたものと認めた。現場弾丸は、被告の銃によって発射されたことが分かっている弾丸と比較された。そして、これら2個の弾丸は、同一の銃器で発射された弾丸であると結論された。
1929年 アメリカ合衆国
ケンタッキー州
エヴァンス対州事件 ケンタッキー州判例集 第230巻411ページ。
裁判所は、現場弾丸が被告人の拳銃によって発射されたものであるとする、銃器鑑定専門家の証言に証拠価値を認めた。この事件では、発射痕証拠が裁判で証拠として認められるようになった経緯と、その証拠価値について詳しく論議されている。その観点から、素晴らしい事件となっている。発射痕証拠の発展経緯を吟味した裁判所は、これを科学として認めた。この事件で、陪審員は、自ら弾丸を比較顕微鏡で検査することが許された。
1929年 カナダ
モントリオール市
発射痕鑑定の教科書の出版
モントリオール大学法医学教室教授のウイルフリッド・デローム博士(Dr. Wilfrid Derome)の「小火器の識別」自費出版
1929年 アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
発射痕鑑定の論文
ウィルマー・サウダー(Wilmer Souder)の「タイプライターと銃器の比較と測定の精密手法」アメリカ標準局 技術報告ニュース 第147号、ワシントン 1929年7月
1930年 アメリカ合衆国
イリノイ州
検察対フィッシャー事件 イリノイ州判例集 第340巻216ページ
これは、発射痕鑑定とその証拠価値を最も包括的に扱った事件の一つである。イリノイ州最高裁判所は、鑑定専門家としての資格を認められた一人の証人が、遺体から摘出された1個の弾丸が特定の拳銃から発射されたものであること、証拠品の散弾銃(実包)のワッズが、証拠品の散弾の打ち殻薬莢のものであり、特定の散弾銃で発射された際に排出されたものであることを、理由を示して証言することを認めた。
この事件が重要な点は、発射痕識別の鑑定が完全なもので、それは無条件で認められる証拠と認定した点にある。
1930年 アメリカ合衆国
オハイオ州
バーチェット対州事件 アメリカ北西州判例集 第172巻555ページ
裁判所は、腔旋痕を比較することによって、特定の弾丸が特定の銃器によって発射されたものであるという鑑定専門家の結論を証拠として認めた。この事件では、発射痕鑑定技術が科学として進歩した経緯を取り上げている。
1930年 アメリカ合衆国
イリノイ州
シカゴ市
聖バレンタインデー虐殺事件の論文
ゴダード(Goddard)の「聖バレンタインデー虐殺事件:実包トレーシングの研究」警察科学誌 第1巻 60~79ページ。
1931年 アメリカ合衆国
アイオワ州
州対キャンベル事件 アメリカ北西部州判例集 第239巻 715ページ
裁判所は、資格を認められた銃器専門家が、その2個の弾丸が同一の銃身を通過したものであるとの意見を述べることを認めた。この事件では、銃器関連証拠について、立ち入った議論がなされている。
1931年 ドイツ
シュツットガルト市
自動装填式拳銃の識別法の教科書出版
オットー・メッツガー博士(Dr. Otto Mezger)、ウォルター・ヘス博士(Dr. Walter Heess)、フリッツ・ハッスラッハー捜査官(Fritz Hasslacher)の「拳銃図鑑(Atlas of the Pistol)
この書物では、口径0.25インチ、0.32インチ及び0.380インチの自動装填式拳銃が網羅されている。この本では、拳銃の写真と拳銃の解説文のみならず、その発射弾丸と打ち殻薬莢に残される痕跡データが詳細に記述されている。「図鑑」には「発射弾丸と打ち殻薬莢を用いた発射銃種の決定」という論文が併載されている。この研究論文は、アメリカ警察科学誌 の1931年11・12月号と1932年3・4月号に転載されている。
1934年 イギリス
ロンドン市
発射銃器識別の教科書出版
サー・ジェラルド・バラード大佐(Col. Sir Gerald Burrard)の「銃器の特定と法弾道学」ハーバート・ジェンキンス社 220ページ
1935年 アメリカ合衆国
ノースカロライナ州
発射銃器識別の教科書出版
ジュリアン・ハッチャー少将(Maj. Gen. Julian S. Hatcher)の「銃器の捜査、特定と証拠についての教科書」スモール・アームズ・テクニカル出版社 342ページ。この本は、長年にわたって標準的な教科書とされてきた。
1935年 アメリカ合衆国
ニューヨーク市
発射銃器識別の教科書出版
ガンサー親子(Gunther & Gunther)の「銃器の特定」ジョン・ウィリー&サンズ社 342ページ
1938年 イギリス
ロンドン
弾丸と薬きょう表面に残された痕跡の複製法
アセチル・セルロースなどの樹脂を液状化して透明なフィルム状にし、弾丸の周囲に巻きつけたり、薬莢の底面に押し付ける。フィルムが固化したら、それを剥がすと、フィルム表面に試料表面の痕跡が転写されている。その転写痕跡を写真撮影することができるとともに、他のフィルムの痕跡と比較対照することができる。この手法に関する論文は、アレン・リチャード・モリッツ博士(Allen Richard Moritz)の「弾丸、薬莢と銃尾表面の新検査法」ロンドン警察誌、1938年7~9月号にある。


(5) 第3部 その後の発展
 銃器鑑定の歴史の第3部は、1930年代後半から現在までを取り扱う。この期間における進歩は、最初はゆっくりとしたものであったが、そのテンポも1950年代に入ってから速まった。1930年代後半と1940年代前半に、銃器鑑定用の新たな機材がいくつかか発明された。それらの中には、扱いにくく、実用性を欠いているものが多かった。この時代に発明された機材や手法は、いずれも評判を得るまでには至らず、次第に使われなくなり、現在それらの手法を用いている者は少数派となっている。その一方で、比較顕微鏡は銃器鑑定の標準的機材であり続けた。1950年代後半から1960年代前半にかけて、銃器鑑定(発射痕による銃器特定)の重要な書物が出版された。現在では、銃器鑑識は数種類の分野に分かれ、それぞれの分野で情報交換が行われている。

国・地域 出来事の概要
1930年代末から1940年代前半 アメリカ合衆国 パンタスコピック・カメラ(展開写真撮影装置)
弾丸の全円筒部分を撮影して、平面状に示すことのできる写真機。この装置は、弾丸をカメラのレンズの前で回転させ、弾丸の回転と同期させてフィルムを動かすことによって実現された。出来上がった写真を横方向に短冊状に切って、痕跡比較に利用された。
マサチューセッツ州ケンブリッジのケネス・ドーソン((Kenneth A. Dawson)が製作したこのタイプの写真機は「パンタスコピック弾丸写真機(The Pantascopic Bullet Camera)と呼ばれた。
1930年代末から1940年代前半 アルゼンチン ベラウンデ比較写真器(Belaunde Photo Comparator)
これも展開写真機の一種である。この写真器の名称は、アルゼンチンのブエノスアイレス市の連邦警察犯罪捜査研究所長のエルネスト・ベラウンデ(Ernesto Belaunde)にちなんで名づけられたものである。
展開写真器の論文:「銃器鑑定に重要な手法」FBI警察ニュース 1940年9月号
         「ベラウンデ弾丸鑑定システム」指紋と鑑定誌 1947年8月号
         「ベラウンデ写真比較装置」国際犯罪警察レヴュー 1951年10月号
1930年代末から1940年代前半 アメリカ合衆国 比較写真機(Comparison Camera)
この装置は、ウィスコンシン大学のマシューズ博士(Dr. J.H. Mathews)が機器開発製造業者のリー・ヘンケ(Lee K. Henke)と共同して開発した機材である。この装置は、基本的には2本のレンズを並べた写真機で、1枚の写真乾板あるいはフィルムに並べて結像させるものである。2基の独立した載物台を使用して、それぞれの載物台に比較対照する弾丸を載せる。資料は、写真乾板の横に設置された制御棒を用いて、載物台を動かすことによって弾丸の回転や焦点調節がなされる。撮影される写真や像は、比較顕微鏡で得られるものと類似している。
比較写真機の論文:「銃器鑑定に重要な手法」FBI警察ニュース 1940年9月号
         「比較写真機」刑法・犯罪学と警察科学誌 第37巻第3号 1946年9-10月。
1930年代末から1940年代前半 アメリカ合衆国 ライフリング・メーター(Rifling Meter)
この装置もマシューズ博士とヘンケによって開発された。この装置は、銃身内に刻まれた腔旋のピッチを測定するために開発された。銃は、この装置の一端にある固定器具で固定される。装置のもう一方には、測定ヘッドがある(測定ヘッドは旋盤の心押軸の先端に類似した形状をしている)。鉛製の円柱を心押軸の先端に取り付ける。この心押軸の周囲は目盛り環が刻まれている。続いて、鉛製の円柱を、心押軸の端に付けられているハンドルを回転させながら、銃身内に押し込む。目盛り環の目盛りを読み取りながら、あらかじめ決めておいた距離だけ押し込んだところで、軸の回転量を読み取り、腔旋の回転量を決定する。
ライフリング・メーターの論文:「ライフリングメーター」刑法・犯罪学と警察科学誌 第35巻第2号 1944年7-8月。
1930年代末から1940年代前半 アメリカ合衆国 腔旋諸元測定顕微鏡
当時シカゴ警察犯罪捜査研究所にいたチャールズ・ウィルソン(Charles M. Wilson)とマシューズ博士(Dr. J.H. Mathews)が共同して、この特殊目的の顕微鏡を開発した。
この顕微鏡に関する文献:ウィルソン(Wilson)の「発射弾丸の型式特徴測定のための2種類の新装置」刑法・犯罪学と警察科学誌 第27巻第1号 1936年5-6月。
マシューズ(Dr.J.H.Mathews)の「発射弾丸の旋丘痕幅測定装置」刑法・犯罪学と警察科学誌 第44巻第6号 1954年3-4月。
1948年 フィンランド
ヘルシンキ
弾丸の比較と特定のための電気メッキ法
この手法は、腔旋痕の比較に電気メッキを利用して作成したレプリカを利用する。レプリカは凹凸が反転した痕跡となる。 フィンランドのヘルシンキ市の犯罪鑑識局のオンニ・タッコー(Onni Takko)の「発射弾丸比較の新手法」指紋と鑑定誌 1948年9月号
1949年 アメリカ合衆国 銃器及び工具痕特定のためのファックス・フィルム法
この手法は、アセチル・セルロースをアセトンなどの溶剤で解いた溶液を用いて、痕跡表面の微細形状の複製を作成するものである。この手法を利用した商品の商標が「ファックス・フィルム」であった。複製を作成しようとする痕跡表面に溶液を滴下する。特許を取得した透明アセテートフィルム片を表面に硬く押し付け、溶液が硬化したところで剥がす。このようにして、発射痕や工具痕の凹凸形状が反転したレプリカが作成される。このフィルムは透明で、投影して比較したり、写真撮影がなされた。同様の手法については、1938年のアレン・リチャード・モリッツの項を参照。
ファックス・フィルム法の文献:「工具痕の一比較法」刑法・犯罪学と警察科学誌 1948年7-8月に、工具痕の鑑定における応用例が記載されている。発射痕鑑定への利用可能性については、1949年のIAIの講演予稿集に見られる。
1950年 デンマーク
コペンハーゲン
発射痕鑑定における弾丸被甲の切断除去法
ヨルゲン・ピーター・クリステンセン(Jorgen Peter Kristensen)の「デンマークにおける銃器鑑定で使用する機材と手法」鑑識ニュース誌 1950年3月号。この中で、被甲弾丸の金属被甲を切断し取り除く手法が紹介されている。取り除かれた被甲は、その後平板状にされ、載物台に取り付けて比較あるいは写真撮影された。
1950年 アメリカ合衆国
カリフォルニア州
プロファイログラフ(The Profilograph)
プロファイログラグは、ティムケン・ローラベアリング社(Timken Roller Bearing Co.)が、ベアリング表面の粗さ測定に使用していた器材である。カリフォルニア州オークランド在住の犯罪学者ジョン・デービス(John E. Davis)は、これを発射痕鑑定用に再開発し、弾丸の表面粗さをグラフ表示できるようにし、それにストライアグラフ(Striagraph)と名付けた。ストライアグラフは、発射弾丸の表面粗さをのグラフを用いた発射痕鑑定に利用された。
プロファイログラフとストライアグラフの文献:デイビス(Davis)の「警察科学におけるプロファイログラフ」指紋と鑑識誌 1950年10月号
1957年 アメリカ合衆国
ペンシルベベニア州
銃器鑑定の教科書出版
ハッチャー(Hatcher)、ジュリー(Jury)とウェラー(Weller)著、トーマス・サムワース(Thomas G. Samworth)編集「銃器鑑定・捜査と証拠」ペンシルベニア州ハリスバーグのスタックポール社刊 536ページ。ジュリアン・ハッチャー(Gen. Julian S. Hatcher)による同名の原著の完全改訂版。改定を行ったフランク・ジュリー(Frank J. Jury)はニュージャージー州警察犯罪捜査研究所長で、ジャック・ウェラー(Jac Weller)はニュージャージー州プリンストンの銃器鑑定コンサルタントである。
1958年 アメリカ合衆国
イリノイ州
銃器鑑定とストライアグラフの教科書出版
ジョン・デービス(John E. Davis)著V.レオナルド(V.A. Leonard)編集の「工具痕・発射痕鑑定入門とストライアグラフ」イリノイ州スプリングフィールド市のチャールズ・C・トーマス社刊。282ページ。本書は、発射痕鑑定と工具痕鑑定の基礎事項を網羅しているとともに、著者が開発したストライアグラフについて詳細に紹介されている。
1962年 アメリカ合衆国
ウィスコンシン州
銃器鑑定の教科書出版
マシューズ博士(Dr. J.H. Mathews)の「銃器鑑定」2巻本。ウィスコンシン州マディソンのウィスコンシン州大学出版社刊。第1巻は400ページ、第2巻は492ページ。
本書は、発射痕鑑定の文献として、極めて重要で価値のある書物である。第1巻は、発射痕鑑定についての解説と、数千丁の自動装填式拳銃と回転弾倉式拳銃の鑑定により収集された腔旋諸元の表が含まれている。第2巻は、拳銃とその刻印の写真集となっている。
1962年 アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
銃創学の書物出版
陸軍軍医総監の「銃創学」アメリカ政府印刷局、ワシントンD.C.。883ページ。
銃創についての包括的な研究書物で、多くの図表が含まれている。
1963年 アメリカ合衆国
テキサス州
ケネディー大統領暗殺事件
この衝撃的で悲劇的な事件の銃器関連証拠についての分析結果は、ウォーレン委員会の結論に示されている。銃器鑑定専門家の鑑定により、回収された弾丸破片は、オズワルドの口径6.5㎜イタリア製マンリッヒャー・カルカノ・ライフル銃で発射されたものと結論された。さらに、オズワルドの口径0.38インチS&W回転弾倉式拳銃は、射殺された警察官ティペットの殺害現場に残されていた打ち殻薬きょうの発射拳銃と確定された。テキサス教科書倉庫ビルで発見された打ち殻薬きょうも、オズワルドのライフル銃と関連付けられた。銃器関連証拠の証言は、FBI研究所のロバート・フラジール(Robert A. Frazier)、コートランド・カニングハム(Cortland Cunningham)、チャールズ・キリオン(Charles Killion)とイリノイ州犯罪捜査研究所長のジョセフ・ニコル(Joseph D. Nicol)が行った。その詳細は、「ケネディー大統領暗殺事件に関するウォーレン報告書」アメリカ政府印刷局刊に詳細に示されている。

(6) 第4部 最近の研究について
 銃器鑑定分野の最近の研究は、多方面にわたって行われている。

 口径0.22インチ縁打ち式薬莢に残される撃針痕とその分類の研究が、H.P.ホワイト研究所のバート・ムンハル(Burt Munhall)、テキサス州公安部のフレッド・ラィマー(Fred Rymer)、ミネアポリスのスタントン・ベルグ(Stanton O. Berg)とウィスコンシン大学のマシューズ博士(Dr. J.H. Mathews)によってなされている。

 発射薬残渣の研究は、日本の警察庁の岩井三郎、ロードアイランド大学のハロルド・ハリソン(Harold C. Harrison)とロバート・ギルロイ(Robert Gilroy)によって行われている。

 放射化分析法を利用した銃器の鑑定法については、カリフォルニア州サンディエゴ市の原子力研究所のクィン(V.P. Quinn)とロサンジェルス警察のレイ・ピンカー(Ray H. Pinker)が行っている。

 発射弾丸類の標準資料の作成とその利用法については、フロリダ州マイアミのジョン・ソジャット(John G. Sojat)が行い、同様の研究はH.P.ホワイト研究所のバート・ムンハル(Burt Munhall)も行っている。軍用小火器の型式特徴については、トロント検察局研究所のクレマ(V. Krema)、ニコル(R.C. Nichol)、アンダーソン(B.J. Anderson)が行っている。

 発射痕鑑定への数学的確率概念の導入は、カリフォルニア州クパティーノのビアゾッティ(A.A. Biasotti)とオランダ、ハーグのフレデリック・エンクラー(Frederick Enklaar)の研究が注目されている。

 ペンシルベニア州警察のエドワード・クローサー(Edward Crowthers)は、銃器の製造に用いられている多種類の工具の研究を行っている。

 拳銃の銃把の破片が回収された場合に、その銃の種類を特定する研究は、ニューヨーク州アルバニーのアンドリュー・ハート(Andrew Hart)が行い報告している。

 もちろん、ここで紹介できなかった多くの人たちが、現在銃器鑑定分野で研究を行っている。1963年8月に開催されたICPO(インターポール)の総会で、銃器のプルーフマークとトレードマークの国際的参照資料の作成が勧告された。パリで開催された「警察業務の科学的視点」の第1回セミナーでは、銃器が発射されてからの経過時間推定について研究を行っている警察研究所が招待された。この問題は、今後銃器鑑定の分野で重要な研究テーマの一つとなるだろう。


(2011.3.17)

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