カルヴィン・H・ゴダードが語る発射痕鑑定の歴史


(1)はじめに
(2)黎明期の発射痕鑑定
(3)ヨーロッパの初期の発射痕鑑定
(4)ヨーロッパの薬きょうの発射痕鑑定
(5)ヨーロッパの弾丸の発射痕鑑定
(6)ウェイトとの出会い
(7)発射痕鑑定専用比較顕微鏡の開発経緯
(8)発射痕鑑定を可能とする条件
(9)発足当初の研究所の活動
(10)論文「法弾道学」の投稿と反響
(11)スペンサー社の比較顕微鏡とヘリクソメーター
(12)恩知らずな男の話
(13)銃器鑑識の必読書
(14)早くから比較顕微鏡に興味を示した人たち
(15)比較顕微鏡を無視したFBI
(16)仕事が来なくて苦労した時代
(17)孤独な宣伝活動
(18)比較顕微鏡の浸透と鑑定対価の引き上げ
(19)比較顕微鏡写真の効用
(20)バレンタインデー虐殺事件
(21)シカゴ犯罪科学研究所の設立
(22)追補
(23)訳者あとがき


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(1)はじめに
 カルヴィン・H・ゴダード(Calvin H. Goddard)は、アメリカ合衆国で発射痕鑑定の初期の発展に大きく寄与した貢献者で、銃器鑑識界では彼の名を冠した賞も存在する。彼は、発射痕鑑定に比較顕微鏡を持ち込み、それまで、細かい条痕の比較をするのが難しかった発射痕鑑定の精密化を果たした。1925年にArmy Ordnance誌に寄せた初の論文の題名である法弾道学(Forensic Ballistics)は、発射痕鑑定を言い表す英語として有名となった。その後彼は、この用語は誤りであるとたびたび主張したにもかかわらず、この用語は現在でも生きている。

 そのゴダードが1953年にケンタッキー州の大学で、発射痕鑑定の黎明期から1930年までの歴史について講演した原稿が残っている(A History of Firearms Identification to 1930, AFTE Journal, Vol. 25-3, PP214-228 (1993), Vol. 31-3, PP225-241 (1999)) 。彼は発射痕鑑定のまとまった教科書は書かなかった。また、著した論分も今では入手しにくいものが多い。そのため、この講演の内容は発射痕鑑定初期の歴史を知ることができるだけでなく、ゴダードの発射痕鑑定に対する考え方を学ぶ上でも大変重要である。若干削った部分もあるが、元の講演の雰囲気を出せるように訳出したつもりである。

 なお、各表題は、訳者が内容を考えて適当に付けたものであり、原文には存在しない。

(2)黎明期の発射痕鑑定
 発射痕鑑定は、変形の少ない発射弾丸を観察した注意深い者によって、弾丸表面に残されている、弾軸に対してわずかに傾斜した溝が発見されたことから誕生したのだろう。さらに詳しく調べれば、その溝の傾斜方向には右と左のものがあり、溝が4条、5条、6条と本数が異なるものが存在することにも気付いただろう。さらに注意深く調べれば、それらの溝の幅が銃ごとに異なることにも気付いたはずだ。ただ、生活にそれほど暇がなければ、そんなことはすぐに忘れて仕事に戻っただろう。

 それでも、遅から早かれ、もっと詳しく観察する人が現れたに違いない。ライフリング(腔旋)が刻まれた、メーカーの異なる2丁の銃器から発射された変形や損傷の少ない弾丸を見比べ、それらの表面に残されている溝の本数、傾斜方向、幅、傾斜の強さ、などの違いに気付いただろう。そして、弾丸が変形しないように弾丸を採取する方法を考えたに違いない。そうして、1丁の銃器から何発か発射弾丸を採取し、続いてもう1丁の銃器からも発射弾丸を数発採取して見比べると、同じ銃器の発射弾丸の間では、これらの溝の特徴が同じであるが、その特徴は、もう1丁の銃器の発射弾丸のものとは異なることに気付いただろう。

 次のステップとしては、同じメーカーの製品で、同じ口径の同じ種類の銃器を2丁用意し、それらから数発ずつ弾丸を発射し、得られた発射弾丸を観察するだろう。すると、肉眼では、それらの弾丸はすべて同じように見えただろう。

 発射痕鑑定の最初のステップは、資料の発射弾丸や打ち殻薬きょうを発射した銃器のメーカーを見極めることであり、続いて銃器のモデルを決めることである。特定の1丁の銃器にまでたどり着くのは、当然、最後の段階である。しかしながら、メーカーごとに銃身に異なった本数や回転方向の腔旋を付けているという知識だけで、解決できる事件も多いのである。例として、以前私が裁判に証人出廷した事件を挙げよう。ある店の店主が強盗に射殺された事件である。この事件では、店主も強盗も拳銃を所持しており、店主はスミス・ウェッソン回転弾倉式拳銃、強盗はコルト回転弾倉式拳銃を所持していた。いずれの拳銃も、使用する実包は口径0.38インチ・スペシャル型で同じであった。そこで問題となったのは、店主はどちらの拳銃の弾丸で射殺されたのかという点であった。

 スミス・ウェッソンは右回転5条の腔旋、コルトは左回転6条の腔旋である。したがって、発射痕鑑定の経験を積んでいる者にとっては、店主を殺した弾丸に残されている腔旋痕を見れば、ほとんど時間をかけずに解決できる問題である。ところが、大都市の警察でも、この問題に豊富な知識を持ち合わせている人が少ないことから、はるばる私が呼ばれて調べることになった。腔旋痕の条数と回転方向を確認するだけのために。

 銃器の製造方法に流れ作業の手法が導入されるようになると、各メーカーは、発射する弾丸に最適と考える特定の特徴を持った腔旋を採用するようになった。発射痕鑑定にとってありがたいことであるが、同種の弾丸を発射する銃器であっても、異なるメーカーの間では、メーカーを区別できる腔旋が採用されている。したがって、AとBの2社が採用している腔旋が同じ6条であったとしても、たとえばA社は右回転、B社は左回転といった具合に異なっっている。回転方向まで同じだとしても、溝の幅がA社は弾丸周囲の1/12なのに、B社のものは弾丸周囲の1/10と異なるであろう。さらに溝の幅まで同じだとしても、腔旋の回転ピッチがA社のものは1回転長12インチなのに、B社のものは1回転長18インチと異なる。異なる会社の間で、全く同じ諸元の腔旋が存在しないことは、発射痕鑑定者にとって、天からの恵みとなっている。

 ところで、腔旋の溝の深さについては、メーカーごとにあまり違わず、識別の手掛かりを与えることは少ない。しかし幸いなことに、腔旋の深さまで区別しなくても、大半の場合で発射銃器を識別できる。そのことは、銃腔径についてもいえて、同じ適合実包の銃器の間でも、銃腔径の差異にまで注目しなくても発射銃器の識別は可能である。

 発射銃器ごとの発射痕の相違に気付いて、それを犯罪捜査に活用しようとした最初のアメリカ人は、ニューヨーク州のアルバート・ホール(Albert Llewellyn Hall)である。彼はバッファロー医学雑誌(Buffalo Medical Journal)の1900年6月号に、この分野で初となる論文を書いている。ただ、その後1925年に比較顕微鏡が開発されるまでの間、この分野の進歩はほとんどなかった。私はホールが80歳で亡くなる直前の1931年夏に、彼と直接会って話をした。その際ホールは、最初の論文には疑問点が残されていたが、それについて解明して新たな論文を書くことができなかったことが心残りだと語っていた。それにもかかわらず、私は、ホールがアメリカにおける発射痕鑑定の歴史に先鞭をつけたものと思っている。彼の名前は、もっと宣伝され、周知されるべきだと思う。

 この分野で次に起こった画期的な出来事は1907年のことである。ペンシルベニア州フランクフォードにあるアメリカ陸軍武器庫のスタッフが、打ち殻薬きょうと発射銃器とを結びつけたのである。この仕事は、その前年に(訳注:原著では「その年の初めに」となっている)テキサス州ブラウンズビルで発生した軍の歩兵が関与した暴動事件の捜査で行われた。39個の打ち殻薬きょうが回収され、鑑定に回された。そのうちの11個が小銃Aのものと特定され、8個は小銃Bの、11個は小銃Cの、そして3個は小銃Dのものと特定された。残りの6個の発射銃器は不明となった。残念ながら、公式な報告書に詳しい検査手法は記載されていない。しかしながら、このような鑑定を行った最初の事件となろう。(訳注:この事件は、黒人兵の暴動事件とされ、人種差別がある中で仕掛けられた事件とも言われている。証拠に対する疑問もあり、事件から60年も経過してから、当時不名誉除隊となった黒人兵に対し、未払い給与支給なしの名誉除隊への変更決定がなされた。)

 ホールの論文やアメリカ陸軍での発射痕鑑定は、当時のアメリカではほとんど話題とならなかった。これらのことがヨーロッパでなされれば、もっと注目を集めただろう。ヨーロッパでは、発射弾丸や打ち殻薬きょうの識別は、すでに注目された技術であったからだ。当時のアメリカでは警察科学はほとんど存在しないのも同然で、あったとしても毒物鑑定の分野に限られていた。さらに、軍の報告書は一般の目に触れにくく、打ち殻薬きょうの識別については、その後長い間埋もれることになった。

(3)ヨーロッパの初期の発射痕鑑定
 ヨーロッパでは、ルクセンブルグのピエール・メディンガー(Pierre Medinger)が、1919年に薬きょうの発射痕による発射銃器の識別の論文を発表している。フランスのデリヒター(DeRechter)とマージ(Mage)も1923年に薬きょうの発射痕の識別の論文を発表しており、クラフト(Kraft)が1930年に著した論文によれば、ソルボンヌ大学(訳注:原文はパリ大学)のバルタザール(Balthazard)は、第1次大戦以前から薬きょうの発射痕の識別を行っていたとしている。バルタザールは薬きょうに残される撃針痕、閉塞壁痕、抽筒子痕、蹴子痕による識別の論文を書いていることは確かであるが、私が調べたメモが紛失してしまい、その年が何年か分からない。(訳注:バルタザールは1912年頃からこの分野の論文を発表し始め、集大成の論文が1922年と1923年に出されている。1912年については、この講演の少しあとで、ゴダード自らが触れている)

 メディンガーの論文を読むと、銃器ごとに薬きょうに残される発射痕跡が異なることが指摘されているが、それを利用して発射銃器を識別できるとは書かれていない。それが当然できる、と読者に思わせたいのだろうが、直接そのように記述した方がよかったと思う。(訳注:この部分は、ゴダーとしては安易な意見である。逆方向の推定が常に成立するわけではないのが、痕跡鑑定の難しさなのである。)

(4)ヨーロッパの薬きょうの発射痕鑑定
 薬きょうの発射痕のことを最初に体系的にまとめたのは、ドイツのメッツガー(Metzger)、ヘス(Heess)とハスラッハー(Hasslacher)で、1930年にArchiv fur Kriminologie誌の第89巻に詳細なデータを公表した。私はこの論文にすぐに気付き、当時私が主任編集者であったアメリカ警察科学誌(American Journal Police Science)にこれを翻訳して掲載した。この報告によって、アメリカでも薬きょうの鑑定手法が公にされた。この雑誌は、その後Journal of Criminal Law and Criminology誌と合併して、Journal of Criminology, Criminal Law, and Police Scienceとなった。

 メッツガー、ヘスとハスラッハーの論文の題名は、「発射弾丸と打ち殻薬きょうの鑑定による発射拳銃の型式の決定」であり、打ち殻薬きょうのみならず発射弾丸も鑑定対象としていた。この革新的な論文に続いて、232種類の自動装てん式拳銃の写真や、その遊底頭の写真、打ち殻薬きょうのきょう底面の写真、腔旋痕諸元などをまとめたデータ集が継続的に追加されて行った。これらのデーターの正確性と完備性には今でも驚かされる。このようなデーター集の発行は、第二次世界大戦によって中断され、その後再開されることはなかった。

 私は1936年に、シュツットガルトにあるヘス博士の研究室に1か月間寄せてもらった。その際、ドイツでは入手困難な40種類に及ぶ自動装てん式拳銃をあらかじめアメリカから送った後に訪問した。これらの拳銃をヘス博士の所に送ろうとしたとき、合衆国の法律が大きな障害となった。その製造者ではない者が、拳銃を外国に輸出する際には、大きな関税を課せられたのだ。40丁ともなると、その額は相当なものとなり、私には負担できなかった。最終的には、研究目的であることを納得してもらい、デューティーフリー扱いにしてもらえた。その際には議会に大変お世話になったが、拳銃は無事ドイツに届けられ、再び無事故で合衆国に戻ってきた。

 私は軍を退職する際に、この種の仕事はもはやするまいと思い、これらのデータ集を軍の図書室に寄贈してしまった。今では、浅はかなことをしたと悔やんでいる。これらのデータが手元にないため、データー集の仔細については記憶があいまいになってしまった。

(5)ヨーロッパの弾丸の発射痕鑑定
 話を発射弾丸に戻すと、バルタザールの名前が再び登場する。ジョージアディス(Georgiades)、フルスト(Hulst)、コッケル(Kockel)らも行っているが、バルタザールも含め、皆が樹脂板や鉛箔の上で弾丸を転がし、発射痕の転写を試みている。このアイデアは、今でも行っている国があるが、精度の高い痕跡のレプリカは得られない。当然のことながら、深い凹凸は転写されるので、これらの板や箔から腔旋痕諸元は測定できる。しかし、発射銃器の識別を行うためには、細かな条痕まで再現されなければならず、このような手法では、そのような細かい条痕の転写は不十分である。さらに、現場弾丸は変形損傷が大きく、鉛弾丸の大半は板の上を転がせるほど変形が少ないことはほとんどない。被甲弾丸といえども、転がせないものの方が多い。そもそも、銃腔表面に特徴があったとしても、銃腔と強い摩擦をしながら発射される弾丸だからこそ、その表面に銃腔の特徴が移るのである。銃腔の中で鉛弾丸を転がしても、そのように銃腔特徴は移らないであろう。弾丸を転がして転写した痕跡と、新たに発射された弾丸表面の痕跡とを比べれば、どちらの方が最初の弾丸の表面痕跡と類似性が高いかは明らかだろう。このことから、転がす手法の利用価値はほとんどない。

 バルタザールは、ここで明らかになった問題を克服するために、1912年に新たな手法に挑戦した。彼は、弾丸を、その軸の周りに回転させることのできるホルダーに載せ、弾丸を少しずつ回転させながら、弾丸表面の腔旋痕の拡大写真を撮影した。彼は、照明条件、露出や拡大倍率が同等になるように、現場弾丸と試射弾丸の周囲を撮影した。続いて、それぞれの写真を拡大焼き付けした上でつなぎ合わせ、弾丸1周分の展開写真を作成した。試射弾丸と現場弾丸の展開写真を比較し、旋丘痕と旋底痕の幅と配置に同等性が認められるかを確認する。腔旋痕の諸元の同等性が確認されたなら、展開写真を相互に突合せ、旋丘痕と旋底痕の比較位相を1条ずつずらしながら、両者の条痕を比較対照し、対応条痕の有無を確認する。

 この手法はうまくいった。しかし、すべての事件にこの手法を導入するには手間がかかりすぎた。特別な写真撮影装置が必要で、写真の撮影と現像、焼き付けに莫大な時間と忍耐を必要とした。現場弾丸の数が多かったり容疑拳銃の数が多いと、手間がかかりすぎるので、この手法が一般に受け入れられることはなかった。この事情は指紋についても同様で、指紋ファイルを保管し、容疑者指紋と現場指紋との照合システムを運用しているのは、財政的に豊かな組織に限られている。

 バルタザールの手法は、利用されることはなかったが、その手法の開発者としては評価される。彼は、これ以外にも広範な研究を行った。鉛弾丸の頭部に残される布目痕を最初に見出したのも彼である。

 (訳注:この後、ゴダードは、その語学力に任せて読み漁ったヨーロッパの研究論文の研究者名を列挙している。その範囲は発射痕鑑定のみならず、発射薬の残渣部門にも及んでいる。ただ、入手が難しい論文ばかりなので、ここでは省略する。ただし、彼の総括が、「これらの研究も、重要な問題の解決には至っていない。」というものだったことを付け加える。)

(6)ウェイトとの出会い
 ここで、1924年から1925年にかけて、4人のメンバーが行ったニューヨーク市での発射痕鑑定活動について紹介しよう。この活動で、その後の発射痕鑑定に必要な機材と手法がすべてそろったといって過言でない。

 その4人の核となったのはC.E.ウェイト(C.E. Waite)である。彼はいわば銃器鑑識に特別な興味を寄せる私立探偵で、科学的な知識は一切なかった。その彼が、当時のニューヨーク州知事のホイットマン(Whitman)から、ある殺人事件の調査を命ぜられた。彼は、たぶん直感から、その問題の解決のためには、全米すべての銃器メーカーの拳銃や実包のデーター、発射弾丸や打ち殻薬きょうを収集する必要性を感じた。彼は、実際銃器メーカーに足を運び、拳銃や実包のデータ収集に走り回った。収集した資料には、銃身を切断したカットモデルから廃業した業者のカタログにまでに及び、拳銃に関係がありそうなものは設計図だろうが材料のスペックだろうが、すべて集めるという勢いであった。彼は、ただで入手できるものはすべて集めた。付き合いのある警察官から、押収拳銃をうまく手に入れた。こうして集めた拳銃はすぐに数百丁を超えた。

 次にウェイトは、発射弾丸と打ち殻薬きょうを精密に測定する機材を探した。彼がどんな顔をして機材を探したのか不思議でならない。彼は、いわばショーマンで、頭の中はうわべを飾ることだけだったからだ。それはともかく、彼はボシュロム社から測長用マイクロメーターが付属した顕微鏡を手に入れた。それには角度の測定機能も備えていた。これによって腔旋痕諸元(旋丘痕幅、旋底痕幅、腔旋痕角)の測定が可能となった。続いて、彼は銃腔径測定用の円筒テーパーゲージを入手した。これで、銃腔径を千分の1インチ単位で測定できることになった。

 さて、今度は、これらの資料と測定機材を活用できる人物を探す必要が生じた。ただ、今度も幸運の女神が彼に微笑んだのだ。彼は3人の男を探し当てた。その3人は、互いに補完しあい、彼の目的を効率的に遂げたのだ。一人目はグラベル(Phillip O. Grabvelle)で、名声を得た顕微鏡写真家であった。二人目はフィッシャー(John H. Fisher)で、ワシントンの規格基準局を退職し、工具の設計技師として、精密機械の会社で第二の人生を楽しんでいた。彼は3人目として私を指名した。米国内で製造されたすべての銃器に精通し、ヨーロッパの銃器の大半を知っていて、かつ年代物の銃器にも明るい「ガンマニア」として評価されたからだ。その上、私には、数千ドルの余裕資金があり、彼の資金が底をついたときに役に立つ(これは後になって知ったことだが)とも思っていたようだ。彼は経営には無知であった。

(7)発射痕鑑定専用比較顕微鏡の開発経緯
 すぐに我々は、心配されていた資金難に陥った。ウェイトが口癖にしていた「うまくいった暁には支払える」との言葉を信じて、グラベル、フィッシャーと私は、ウェイトの下で働いた。しかし結局、彼が1926年の暮れに亡くなるまでの間、我々は無報酬で、発射痕鑑定に対する熱意だけを支えにして働いたことになる。皆が、この計画に対して労力を無償で提供した。私は、それに加えて7,500ドルの資金まで提供した。グラベルは、繊維産業に関係しており、繊維の織り目の違いを比較する仕事をする上で、比較顕微鏡をすでに扱っていた。その経験から彼は、発射痕鑑定にも比較顕微鏡が有効なはずだ、と提案した。

 比較顕微鏡は、すでにニューヨークのオズボーン(Albert S. Osborn)が筆跡鑑定に活用していた。彼は比較ブリッジ(コンパレーター)を自ら設計していた。このことから、法科学部門で比較顕微鏡を用いることは、別に目新しいものではなかった。しかし、発射痕鑑定分野で比較顕微鏡を用いたという話は、それまで聞いたことはなかった。

 グラベルの比較顕微鏡の話を聞いて、我々は2台の顕微鏡と比較ブリッジを購入し、ウェイトの知り合いの警察官を通じて、それらをレミントン銃器(<Remington Arms Co.)に組み立てるよう依頼した。その比較顕微鏡には、発射弾丸専用の載物台も付けてもらった。これにより、弾丸を弾軸周りに回転させながら観察する際に、焦点調節の手間が大幅に軽減できた。この発射痕専用の比較顕微鏡の1号機は、1925年4月に納入された。この顕微鏡を使用したら、間もなく「同一の銃腔を通過した理想的状態の弾丸では、100%の確率でそのことを言い当てられる」ことが分かった。

(8)発射痕鑑定を可能とする条件
 それでは、理想的状態の弾丸とはどのようなものか?その条件は以下のものである。
a)前提として、鑑定対象の銃器は腔旋銃身とする(訳注:滑腔銃身は、初めから除外される)
b)発射銃器の腔旋(ライフリング)の形状が良好であること
c)回転弾倉式拳銃では、銃身と弾倉とのアライメントが良好であること(訳注:それらの軸がそろっていること)
d)銃器に適合する実包が使用されていること
e)弾丸表面にメッキが施されていないこと
f)現場弾丸と試射弾丸の種類が同一であること。可能ならば同一ロットの実包が用いられていること
g)現場弾丸と試射弾丸の両者を発射した間に、銃腔の状態が変化していないこと
h)現場弾丸と試射弾丸の両者に、衝突による変形破損がなく、物体との擦過による表面磨滅や損傷痕がないこと

 以上の条件を完全に満たしていれば発射銃器を確定できるが、満足する条件が一つ減るごとに、結論は不確実になり、すべての条件が不満足となると結論は得られなくなる。

(9)発足当初の研究所の活動
 ここで、言っておきたいことがある。グラベルは、日中はフルタイムの別の仕事を持っており、比較顕微鏡を覗く時間はほとんどなかった。彼がやったことは、比較顕微鏡導入直後に、2発の試射弾丸を比較して痕跡が合うことを確認しただけである。その後の比較作業のすべては、私が一人で担当した。しかし、この仕事が終わると、比較顕微鏡を使う仕事の依頼が一切来なくなってしまった。

 我々のプロジェクトに対するフィッシャーの最大の貢献は、腔旋のピッチを測定するヘリクソメーター(Helixometer)を開発したことだ。ただ、ヘリクソメーターで腔旋のピッチを精度よく測定するためには、測定装置と銃腔との直線性を高めなければならない。ところが現実問題として、それは難しく、1回の測定では測定精度が出せなかった。それでも、腔旋の各条について腔旋ピッチを測定し、その結果を平均すれば、誤差が互いに打ち消しあって、精度の高い結果が得られた。

 当然のことながら、ウェイト本人は、科学的訓練は一切受けていなかった。そのため彼は、研究所がそろえた測定器のいずれをも扱うことはできなかった。実際彼は、我々が加わる前に扱った事件(ホールとミルズ殺人事件として有名な事件だったという)では、口径0.32インチ自動装てん式拳銃用実包の打ち殻薬きょうが、どのような回転弾倉式拳銃によって発射されたかを何日もかけて探していた。もちろん、口径0.25インチと0.32インチ自動装てん式拳銃用実包を装填発射できる回転弾倉式拳銃は、ヨーロッパでは存在する。しかし、それらはソリッドフレームの回転弾倉式拳銃で(訳注、弾倉をスイングアウトできないから)、打ち殻薬きょうを排出するには1個ずつの操作となる。犯人が、そのような操作を、真っ暗闇で行った可能性は極めて低かった。

 ともかく、ウェイトは回転弾倉式拳銃を候補から外したが、今度は捜査官がほしがっている結論である、モーゼル自動装てん式拳銃が発射拳銃であると主張し始めた。その後、再び事件が動き出した頃には、私がチームに加わっていた。私が現場弾丸を見ると、左回転6条の腔旋痕が残されていた。その腔旋痕諸元からはコルト自動装てん式拳銃が該当した。腔旋痕が左回転なのに、なぜモーゼルなのだとウェイトに問うと、なんと彼は、腔旋痕の回転方向は全く考慮していなかったと答えたのだ。さらに打ち殻薬きょうを調べてみると、まさにコルト自動装てん式拳銃のメカニズムによる痕跡が残されており、回転弾倉式拳銃による打ち殻薬きょうを思わせる痕跡は一切見られなかった。

 しかしながら、我々4人が発射痕鑑定のために必要な比較顕微鏡、ヘリクソメーター、弾丸載物台、照明装置などを開発できたのは、ウェイトに対する評判が高かったからであることは否定できない。これらの機材が開発できなければ、発射痕鑑定は未だに星占いのレヴェルにとどまっていたであろう。彼は、自分の役割は後援者であることを自覚していた。

 あるときウェイトは、次のような話をしていた。ある寒い日、体を温める酒がほしいと思った男がいた。彼はスーパーに行き、店主のサムに玉子があるかと尋ね、あると聞いて、袋に玉子を3個入れてもらった。続いて彼はサムに帽子をかぶるよう促し、一緒に店を出ようと告げる。そして、サムと二人でバーに入り、持ってきた卵を使って、そこのバーテンにフリップ(卵を入れたアルコール飲料)を3人分作るよう注文した。そして、彼とサムとバーテンの3人は、フリップを飲みながら大いに盛り上がった。しばらくして、その男は店を出ようとした。するとバーテンが、お代は?と呼び止めた。すると、「お代はいらないだろう。サムが卵を提供し、俺がアイデアを提供したんだ。」

(10)論文「法弾道学」の投稿と反響
 Army Ordnance誌の1925年11-12月号に、私の初の論文が掲載された。その内容は、比較顕微鏡を用いた発射痕鑑定であった。その論文のタイトルを法弾道学(Forensic Ballistics)としたことを、今でも後悔している。Ballisticsは飛翔体の運動を解析する学問であり、発射痕鑑定を表す良い用語ではなかった。さらに巷では、Forensicの言葉を落として、発射痕鑑定を意味する言葉としてBallisticsが通用するようになった。その後、ことあるごとに私は、Ballisticsを発射痕鑑定の意味で使うべきではないと訂正して歩いた。「辞書を見てごらんなさい。辞書には、そのような用法は載ってないでしょう。」と説明しながら。

 幸いにも、この用語の誤用はアメリカ国内に限られているようである。英国にまでは広がっていない。私は1950年初めに、フィリピン共和国にアメリカ大使として赴任した。その際マニラで行われた、英国の極東艦隊の司令官であるジョセフ・ブラインド提督を祝うパーティに出席したことがある。そこにいた軍関係者はすべて海軍出身者で、陸軍出身者は私だけだった。提督が私に、「ballisticsの専門家ですって?」とたずねてきた。私は「砲撃術のことを言っているのですか(Gunnery?)」と応じると、提督は「そうだが」と答えた。そこで、私の専門のバリスティックスは発射痕鑑定のことであり、砲撃術ではないと説明すると、提督は納得したが、会話はそれだけで終わってしまった。

 私の最初の論文に対する反響は大きかった。比較顕微鏡はどこで入手できるか?価格はどのぐらいか?といった質問の手紙を多く頂いた。それらの手紙の中に、ウィスコンシン大学のマシューズ博士(Dr. J.H.Mathews)からのものがあった。セントルイス光学の担当者からも手紙を頂いた。私は、開発した機材の詳細を包み隠さず教えたかった。ところがウェイトは、我々が開発した機材と技術を高額で将来売ろうと考えていたことから、詳細は知らせるべきでないとの考えだった。そのため、二人の間でけんかになった。ただ、この喧嘩はいつもウェイトの勝ちだった。年齢が私の倍もあり、彼の方が賢くもあった。その結果、金の持ち合わせのないマシューズ博士には、あいまいな答えしかしなかった。光学会社に対しても詳しいことは教えなかった。我々の協力を得られなかったマシューズ博士は、その後、独力で比較顕微鏡を開発した。

(11)スペンサー社の比較顕微鏡とヘリクソメーター
 しかし、独自の比較顕微鏡の開発は、すぐに困難なことではなくなった。その翌年、ウェイトがこの世を去ったのである。私は、自由に比較顕微鏡を普及させることができるようになった。グラベルとフィッシャーは、我々の努力が世間から認められなかったことに嫌気がさして、研究所をやめてしまった。資金難がそれより大きな理由であったことは明らかであるが・・。私はウェイトの死後間もなくして、ニューヨーク州バファローにあったスペンサー・レンズ(Spencer Lens Co.)のオット社長(Ott)に、我々の技術のすべてを明した。スペンサー社は、すぐに素晴らしい比較顕微鏡を製作した。その顕微鏡には、弾丸や薬きょう専用の載物台が備えられていた。スペンサー社は、後に精度の高いヘリクソメーターも製造販売した。ただ残念なことに、スペンサー社のヘリクソメーターのロッド長は6インチしかなかった。銃身が6インチ以上ある拳銃もあることから、ロッドをもっと長くしてほしかった。

 ヘリクソメーターは、今でいうところのボアスコープである。米粒大の電球から出た光が、細いパイプの中をレンズを通して伝わり、先端でパイプの軸から直角方向に光を照射する。ヘリクソメーターを銃腔内に挿入すると、銃腔内がプリズムを介して観察できる。拳銃をヘリクソメーターの軸方向に移動できる台(ベッド)に固定し、拳銃の銃身内にヘリクソメーターのロッドを通す。そして、銃身を前身、後退させて銃腔内を観察する。

 ヘリクソメーターでは、銃腔内の狭い範囲しか観察できないが、秩序立てて少しずつ銃身を移動させることによって、全体の状態を知ることができる。農夫が田圃を耕す時のごとく、端から順序立てて少しずつ調べていくのである。これによって得られる情報は大変役立つことがある。特に発射薬が黒色火薬の場合には、調べている拳銃が、弾丸を最後に発射してからどのくらい経っているかを推定できる。発射薬が無煙火薬の場合には、腐食性の雷管を使用していなければ、銃腔内の実質的な変化はない。腐食性の雷管が使用された場合には、大気に湿気が少しでもあえば、発射後2,3時間もすれば銃腔内の腐食が始まる。銃腔内にある小孔、筋状の傷、錆の発生、鉛の付着、被甲金属の付着、未燃焼火薬、半燃焼火薬など、暇に任せて観察していると面白い発見がある。拳銃をポケットに入れて持ち運んでいると、衣服の繊維が銃腔内に堆積する。繊維の種類によって、持ち主の職業が分かることがある。

 銃身を固定して移動させるベッドに目盛を振っておいて、注目箇所の位置を記録しておけば、後から同じ場所を再び観察するのに便利である。腔旋のピッチを測定するには、スコープの外側に分度器を取り付けておく。ヘリクソメーターを銃腔の中に差し込み、観察位置を旋丘痕のエッジ部に合わせる。それから、銃身を、ロッドを引き抜く、あるいは押し出すようにゆっくりと移動させながらヘリクソメーターを回転させて、旋丘痕のエッジ部を追い続ける。銃身の移動距離と、ヘリクソメーターの回転角度から、腔旋のピッチが計算できる。たとえば、銃身を2インチ移動させたときに、ヘリクソメーターが45度回転していたとすれば、ピッチは2×(360/45)=2×8=16インチである。

 正確な測定値を得るには、すでに述べたように各旋丘で同様の測定を繰り返し、平均値を求めて測定結果とする必要がある。ヘリクソメーターの軸と銃身軸とを完全に一致させて測定することが難しいからである。

(12)恩知らずな男の話
 ここで、嫌な男の話をしよう。仮に名前をとしておこう。彼は、ニュージャージー近くの科捜研の男だ。彼は銃器鑑識に興味を示し、その専門家になることに熱心だった。私は彼にすべてを与えた。たとえば私の研究室のすべての機材を自由に使わせてやった。最終的には部屋のカギを貸したので、彼は私の研究室に自由に出入りでき、私がいないときには、あたかも自分の家であるかのように私の部屋を彼は使った。

 彼はすぐに自分専用の比較顕微鏡がほしくなったが、それだけの金は彼にはなかった。私は、大きな事件の鑑定依頼が来たら、共同でやることにして鑑定に回すから、と彼に約束した。そのような事件がすぐに起こった。彼を証言台に立たせてあげたが、彼は証拠品の自動装てん式拳銃を証言席で分解できない、という失態を演じた。被告人に有利な判決が下りた(我々は州側の証人だった)。しかし、いずれにしても多額の鑑定料が入り、彼はそれで自分専用の比較顕微鏡を購入した。

 その日以来、彼は私の前に現れなくなった。数年後、彼は銃器鑑識の本を出版した。その中で、私のことが1か所だけ出ていた。彼が証言した事件のことで、私のことをあしざまに記述してあった。彼が恩をあだで返した男だとは言いたくないが、どちらの責任で失敗したのかよく考えろと言いたい。

(13)銃器鑑識の必読書
 銃器鑑識を志す者なら、必ず読んでおきたい本が5冊ある。そのうちの2冊はフランス語で書かれている。それはゼーダーマンSoderman)とデローム(Derome)の本である。残りの3冊は英語で書かれており、ハッチャー(Hatcher)、ガンサー親子(Gunther & Gunther)とバラード(Burrard)の本だ。これらすべてが1928年から1935年の間に出版されている。英語の3冊は比較的に入手しやすいが、1928年と1929年にフランスとカナダで出版されたフランス語の2冊は、入手するのに少し苦労した。

訳注:以下の5冊の書籍である。

(1) Harry Soderman: L'Exprtise des Armes a Fou Courtes.
                   Joannes Desvigne et ses Fils (1928)
(2) Wilfrid Derome: Expertise en Armes a Feu.
                   Privately Printed (1929)
(3) Gunther and Gunther: The Identification of Firearms.
                   John Wiley and Sons (1935)
(4) Gerald Burrard: The Identification of Firearms and Fornsic Ballistics.
                   Herbert Jenkins Ltd. (1934)
(5) Julian S. Hatcher: Textbook of Firearms Investigation, Identification and Evidence.
                   Small Arms Technical Publishing Compaany (1935)


(14)早くから比較顕微鏡に興味を示した人たち
 私の仕事に早くから興味を示した一人が、クロスマン大佐(E.C.Crossman)であった。彼は、1932年に出版したBook of the Springfieldで有名だ。彼は、この本を出版した数年後に不慮の事故死を遂げている。私の兵器関係の蔵書の中に、彼がサイン入りで寄贈してくれたスプリングフィールドの本があり、宝物としている。ハッチャーの本も、サイン入りのものをもらっている。私は、モントリオール大学法医学教室教授のデロームとも知り合いだ。彼は、有能な紳士だったが、1930年代初めに亡くなられた。バラードも親友であり、ロンドンで何度も食事を一緒にしている。ゼーダーマンとは、手紙のやり取りは頻繁に行ったが、直接お目にかかったことはない。ハッチャーとは今でも電話でよく話している。

 最近の学生は、ハッチャーのBook of the Garandはよく知っていても、クロスマンの名前は知らないようである。しかし、米国がスプリングフィールドを軍用銃としていた1903年から1939年を生きた男たちにとって、クロスマンは有名な名前だった。ともかく、彼が比較顕微鏡のことを尋ねてきたことから、私はすぐに彼のカリフォルニアの家を訪ね、1週間滞在し、その間いろいろ助言を与えた。我々は親友となり、その関係は彼が亡くなるまで続いた。

 クロスマンの家から東部に帰る途中、私は警察の鑑識部門を何か所も訪れた。その中にはテキサス州のエルパソ、ヒューストン、ボーモント、ルイジアナ州のニューオーリンズなどがある。そこでも親友が何人もできた。ボーモントのヴィル・エリス(Will Ellis)、ニューオーリンズのオニール(O'Neill)などだが、どちらも今は亡くなられていて、さびしい限りだ。

 私は1926年の夏に、シカゴで開催された国際警察署長会議(International Association of Chiefs of Police)に出席するとともに、銃器鑑識に関する講演を行った。私の講演は、1時間の枠で予定されていた。しかし、その1時間を使い切った時、私はもう1時間スライドを使って説明したいと提案したら、満場一致で認められた。私の次の後援者も1時間の枠をもらっていたのだが、私の延長講演が始まった時点で、彼は帰ってしまった。私も彼の立場だったら、同様の行動をとっていただろう。

 同じ年の夏の終わりごろ、私はテネシー州メンフィスで開催された国際鑑識学会(International Association for Identification)で講演した。そこでも、その後長く付き合うことになる親友ができた。一人はキューバの国家警察研究所の所長のイスラエル・カステラノス博士(Israel Castellanos)で、今でも所長をしておられる。もう一人は、ミシガン州デトロイト警察の鑑識課のジェームズ・H・パークス(James H. Parks)である。パークスとは、その年にオハイオ州ペリーで開催された全米ライフル射撃競技会で一緒になり、何時間もの間比較顕微鏡について論じ合った。彼は、デトロイト警察に初の銃器鑑識研究室を作り、その室長を何年も務めた。ただ、不運にも1930年代に飛行機事故で亡くなられた。

 この2,3か月後には、イギリスの有名な銃砲製造家のロバート・チャーチル(Robert Churchill)が、わざわざイギリスから私のところを訪ねてきた。彼は、銃器鑑識を副業でやってみようと考えていたのだ。比較顕微鏡についての私の論文を読んで、ぜひともニューヨークに行って、実物の比較顕微鏡を見てみたいと考えたのだ。彼は数日滞在し、私は彼に惜しみなく情報を与えた。その後、彼のロンドンにある会社を訪れるたび、私は彼から最大限の歓待を受けた。今でも彼はイギリス有数の銃器メーカーの経営者であるとともに、サイドビジネスの銃器鑑識でも精力的に活動している。数年前には、わざわざインドまで飛んで、そこの事件の鑑定を行った。

 私の研究室へのもう一人の訪問者が、米国標準局のヴィルマー・スーダー(Wilmer Souder)博士だ。彼の犯罪捜査分野への貢献は、最近になって広く知られるようになっている。我々は、発射痕鑑定に適切な機材と手法は何かについて多くの議論をし、足りない部分は手紙のやり取りで論じ合った。その結果、彼は標準局に比較顕微鏡と、それに付随する装置を導入した。

 スーダー博士の訪問と時を同じくして、ワシントンDC警察のジョン・ファウラー(John H. Fowler)巡査部長が訪ねてきた(彼は後に警視となり、警察学校長になって引退した)。当時彼は、銃器鑑定部門に回されたばかりだった。彼の担当部署には、マイクロメーター1台と虫眼鏡が2本あるだけなので、比較顕微鏡で何ができるのかを知りたがっていた。彼は、その後スーダー博士のところで作業を行い、比較顕微鏡の必要性を確信し、彼の部署に比較顕微鏡を導入している。

(15)比較顕微鏡を無視したFBI
 1927年から1928年になると、比較顕微鏡も次第に注目を集めるようになった。私は、FBIに興味を持ってもらえるように努力した。FBIの研究所こそ、比較顕微鏡で大きな恩恵を得られると考えたからである。ところが驚いたことには、私が話をしたFBIの研究所長は、比較顕微鏡に対して全く興味を示さないどころか、顕微鏡に手を触れようともしなかった。私は、何も比較顕微鏡を売りつけようとしたのではなく、所長に役立つ情報を提供しようと考えただけなのだ。FBIが比較顕微鏡を無視した結果、長い間アメリカ国内のほとんどの警察機関で、比較顕微鏡が標準的な鑑識機材とならなかった。その影響は国外の警察機関にまで及んだ。比較顕微鏡が普及しない状態は、FBIが比較顕微鏡を導入するまでの間続くことになった。

(16)仕事が来なくて苦労した時代
 私はすでにウェイトの他界について話したが、それは1926年11月のことだった。彼の死は、グラベルとフィッシャーに、沈みかけの船から逃げだすための恰好の口実を与えた。彼らは実に素早く逃げ出した。それを責めることはできない。彼らは、ウェイトの「この計画が実現したら報酬を払う」という空約束が果たされないまま、何百時間もの努力を無報酬で続けていたのだから。

 我々が法弾道局(the Bureau of Forensic Ballistics)と名付けた法人組織の銃器鑑定のコンサルタント収入は、私が1925年6月1日までに稼いだ裁判での鑑定料の7,500ドルを除くと、1926年6月までの1年間にわずかに50ドルしかなかった。この7,500ドルは、ウェイトに資本金として渡したが、もはやそれも消えていた。法律上はウェイトと私が、グラベルとフィッシャーに対する債務者であり、私も、彼らが費やした時間に対する負債を抱えていた。ウェイトの死後1、2年経ってから、ようやく私は月払いで彼らに債務を返済することができるようになり、1930年ごろになって、ついにそれを払い終えた。

 しかし、ウェイトの死後1年間は、まさに極貧状態に陥った。私の住居兼研究室の家賃が月に150ドルかかった。収入は長い間、ほとんどゼロだった。私とウェイトとの間で交わした共同出資の合意が1925年4月1日で、それから20か月後にウェイトが死亡するまでの法人としての収入は2,250ドルだった。このうち50ドルは裁判にならなかった事件の報酬で、200ドルは私が裁判で証言した事件の報酬である。残りの2,000ドルはサタディ・イブニング・ポスト紙が払ってくれた「弾丸指紋(Finger-printing Bullets)」という記事に対する原稿料だ。

 このような高額の原稿料を得る工作は、もちろんウェイトが行った。彼は、金の頭飾りのついた杖を持ってフィラデルフィアまで赴き、カーティス出版社(Curtis Publishing Company)の社長室に乗り込んだ。そして、「ポスト紙が法弾道局のことを記事にしないことは、将来社名にかかわることになる。載せるからには、私にそれなりの報酬を払うべきである。」と交渉した。社長はその要求を呑んだ(私は、いまだにウェイトがどうやって社長と面会できたのかを不思議に思っている)。

 もし、彼がこの2000ドルを調達できなければ、比較顕微鏡の近代銃器鑑定の機材としての命運は、その時点で絶たれていたに違いない。この2,000ドルで、我々は破産から免れ、ウェイトは脳出血で死亡することができた(彼は救いようのない浪費家だった)。

 この記事の執筆は、スタウト記者(W.W. Stout)が担当した。彼は有能な執筆者で、後にポスト紙の編集主幹となった男である。ウェイトは、親鶏に付いてよちよち歩くヒヨコのように、研究室を訪れたスタウト記者に付きまとった。そして、研究室の業務を知っているのは自分だけであるかの様に振る舞った。我こそ偉大な科学者で、他の3人のメンバーは、単なる事務職員であるかのように扱った。我々3人は、彼のやりたいようにやらせた。それにもかかわらず、スタウト記者は素晴らしい記事を書いた。スタウト記者は、たぶんウェイトのはったりに気付いていたのではないかと私は思っている。

 ポスト誌に記事が出たからには、きっと全世界から注目を集めるものと我々は期待した。ところが、世の中はそれほど軽はずみではなかった。全く、一切、それこそ何も起こらなかったのだ。したがって、ウェイトが死んだとき、私には暗い将来しか予想できなかった。幸いのことにウェイトは、外からは借金をしていなかった。私に仕事はなく、資本金の半分として出資した7,500ドルもなくなっていた。それでも、いつかいいことはあるはず、と私は比較顕微鏡に賭けることにした。

(17)孤独な宣伝活動
 ポスト紙の記事への反響は、すぐには現れなかったが、広範の人々に比較顕微鏡の名前を認知させることができたとは思っていた。そこで私は、いろいろな科学雑誌に比較顕微鏡の記事を次々と投稿した。ほどなく私は、昼食会や夕食会で、比較顕微鏡を作り上げるまでの経緯についての講演を頼まれるようになった。そして、「ホシ(犯人)は誰だ(Whodunit)誌」のライターが、ストーリーに組み入れてくれた。

 比較顕微鏡が受け入れられるようになった最大の理由は、私が比較顕微鏡で何ができるかを継続的に投稿し、印刷された記事をニューヨーク州の各郡の検察官に送り続けたことにあると思う。これによって、鑑定依頼が舞い込むようになり、。裁判に証人出廷し、銃器関係の物件が証拠となる事件が増加していったのだ。こうして氷は融け始めた。

 この時期、私はアパートの中に作った研究室で、風呂場の横に置いたアルコールストーブを使って自炊していた。当時の1日当たりの生活費は40セントだった。私は、雑誌の記事を書き、パンフレットを作成し、図面を書き、それをスライドにし、それを使って銃器鑑識の講演を行い、証拠品の写真撮影をし、必要に応じて写真の引き伸ばしを行った。そして、できるだけ多くの人々に対して、比較顕微鏡の威力を周知させた。人を雇う金はなかったので、秘書もタイピストも文書担当事務の仕事も、すべて私が処理した。その頃のことを振り返ると、私はまさにスーパーマンだった。

 しかし、比較顕微鏡という福音書の販売は順風満帆というわけではなかった。上層からも下層からも懐疑論が起こった。ある大きな警察組織の幹部は、部下の鑑定人が比較顕微鏡を使わずに行っている鑑定に完全に満足しているので、ゴダードの比較顕微鏡など必要としない、と大見得を切った。(この2、3年後、当の鑑定人が比較顕微鏡の熱烈な支持者となり、比較顕微鏡なしで鑑定はできないと言い出した。)この警察幹部は、その後全米の注目を浴びた有名な誘拐事件が発生した際、私のところの当時のスタッフであったレオナルド・キーラー(Leonarde Keeler)と、彼の操る嘘発見器を提供するとの私の申し出を断った。

 刑事事件弁護士とその仲間たちは、比較顕微鏡に対して声高に批判した。しかし、そのような批判は、他の文明国ならいざ知らず、このアメリカでは通用しないことを私は証明した。心のねじまがった、あるいは無能な2名の鑑定専門家の誤った鑑定結果は、この正直で能力のある一人の鑑定人(訳注:ゴダード本人)によって打ち負かされたのだ。彼らの意図して捻じ曲げられた証言は、陪審員の心に疑念を生じさせたのだ(それにしても、偽証と分かった後も、彼らが罪が問われないのは不思議だ)。

  (18)比較顕微鏡の浸透と鑑定対価の引き上げ
 法曹分野と警察界に対して、比較顕微鏡の価値を知らしめる作業は、徐々にではあるが成功裏に進んで行った。取り扱う事件は段々と増加して行き、私の収入は次第に必要とする分を上回ってきた。そのため、私は発射痕鑑定専門の写真屋稼業に専念できるようになった。その上、ウェイトゆずりの商売人としての才覚のあることも証明できた。重要事件の鑑定では、検察官に対して比較写真を付けた仕事では、450ドルを請求できるようになった。(訳注:今の為替レートでは4万円ぐらいで大したものではないが、為替レートと貨幣価値の変化を考えれば、今ならざっと100万円ぐらいに相当するものと思われる。これは、ゴダードが極貧状態だった時の、1日の生活費の40セントを900円とすると計算が合う。)その計算は以下のようにした。

 現場弾丸の写真のネガが1枚25ドルで、6枚で150ドル
 試射弾丸の写真のネガが1枚25ドルで、6枚で150ドル
 大四つ切版(11x14)への引き伸ばしが、1枚1.5ドルで100枚で150ドル
 以上合計450ドル

 なぜ、100枚もの写真を引き伸ばさなければならなかったのか?今となっては私も正確には思い出せない。現場弾丸と試射弾丸を様々な部位で比較して、撮影した比較写真を10セット作成していたことは覚えている。それらのうち1セットは裁判官に、1セットは検察官に、1セットは被告側弁護人に、1セットは被告側鑑定人に、さらに2名の陪審員にそれぞれ1セットずつ渡した。(訳注:2セットの写真を、前後2列の陪審員席で回覧したものと思われる。)

(19)比較顕微鏡写真の効用
 発射痕がきれいに合った場合には、その状況を撮影した比較顕微鏡写真は、知識のない陪審員に発射痕鑑定が何であるかを理解させるのに大変役立った。時には、陪審員に対する発射痕鑑定の講義を、黒板や図表を使って1時間余り行ったことがある。弁護側がこれを許したのを不思議に思うかもしれない。信頼できる検察官が、巧みに言葉を選んだ質問を重ねることにより、この講義が少しずつ実現されたのだ。その時は、弁護側の異議は、裁判官によってことごとく却下されたのである。一方、条痕がよく合わないときには、比較写真は知識の浅い人を混乱させるだけであることから、比較写真を証拠としなかった。

 最初のうちは、比較写真で陪審員を納得させられないような比較結果の時は、私は裁判への証人出廷も断った。その後私は、このような超保守的な態度は誤りであると思うようになった。この状況は、医者がジフテリアの患者に抗毒素(血清)を投与すると決断する時と同じである。患者の喉から採取したプレパラートを、患者本人が顕微鏡を覗いてもジフテリア菌を確認できず、患者から血清の投与を拒否されたとしても、医師は自分の判断で血清を投与するだろう。素人は、どのようなものがジフテリア菌であるかの説明を聞いたとしても、菌を認識することは難しい。(同様の事情から、素人は口頭で十分な説明を受けた後に、発射痕の専門家であれば2個の弾丸が同一の銃腔を通過したものと分かる比較写真を示されても、その特徴を把握することはできず、同一銃器から発射された弾丸とは認識できない。)

 その一方で、発射痕鑑定を始めたばかりの人は、結論を導く際に超保守的な態度を貫くべきだと考えている。たとえ、「一致」の感触が得られた場合であっても、その結論に十分な自信が持てるようになるまでの間は、確信がなければ「不明」の結論を導くように勧める。それによって、罪を犯した人物が無罪放免となったとしても、それはやむを得ないことである。

(20)バレンタインデー虐殺事件
 そして、比較顕微鏡に対する見えざる抵抗など吹っ飛ぶ事件が発生した。少なくともアメリカ合衆国内では、どこからも抵抗されることはなくなった。それは、1929年2月14日にシカゴで発生した「バレンタインデー虐殺事件」であった。(訳注:Saint Valentine's Day massacreといわれることが多いが、原文ではSaintSt.は付いていない。)この事件では、6人のギャングメンバーとその知り合いの1人が、サブマシンガンによって市内のガレージで射殺された。この事件のニュースバリューは大きく、人々の多大な注目を集めた。私は、ニューヨークからシカゴに招かれ、銃器由来の証拠物を解析した。

 この事件では、口径0.45インチ自動装てん式拳銃用の弾丸が70発発射された。ただ、被害者の遺体とその周辺から回収された弾丸の多くは破片化していた。さらに45ACP の多数の打ち殻薬きょうが回収された。それらの資料を解析した結果、すべてがトンプソン・サブマシンガンによって発射されたものと結論された。

 その当時、45ACPの実包を使用する主な銃器は5種類だった。コルト自動装てん式拳銃がその一つで、この実包は、この拳銃のために開発された。そして、アメリカ軍の装備拳銃として1911年に採用されていた。他にサベージ自動装てん式拳銃があるが、これはわずか200丁が製造されたにすぎなかった。その他に、コルトとスミス・アンド・ウェッソンの1917年型回転弾倉式拳銃とトンプソン・サブマシンガンがあった。その中で、コルトM1911自動装てん式拳銃とM1917回転弾倉式拳銃の腔旋諸元は同一で、その他はそれぞれ異なる腔旋諸元であった。もっとも、発射痕鑑定の経験を積んだ者にとっては、コルトの自動装てん式拳銃と回転弾倉式拳銃の発射痕の識別に困難を感ずるこはなかった。ところで、現場弾丸の腔旋痕は右回転であり、コルトの左回転は除外できた。

 現場弾丸は右回転4条の腔旋痕であり、トンプソンを除く各銃器の腔旋痕は、いずれも6条であることから除外できた。ここであえて付け加えるが、S&W回転弾倉式拳銃の発射弾丸には、回転弾倉式拳銃特有の弾丸頭部側で旋丘痕幅が広くなる特徴が残されるが、現場弾丸の腔旋痕にそのような特徴は見られなかった。それに加えて、打ち殻薬きょうのきょう底面には、トンプソン特有の円弧状痕跡が残されていた。そのような痕跡は、その他の拳銃では見られることのない痕跡であった。

 私は、以上の鑑定結果を、多数の顕微鏡写真を添えて報告した。この報告書は、まさに熱狂的な注目を浴びた。

(21)シカゴ犯罪科学研究所の設立
 バレンタインデー虐殺事件の鑑定で、私の宣伝活動はピークを迎えた。この事件の発射痕鑑定結果に関する講演会が、シカゴ警察の最高幹部とスペシャルゲストを交えて開催された。シカゴ・トリビューン紙が、日曜版に丸々1ページを割いて、写真入りで最新の発射痕鑑定技術の紹介記事を載せた。地元の億万長者であるマッセー氏(B.A. Massey)が、私に毎年1万5千ドル提供してくれることになった。これは当時としては相当な金額で(訳注:今の3,300万円ほどであろうか)、シカゴに私の研究所を開設し、シカゴ広域圏の警察署の発射痕鑑定を、私がフルタイムで行うことができるものであった。そのような活動資金を慈善事業として提供してくれたのだ。比較顕微鏡を用いた発射痕鑑定は、これで正当な評価を得ることができた。

 その後の歴史については、ごく簡単に触れるにとどめよう。私は、金持ちの勧めに応じて、発射痕鑑定だけでなく、犯罪鑑識全般を行う犯罪捜査研究所を設立することにした。当時、そのような研究所は、アメリカのどこを探しても存在しなかったので、私は1929年の夏のすべて使って、ヨーロッパの13か国の科学研究所や法医研究所を巡った。帰国してから、研究所設立の場所や資機材やスタッフの選定を行い、1930年4月にシカゴ犯罪科学研究所をノースウエスタン大学内の一組織として設立した。

 ここでは、この研究所や、その後のアメリカ国内の同様の研究所について語る余裕はない。ただ、我々の研究所がこの種の研究所としては、アメリカで最初のものであったことに誇りをもっている。開設当初のスタッフは12人であった。今では、そのうちのチャールズ・ウイルソン(Charles McCormick Wilson)はウィスコンシン州の、クラレンス・ミュールベルガー(Clarence W. Muehlberger)はミシガン州の犯罪捜査研究所長となっている。レオナルド・キーラー(Leonarde Keeler)は嘘発見器を完成させた。(彼は、その経歴の絶頂期の1949年に亡くなられた。)彼の奥さんは、文書鑑定者として評判を得たが、やはり亡くなられている。そして私は、シカゴを去った後に、アメリカ陸軍警察としては最大の研究組織である軍警察部隊(Corps of Military Police)の中の米国陸軍犯罪捜査研究所極東本部指揮官を3年間務めた。

 1931年には、ノースウエスタン大学にアメリカ国内初の科学捜査学校を開設した。この教室にはFBIの捜査官が参加していた。その翌年の1932年には、FBIは自らの研究所と教育組織を立ち上げた。それ以来、FBI研究所とFBIアカデミーは大変有名となった。

 1925年にニューヨークで、2部屋しかない研究所として、つつましく出発した犯罪捜査科学は、犯罪捜査に用いる科学的手法として、その数年後には全国規模で健全な発展を見せた。今後、この発展がやむことはないであろう。この発展が力強く進むことを、また、この分野が収縮してしまわないよう、心から祈っています。

(22)追補
 この原稿を見て、私が、ウェイトとその仲間に合流する以前から行っていた発射痕鑑定について、全く触れていなかったことに気付いた。ウェイトと出会うことになる1924年の前半までの2年間、この問題について私は、すでに広範囲で精力的な活動を行っていた。

 1924年の4月まで、私はニューヨークで管理職をしており、その前の3年間もボルチモアで同様の仕事をしていた。ボルチモア時代、私は発射弾丸と打ち殻薬きょうを発射銃器に結び付けることに強い関心を寄せていた。このようなことに興味を抱いた理由についてはよく分からないが、思い出す限りでは、私は銃器ファンであり、銃器収集家でもあり、関連文書を好んで読み漁っていた。弾丸や薬きょうの発射銃器を特定する問題についても、どこかできっと読んでいたのであろう。

 そこで私は、それに関連した英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語(残念ながら、私の語学能力はここまでであった)で書かれたすべての文献を読み漁り、そこで見つけた発射弾丸を金属箔の上で転がして発射痕を転写する手法を、自ら試してみた。ニューヨーク内の会社に各種の純度の鉛箔を注文して実験を繰り返した。すると、純度90%以上の鉛箔を使うとよい結果が得られたことを覚えている。(純度が高ければ高いほど良い結果が得られた。)また、自分が書いた図面の機材を作ってくれる会社を探して作らせた。それらの中に、2個の弾丸を同一平面上に並べて回転させ、それを大口径の単一レンズで観察する装置も含まれていた。これによって、2個の弾丸の細かい痕跡を同時に観察可能となった。思えば、ずいぶん熱心に研究したのだが、実用になる成果は得られなかった。

 これらの研究に使う発射弾丸資料を得るため、私は日曜日ごとに、大きな箱に収納した20~30丁の回転弾倉式拳銃と、90cmの深さのドラム缶に綿を詰めたものを車に積み、人里離れた田舎までドライブし、そこで1発ずつ試射弾丸を採取する作業を行った。弾丸を採取すると、それに発射拳銃を示す記号を書き込む作業を行った。打ち殻薬きょうにも、同様のマークを付けて研究資料とした。その週のうちに、これらの資料を当時の機材を使って観察し、同一拳銃から発射された2個の弾丸を、同一拳銃の発射弾丸と結論できるか否かを調べ上げた。しかし、その結果はすべて否だった。

 ニューヨークに移り住んでからは、もっと精度の高い顕微鏡を用いて研究する手法へと発展した。私は、ニューヨーク州ロチェスターにある有名な光学機器メーカーであるボシュロム社(Boush and Lomb)に手紙を書き、私が必要としている機材に付いて説明した。そうしたら、ニューヨーク市にそのようなことを熱心に研究しているウェイトという人がいて、最近彼のために同種の装置を製作したとの返事が戻ってきた。私はウェイトに電話をし、その結果、彼の甘言のとりこになってしまい、一緒に研究することになったのだ。

(23)訳者あとがき
 ゴダードは、1891年生まれで、1955年に64歳で亡くなられている。この講演が行われたのは、1953年5月11日のことであり、亡くなられる2年前のことである。この講演では、発射痕鑑定に比較顕微鏡を持ち込んだカルビン・ゴダードの知られざる苦労話の多くが語られている。発射痕は、弾丸発射ごとに少しずつ変化し、さらに発射弾丸は大きく変形損傷することが多い。そのような悪条件のもと、発射弾丸や打ち殻薬きょうを発射銃器と結びつける作業は、頭で考えるほど容易なものではない。その作業を、何もないところから、さまざまな障害を乗り越えて実務としてこなしてきたゴダードの苦労がよく分かる講演である。

 フランスのバルタザールが提唱した、発射弾丸の周囲を、何コマも拡大撮影し、それをつなげて展開写真にして比較する方法は、当時は実用とはならなかった。それから半世紀を経て、訳者がこの仕事を始めた時でさえ、そのような作業を真面目に考える鑑定者はいなかった。その後、ゴダードは比較顕微鏡を発射痕鑑定に導入し、目覚ましい成果を上げる。ところが、1990年代以降、デジタル写真技術が発達したことにより、比較顕微鏡で実物比較をするより、一旦写真を撮影し、それをコンピュータディスプレイ上で比較した方が手間がかからなくなった。新たな技術の導入によって、実務のやり方が変化するよい例であろう。現在その恩恵を享受している人たちは、昔の写真撮影とその後の写真の現像や焼き付けの大変さを知らない。

 写真を撮ってから比較する手法から比較顕微鏡で観察する手法に変わった際に、ゴダードが丁寧に比較写真を撮影していたことが分かる。ゴダードが語っているように、発射痕鑑定の仕事の大半は写真屋稼業であった。しかしその後、比較顕微鏡を用いると、わざわざ比較写真を撮影しなくても鑑定ができる簡便さから、米国では比較写真はほとんどの場合で撮影されないようになった。そして、鑑定書は「比較顕微鏡で観察した結果、容疑者の拳銃で現場弾丸が発射されたものと結論された。」とする簡単なものになった。その後、裁判で鑑定人が鑑定経緯を口頭で証言するだけでことは済むようになったのである。そうなると、発射痕がどのようなもので、どのような対応点があったのか、鑑定人以外が確認できる資料は一切なく、その記録も残らないようになった。鑑定人本人ですら、事件が多ければ、重大事件でもない限り、実際のところ何も覚えていないというのが実際であろう。

 米国の科学的証拠の証拠能力は、1923年のフライの裁判によって、新規の技術に基づく証拠はにわかには認められないものとなった。このゴダードの講演によれば、米国で比較顕微鏡による発射痕鑑定が始まったのは1925年で、フライ・ルールが適用されるようになった後の出来事である。そもそも、フライの事件は射殺事件であり、後にゴダードがその鑑定を行っている。たぶん、ゴダードの説得力の高い証拠資料によって、発射痕鑑定はフライの規則をパスしたのであろうと訳者は考えている。鑑定手法が確立された時期の偉大な先人の努力に感謝しなければならないのである。

 アメリカでは1993年になると、裁判で科学的証拠を採用するうえでのドーバートの条件が示される。すると、発射痕鑑定も指紋証拠などとともに、無条件に受け入れられる証拠とは考えられなくなった。その結果、適切な手続きで鑑定が行われたことを示すには、比較写真は必要だとする意見が強くなった。それでも、仕事量が多いことを主な理由として、発射痕鑑定に比較写真を義務付けることは難しかった。鑑定手法が誕生する頃は、先人は莫大な努力を払って、高いレベルの鑑定を行ってきたことがこの講演から分かるが、そのための対価も要求した。これはその後、経費の高い鑑定が信頼性の高い鑑定のように評価される理由になったかもしれない。

 ゴダードと一緒に発射痕鑑定の仕事をした人で、現在ご存命の方はほとんどいらっしゃらないと思われる。ゴダードが亡くなられた頃に20歳だった人も、現在では75歳となっている。そのため、直接会った方ことのある人はいても、直接教えを受けた方々はもういなくなっているはずである。直接の知り合いがいなくなった時点で歴史上の人物とされるらしいが、一緒に発射痕鑑定の仕事をした方の話は、アメリカ国内でも聞くことはできなくなっており、歴史上の人物となっている。訳者は、幸運にもゴダードと一緒に仕事をした人の薫陶を受けることができた。警視庁科学捜査研究所長で辞められた荻原嘉光氏が、法科学第二部付主任研究官として科学警察研究所に在籍されたときに、一緒に仕事をすることができた。この講演の中で紹介されているように、ゴダードは、第2次世界大戦後来日し、米国陸軍犯罪捜査研究所極東本部指揮官を3年間務めている。その際、荻原氏はその下で仕事をしたという。60歳近くになっていたゴダードと20代前半の荻原氏との関係であるから、この講演の中にあった、ウェイトとゴダードの関係のようなものだったかもしれない。その年齢差は、荻原氏と一緒に仕事をした当時の訳者と荻原氏の年齢の関係ともほぼ同等である。それでも、指揮官自らが比較顕微鏡を覗く仕事をしていたという話であった。

 歳をとってもこの仕事に対する情熱を失わずに、鑑定作業も行っていたという。そして、強い自信を持って仕事をしていたという。軍の内部の犯罪捜査であり、容疑銃器がたくさん挙がることが多かったらしい。その中で、「これだ」ということが分かれば、ゴダードは、残りの試射弾丸や試射薬きょうは一切見なかったという話を何度も聞かされた。「私なら、残りの資料も、顕微鏡に載せて、どんなものかの確認ぐらいしたくなるが、ゴダードは自信を持っていたから、その必要はないと断言していた。」という話を荻原氏から何度もうかがった。もちろん、それだけの自信を持てなければ、「これだ」にはならないのである。

     (2010.11.2)        


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