(1) はじめに
(2) 銃器工具痕鑑定が内包する重大な3欠点
(3) 銃器工具痕鑑定には統計的・経験的基礎が欠落していること
(4) 伝統的な主観的鑑定手法
(5) 連続一致条痕の判断基準
(6) どちらの手法が優れているのか?
(7) 銃器工具痕鑑定には科学的信頼性が欠けている
(8) 何も知らずに行う弁護を排除しよう(鑑定人は見ただけで分からない)
(9) 不完全な既存体制
(10) 捜査を追認する偏り
(11) 銃器工具痕鑑定の個別排除
(12) 不備な鑑定書面
(13) 容疑銃器不在下の鑑定結果
(14) 捜査機関が偏向している確たる証拠
(15) あとがき
(a) 全体を通じての感想
(b) 銃器工具痕鑑定の原理には矛盾がある
(c) 銃器工具痕鑑定にはおける統計的・経験的基礎
(d) 伝統的な主観的鑑定手法について
(e) CMS理論に対する的確な見解
(f) どちらの手法が優れているかの議論
(g) 銃器工具痕鑑定に科学的信頼性がないという議論について
(h) 何も知らずに弁護はするなの議論について
(i) 不完全な既存体制の議論について
(j) 捜査を追認する偏りの議論について
(k) 銃器工具痕鑑定の個別排除の議論について
(l) 不備な鑑定書面の議論について
(m) 容疑銃器不在下の鑑定結果の議論について
(n) 捜査機関が偏向している確たる証拠の議論について
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(1) はじめに
アメリカには法科学鑑定証拠の信頼性をチェックするフライの基準とドーバートの基準がある。州によって採用している基準がそれぞれであり、フライの基準を採用しているフライ州とドーバートの基準を採用しているドーバート州とに分かれている。いずれにしても、銃器鑑定がこれらの基準に適合しないとして、裁判での証言を拒否された例はほとんどない。
この現状を変えようとして、銃器鑑定を裁判の証拠として認めさせない活動を活発に展開している人たちがある。その急先鋒の一人がアディーナ・シュヴァルツ(Adina Schwartz)教授である。彼女は、ニューヨーク市立大学ジョン・ジェイ・法科カレッジ(John Jay College of Criminal Justice)の法律・警察科学・刑事司法学部(Department of Law, Police Science and Criminal Justice Administration)教授である。銃器工具痕鑑定より信頼性の低い法科学鑑定分野が他にあると思われるのに、なぜ彼女が銃器・工具痕鑑定の信頼性の欠如をことのほか問題として、集中砲火を浴びせかけているのかは定かでない。日本では、銃器鑑定が注目される機会はほとんどないが、アメリカでは殺人事件の凶器の過半数は銃器であり、銃器鑑定結果が重要な証拠となる事件が多い。この証拠の信頼性を争うことは、この分野の教授として名声を得る重要なステップなのだろうと推察される。アメリカの銃器・工具痕鑑定者の間では、アディーナの名前は、まさに天敵のような存在として知られている。
シュヴァルツ教授は、法学の専門家であり法科学の専門家ではない。ただ、銃器工具痕鑑定に関する知識を専門筋から得ることにより、その批判は的外れなものではなくなっている。火のないところに煙は立たずであり、手ごわい批判には耳を傾ける価値がある。ともすれば批判の否定に躍起となり、その批判に真摯に向き合わなくなりがちであるが、せっかく丁寧に問題点を指摘してくれているわけであるから、その批判に耳を傾けることによって得るものは大きい。ただ、批判者の側にも、相手を否定し去り、排除するだけでなく、相手を育てる視点がほしいことはいうまでもない。
(2) 銃器工具痕鑑定が内包する重大な3欠点
シュヴァルツ教授は、銃器工具痕鑑定者から多くの情報を収集しているものと思われ、銃器鑑定は工具痕鑑定の一分野であると定義している。そして、銃器工具痕鑑定者がその鑑定書において、「問題となっている発射痕あるいは工具痕が、特定の1丁の銃器あるいは1本の工具によって付けられたものであり、その他の銃器あるいは工具に由来するものではない。」との結論を書いていることには、科学的根拠がないと批判している。そして、銃器工具痕鑑定の論理には、次の3つの欠点があると主張している。
第1の欠点:工具痕の固有特徴は、固有ではない痕跡の組み合わせから成ること
第2の欠点:工具痕の固有特徴は、工具の使用過程で変化すること
第3の欠点:準型式特徴を固有特徴と見誤る危険性があること
その論点は以下のとおりである。
第1の欠点:工具痕の固有特徴は、固有ではない痕跡の組み合わせから成ること
銃器工具痕鑑定の信頼性を失わせる第1の欠点は、鑑定者らの用いている「固有特徴」という用語の曖昧さにある。時に鑑定者は、特定の工具によって残される痕跡全体を「固有特徴」と主張することがある。その一方で、別のときには痕跡全体は工具に固有のものではなく、そのうちの一部分の痕跡パターンのみが工具に固有のものだと主張する。工具痕の一部に固有性があることは、1935年のガンサーの教科書の中ですでに主張されている。「型式特徴が同一の銃器による発射痕も、決して同一痕跡とはならないであろう。しかし、銃器の特徴の要素となるものが、他の銃器の特徴の中に現れることがあるのも事実である。...このことから、型式特徴が同一の銃器の間における発射痕の固有性は、これらの特徴痕跡の組み合わせが、他の銃器の発射痕に現れる可能性がきわめて低い組み合わせで現れている場合にのみ成立する。」
異なる工具によって残される工具痕であっても、部分的には互いに重なり合う固有特徴が存在することから、ある程度の類似性が見られるからといって、同一工具によって付けられた工具痕とする鑑定者の結論は、時に誤鑑定となる可能性が出てくる。高名な銃器工具痕鑑定者であるアルフレッド・ビアゾッティ(Alfred Biasotti)、ジョン・マードック(John Murdock)とブルース・モラン(Bruce Moran)によれば、個別のケースにおける結論には鑑定者の間で相違があり、「鑑定者によっては、わずかな量の一致条痕しか見られなくても、そのような一致は異なる工具によって付けられた工具痕には見られないとして、同一工具に由来する工具痕と結論している」ようである。
1990年代にアルコール・タバコ・銃器局(BATF)がIBISという鑑定システムを開発したことによって、異なる工具によってもきわめて類似性の高い工具痕が付けられることがあることが判明し、鑑定者が誤鑑定に至る可能性のあることが明らかとなった。当初IBISは、膨大な量の弾丸と薬きょうの痕跡を比較する手段を鑑定者に提供した。それまで鑑定者が比較することのできたのは、担当した事件の資料と、訓練の際に与えられた資料に限られていた。
銃器工具痕鑑定者ジョセフ・マソン(Joseph J. Masson)は、IBISのデーターベースに登録した痕跡の数が増大するに従い、同一口径の異なる銃による発射痕の間には、それまで鑑定者の間で考えられていた程度を上回る類似痕跡が見られることを明らかにした。IBISのデーターベースが拡大するに従い、同一メーカーが製造した同一口径の拳銃で試射された打ち殻薬きょうの画像データーが増加した。すると、IBISの類似痕跡候補リストの上位10どころか15位までに、同一拳銃の発射痕より類似しているとIBISが判断した発射痕跡がリストアップされるようになった。NRC報告書では、「同一型式特徴の拳銃の発射痕画像データがあふれたことにより、IBISの検索性能が低下した」と述べている。
第2の欠点:工具痕の固有特徴は、工具の使用過程で変化すること
銃器工具痕鑑定の信頼性を失わせるもっと重大な問題は、特定の工具によってつけられる固有特徴痕が、時とともに変化してしまうという点にある。もちろん、銃器工具痕鑑定者は、同一銃器による発射弾丸に残される工具痕が、永久に変化せずに再現されるとは考えていない。工具痕の変化は、工具を使用することによって発生する工具の表面形状の変化を反映したものである。工具表面の変化は、工具の損傷や腐食によっても生じる。特定の銃器によって実包構成部品に付けられる工具痕の弾丸発射ごとの変化は、「これらの痕跡は銃器と実包との間に発生する相互作用によって付けられるのだが、弾丸発射ごとに発生する圧力や速度が変化し、痕跡形状、痕跡位置、痕跡の局所性などが、たとえ同一銃器によって同一種類の実包を発射したとしても変化してしまうからである。」
これらのことから、アメリカの裁判において以下の事柄が認定されてきた。
「たとえ、同一銃による試射薬きょうと現場薬きょうの発射痕との間で、完全に痕跡が一致することは現実にはありえない。」
同じ理由から、「薬きょうの発射痕跡が多少異なるからといって、それらが異なる銃の打ち殻薬きょうであるとは言えない。同一銃で発射を繰り返した場合、特に、長期間にわたって発射が繰り返された場合、摩耗や偶発事象によって痕跡が変化することは当然である。」
「弾丸発射ごとに銃身は徐々に変化し、銃身が変化することによっても薬きょうに付けられる発射痕跡も変化する。同一銃器の打ち殻薬きょうであっても、弾丸発射時の状態が異なると、薬きょうが銃器の種々の部品に接触する条件が変化するため、薬きょうの発射痕が変化するのである。」
犯罪現場に残された工具痕と容疑工具を用いて作成された対照工具痕との間に差異が見られた場合、容疑工具の表面が現場資料の工具痕を付けた時点から変化した場合もあろう。時には、そのような結論は誤りで、異なる工具による工具痕が、犯罪現場に残された工具痕と類似しているだけのこともある。現場資料と対照資料との痕跡の差異を、同一工具の痕跡の時間経過による変化とする結論が誤鑑定となる場合もあれば、その種の痕跡の差異があることから、本来同一の工具による痕跡であることを見逃してしまう誤りを犯すこともあろう。
アルコール・タバコ銃器局(BATF)の銃器工具痕鑑定者で、当代随一の銃器工具痕鑑定技術の擁護者であるロナルド・ニコルス(Ronald Nichols)は、この困難な問題を回避するため、工具痕が次第に変化したとしても、鑑定者はこれによって容疑工具を見逃すことはあっても、異なる工具を現場工具痕と結びつける誤鑑定は引き起こさないとした。しかしながら、この分野で最も古く、最も詳細な研究として知られるビアゾッティの研究結果によると、口径0.38インチ・スペシャル型のスミス&ウェッソン回転弾倉式拳銃の発射弾丸の旋丘痕と旋底痕を比較対照したところ、同一拳銃による発射弾丸の間にみられる一致条痕の割合は21~38%、異なる拳銃による発射弾丸の間にみられる一致条痕の割合は15~20%であったという。同一拳銃による発射痕と異なる拳銃による発射痕との間にみられる痕跡の類似性の差が、ほとんど重なり合うまで接近している。この研究結果は、異なる拳銃による発射痕を同一銃器による発射痕と結論してしまう誤鑑定がなされる可能性を強く示唆している。
第3の欠点:準型式特徴を固有特徴と見誤る危険性があること
銃器工具痕鑑定の信頼性を失わせる3番目の障害は、準型式特徴の問題である。同一工具によって製造された同一バッチの工具には、それらの工具に共通した準型式特徴と呼ばれる共通特徴が存在する。その共通特徴痕は、あたかも固有特徴痕のように、顕微鏡で観察しても痕跡パターンが一致する。鑑定実務において、型式特徴、準型式特徴と固有特徴の区別が困難な場合があり、鑑定者が複数の工具によって共有される特徴痕跡である準型式特徴を、唯一の工具にしか存在しない固有特徴と混同することによって、誤った結論が導かれることがあると指摘している最近の論文が存在する。逆に固有特徴痕を型式特徴あるいは準型式特徴と混同すれば、見逃し鑑定も生じてしまう。
私の主張に反駁する目的で、ロナルド・ニコルスは銃器工具痕鑑定者によってなされた19件の研究論文を取り上げた。しかしながら、それらの論文を最大限評価したとしても、それらの論文は固有特徴と準型式特徴の厳密な線引きはしていない。顕微鏡で観察した時、どれが固有特徴で、どれが準型式特徴なのかを区別する厳密なルールを与えていないし、どのような工具あるいは製造法で準型式特徴の問題を生じるのかについても明確な回答を与えていない。複数の工具痕によって共有される準型式特徴と、唯一の工具でしか存在しない固有特徴とを混同した結果引き起こされる誤鑑定を防止するため、個々の鑑定者は、銃器の製造や仕上げの工程、及びその製造法や仕上げ法によって工具痕がどのような影響を受けるかについての自らの知識に頼って鑑定を行っているのが現状である。
このような事態に対処するため、ビアゾッティとマードックは、「ある種の機械加工プロセスにおいて、極めて類似した表面形状が再生されることから、連続生産された工具の表面形状の間には、注意深く対処しないと誤鑑定を引き起こす類似性が存在する」と警告した。彼らは、「鑑定者は様々な機械加工や製造手法に精通し、製品の表面形状に製造工具を特定できるだけの固有性があるか否かを、その製造手法ごとに評価しなければならない」と警告している。ところが、私の質問状に対してニコルスは、指摘された準型式特徴に関する論文は、鑑定者が準型式特徴と固有特徴を混同することを意味するものではない、と反論している。一方、誠意のある複数の銃器工具痕鑑定者は、仕上げ加工技術にどれだけ精通しているかこそが、準型式特徴の問題に適切に対処する上で重要であると教えてくれた。仕上げ加工に関する知識と製造工程の知識がない鑑定者には、準型式特徴について論ずる資格はないとのことである。ところで、2007年の裁判でニコルスは、「準型式特徴と固有特徴との区別は難しくない。」と証言していた。彼は最近「準型式特徴に対処することに問題点は何らない」と書いている。
準型式特徴を固有特徴と見誤ることによって誤鑑定に陥る危険性があることは事実であり、机上の空論ではない。銃器工具痕鑑定者として高名なブルース・モラン(Bruce Moran)は、この種の判断ミスによって、1980年代の線条痕鑑定の中には誤鑑定があったと報告している。これに応えて、銃器工具痕鑑定者学会(AFTE)は鑑定基準策定委員会を組織した。準型式特徴の用語は、この委員会が1989年に定義し、1992年版のAFTE用語集に収録された。
高名な銃器工具痕鑑定者が作成した用語集の中で、「準型式特徴を固有特徴と注意深く区別する必要がある」と警告しているにもかかわらず、私の経験では、大半の検察官は、その陳述や書面の中で準型式特徴について触れていない。準型式特徴について一切考慮していない検察側の鑑定証人の証言は、「可能性がある」程度のものとして受け取ることにする、と裁決した判事もいる。その決定の中で、その判事は「多くの批評家が、準型式特徴を固有特徴と見誤ることによって、誤鑑定をする危険性があると指摘している。」とその理由を述べている。そして、ドーバート聴聞の際に、「検察側の証人は、準型式特徴の影響を考慮しておらず、証人は本件証拠に準型式特徴の影響が現れているとした場合に、それを固有特徴から区別する方法を知らない(ので信用できない)。」と結論した。
固有特徴と準型式特徴を区別できるのかという問題は、薬きょうの痕跡の場合では特に重要である。薬きょうの痕跡の鑑定では、閉塞壁痕と撃針痕が異同識別の手段として用いられる。これらの痕跡は弾丸が発射された場合にのみ付けられる痕跡であり、単に実包を銃に装填したり脱包しただけでも付けられる痕跡とは異なり、重要性の高い痕跡である。銃器部品の製造法のいかんにかかわらず、閉塞壁痕には準型式特徴が存在する。ニコルスは、「閉塞壁は切削、フライス加工あるいは鍛造によって加工される。いずれの加工法でも、準型式特徴は現れる。」と書いている。同様に、撃針痕にも固有特徴のみならず準型式特徴が現れるという研究結果があり、著名な銃器工具痕鑑定者は、撃針痕の鑑定結果だけで発射銃器を特定することは危険であると警告している。
さらに現場資料から、その発射銃器の型式を特定できない場合には、準型式特徴と固有特徴の区別はさらに困難となる。このような場合、鑑定者は比較する対照資料の銃種の絞り込みができず、多くの資料とのシラミつぶし的な比較対照を行う必要が生じるからである。ビアゾッティ、マードックとモランによれば、「準型式特徴の影響の有無を調べる最も確実な方法は、問題となっている工具痕を付けた工具の表面を直接調べることである。」と述べている。そして、「容疑銃器が存在しない状況で、発射銃器を特定することは特に困難である。」としている。同じ理由から、共同試験機関(CTS、訳注:アメリカの代表的な法科学技能検定機関)の行っている鑑定技能検定試験では、発射銃器を直接検査できない条件下で発射痕から発射銃器を特定させているが、銃器工具痕鑑定者の中には、このような試験方法を批判している者がいる。CTSの2003年の技能検定試験の報告書には、受験した鑑定者の一人から、「この検査で準型式特徴の影響を排除するには、試射拳銃の閉塞壁のレプリカが必要である。」とコメントされている。また、別の鑑定者は、「実務では、他の機関が試射した試射薬きょうだけで鑑定することはない。準型式特徴の影響を排除するためには、発射痕の元となる銃器の作業面の観察をしなければならないからである。」とコメントしている。
多くのメーカーから多種類のモデルの銃器が製造され販売されるようになったことから、発射銃器が手元にない条件で行われる発射痕鑑定の困難さが増大している。事実、カリフォルニア州では毎年2000種類以上のモデルの自動装てん式拳銃が販売されている。私が関係した事件の一つで、ロサンゼルス警察の鑑定者は、「発射弾丸の腔旋痕諸元に該当する発射銃種があまりにも多種類となってしまい、発射銃種の特定は困難であった。そのため、発射痕特徴が準型式特徴であるか固有特徴であるかを、銃種を特定して吟味することはできなかった。」とのことであった。それにもかかわらず、その鑑定者は、当該の発射痕に準型式特徴が存在することの可能性を排除して、当該の薬きょうが同一の拳銃によって発射されたものであるとの結論を導いていた。
(3) 銃器工具痕鑑定には統計的・経験的基礎が欠落していること
銃器工具痕鑑定が3つの欠点を抱えていることは前述のとおりであり、信頼性のある銃器工具痕鑑定の結論は、本来確率的表現がなされるべきものである。また、準型式特徴と固有特徴の区別が難しいことから、異なる工具によっても類似した工具痕が付けられることがあることは認めなければならない。その一方で、同一工具によって付けられた痕跡も完全に同じではない。したがって、二つの類似した工具痕が、同一工具に由来するものか、異なる工具に由来するのものかは、確率的な回答しかできない問題である。犯罪現場に残された工具痕を付けた工具と同一型式の工具をランダムに選択し、その工具によって犯罪現場に残された工具痕とどれだけ類似した工具痕が付けるのだろうか?特に、近接した順番で製造された工具が用いられた場合、それらの痕跡はどれだけ類似しているのだろうか?
銃器工具痕鑑定者は、痕跡の異同識別の結論が確率的であることを暗黙に否定し、犯罪現場の工具痕は容疑の工具によって付けられたものであり、この世に存在するそれ以外のすべての工具は、犯罪現場の工具痕を付けた工具ではないと断定する。ロナルド・ニコルスは弁護人からの質問を受けた際に、「犯罪現場の工具痕が容疑の工具によって付けられたものと断定せずに、容疑の工具以外の工具によって付けられた可能性は限りなく小さく、現実的にはその可能性は無視できる。」との言い逃れの証言をするように鑑定者に勧めている。銃器工具痕鑑定者の証言は言語学上はともかく、科学的に問題がある。工具痕の異同識別の鑑定結果を、断定的に結論するにしても確率的に結論するにしても、その結論を導く上で必要とされる経験的、統計的根拠が希薄なのである。
(4) 伝統的な主観的鑑定手法
銃器工具痕鑑定者が法廷で行う証言のスタイルで多いものは、白髪交じりの高名な学者先生の証言と同様で「私の意見は、私のこの分野における長年の経験に基づくものである。」というお定まりのものとなっている。犯罪現場の工具痕を付けた工具の特定は、それぞの鑑定者の心中にある「工具痕が互いに類似しているから、それらの痕は同一の工具によって付けられたものであろう。」という曖昧な主観に基づいた結論である。両者の痕跡にどの程度の、あるいはどのような類似性があれば、同一工具の痕跡と結論できるのかを明確にしようとする試みは一切見られない。また、種々の形状の工具痕を顕微鏡で観察し、特徴痕の出現状況に関するデーターベースを作成しているわけでもない。いみじくもビアゾッティは、「このような主観的な鑑定を続けていていは、同一工具に由来する痕跡と、異なる工具に由来する痕跡との区別を正確に行う判断基準を策定するために必要な統計的データを、我々が持っていないことを認めていることになる。」と語っている。また、「科学的知識体系に基づいた判断を行わずに主観的鑑定を続けていくことは、鑑定の科学性を損なうことになる」と批判している鑑定者もいる。
銃器工具痕鑑定者は、自らのの鑑定が科学的であることの根拠として、「AFTEの異同識別の理論」に基づいていることを挙げる。ところがAFTEの鑑定理論には、銃器工具痕鑑定が立脚すべき統計的・経験的根拠がないことから、その鑑定の科学性の根拠とはならない。AFTEの異同識別の理論は、「犯罪現場の痕跡と対照痕跡との類似の程度が、異なる工具によって付けられた痕跡の間に認められる最も良好な類似程度を上回っており、かつ同一工具によって付けられた痕跡の間に認められる類似性と矛盾しない場合には、それらが同一工具による痕跡と結論できる。」というものである。ニコルスは、「異なる工具によって付けられた痕跡の間に認められる最も良好な類似程度」がどのようなものであるかの統一見解はないことを認めている。したがって、AFTEの鑑定理論が、実務における鑑定者の判断に全く役立たないにもかかわず、ニコルスはその鑑定理論が空虚なものであることを認めようとしない。
ニコルスとは異なり、「彼女(訳注:アディーナのこと)が主張するように、この鑑定理論はトートロジーであり、実際の鑑定では、個々の鑑定者が自らの基準で判断することになる。」と認めた判事がいる。また、「銃器鑑定における鑑定者の意見は極めて主観的であり、鑑定者が『十分な対応条痕がある』といっても、その基準は結局のところ曖昧である。」とした判事もいる。
(5) 連続一致条痕の判断基準
ビアゾッティとマードックは、1997年に線条痕に関する連続一致条痕(CMS)の判断基準を提案した。CMS基準では、工具痕を3次元の物体表面形状ととらえたとき、犯罪現場の工具痕と対照工具痕が同一工具に由来するものと結論するための判断基準は以下のとおりである。すなわち、「工具痕の1箇所で6本の連続一致条痕が認められた場合、あるいは相対位置関係が等しい2箇所で、少なくとも3本の連続一致条痕が認められた場合」である。また、工具痕を2次元的な表面画像ととらえたときは、「工具痕の1箇所で8本の連続一致条痕が認められた場合、あるいは相対位置関係が等しい2箇所で、少なくとも5本の連続一致条痕が認められた場合」である。
連続一致条痕の判断基準は、伝統的な主観に基づく鑑定手法を批判してきたビアゾッティによって開発された。ビアゾッティは1950年代から、「銃器鑑定には、同一銃器による発射痕であるとの結論を導く上で、事実に基づく統計的データーが全く欠落している。」と批判を開始していた。彼は次のように書き残している。「我々が今の状態で良しとしてしまえば、統計的データに基づき同一工具痕を識別するための客観的な判断基準の開発は行われなくなり、銃器工具痕鑑定は、個々の鑑定人の直観に頼っている現在の技芸的な状態にとどまり続けるだろう。」
ところがCMS基準は、これまでの伝統的手法に対抗するものと受け取られ、広範囲の銃器工具痕鑑定者から批判を受けることとなった。銃器工具痕鑑定者の中で、CMS批判の旗頭の一人であるシュテファン・バンチ(Stephen G. Bunch)によれば、「アール・ビアゾッティが1950年代に独自の異同識別判断基準の研究を行って以来、法科学的銃器鑑定の客観的手法と主観的手法に関する論争が行われてきた。特に、弾丸の発射痕の連続一致条痕の本数を数えることに対して論争となった。」とのことである。
CMS理論が従来の主観的手法より優れているという主張を押さえつけ(そして、銃器工具痕鑑定がフライの基準を満たしていないという主張を解消するため)、ニコルスは、「CMSは従来の手法より客観性が高い手法ということではなく、鑑定者が線条痕を観察している際に行っている作業を定式化したものに過ぎない。」と主張した。さらにニコルスは、「CMSは、異なる工具に由来する工具痕の間にみられる最良の一致条痕の概念を標準化する試みである。」と説明している。
CMSが従来の手法より優れているとする主張と、同等のものとする主張の両者がともに正しいわけはありえない。ニコルスが自ら認めているように、伝統的な鑑定手法では、「『異なる工具に由来する工具痕との間にみられる最良の一致条痕』が、鑑定者ごとに異なることは驚くに当たらず、個別の鑑定で、鑑定者ごとに結論が『不明』と『一致』に分かれてしまうことも、必ずしも想定外のことではない。」。そこで、CMSと従来から行われてきた鑑定法とが異なる手法ではないとすると、これまでの伝統的手法による二人の鑑定者による鑑定結果が相違したとき、いずれの鑑定者も自らの鑑定結果の正当性を、CMSを利用して主張することができることになる。一方で、CMSが鑑定手法の標準化に貢献できるとするならば、伝統的手法による二つの鑑定結果のいずれが正しいものかの結論を下せるような、厳密性のある基準になった場合であろう。「痕を見れば結論は自ずと出る。」式の伝統的手法よりCMSの方が客観的な基準とならなければ、見解の分かれている鑑定結果のどちらが正しいものであるかを、CMSによって決着させることはできない。ニコルスには、CMSがこのような厳密な基準になりえるという視点に欠けている。
ニコルスのCMSの基準に対する視点は、犯罪現場の工具痕と容疑工具の工具痕との間の類似性が極めて高く、実用上、それらが同一の工具による痕跡と考えることができる閾値を与えるものでしかない。そのように考えれば、CMSは、従来の主観的手法より統計的・経験的な基準を銃器工具痕鑑定分野に持ち込む試みとして評価できる。しかしながら、一部の判事が主張するような、CMSが広範囲に採用されるようになれば、銃器工具痕鑑定にまつわる科学的問題を一挙に解決できる、という見方は誤りである。CMSは、それに必要とされる統計的・経験的基準を確立する試みとしては、全く不完全なものなのである。
大きな問題点の一つは、CMSは線条痕について適用できる基準に過ぎず、圧痕には適用できない。これは、薬きょうの痕跡の識別に用いられる撃針痕と閉塞壁痕がともに圧痕であることから、鑑定基準としては大きな制限となっている。これまでニコルス本人も、その他の人もCMSは線条痕には適用できるが圧痕には適用できないとしてきたが、最近ニコルスは自説を覆し、CMSは線条痕と、圧痕ではあるが線条痕の形態をしている閉塞壁痕に適用できると述べている。銃器工具痕鑑定者のクリスティン・トマセッティ(Kristin Tomasetti)は、CMSは線条痕(擦過痕)にしか適用できない。粒状の表面をしている閉塞壁痕を含め、圧痕にはCMSは適用できない、と述べている。
CMSの抱えるもう一つの問題は、CMSの擁護者ですら問題と考えているものであるが、CMSの基準は固有特徴には適用できるが、準型式特徴には適用できないというものである。その基準を固有特徴痕ではなく準型式特徴痕に適用してしまうと、誤鑑定につながる。一方、CMSは固有特徴痕と準型式特徴痕を区別するための基準ではなく、この区別を助けるための手段でもあり得ない。
さらに問題なのは、CMSの基準を業務に適用する上での客観的基準が存在しないことである。CMSの基準を適用するためには、連続的に一致している線条痕の本数を数える必要があるが、線条痕の本数を数える作業は、そもそも主観的な作業である。2名の鑑定者の間で、痕跡にみられる線条痕の総本数と対応線条痕本数が異なることは、ごく当たり前である。線条痕の本数と一致条痕の数え方に統一見解がないということは、個別の鑑定では、現場工具痕と対照工具痕が同一区具に由来するか否かについての個々の鑑定者の主観に基づいて、CMS基準が適用されていると考えるべきであろう。この傾向は、反対意見を押さえつけるためにニコルスらによって行われている主張、「CMSは従来の鑑定法に取って代わるものではなく、鑑定者がすでに直観によって得ている結論の根拠を分かりやすく示す手段である」というものによって一層強くなっている。
さらに付け加えると、CMS基準は、工具痕関連の代表的データーベースから導かれたものではない。CMS理論の根拠となっているデーターは、主に口径0.38インチ・スペシャル型のスミス&ウェッソン回転弾倉式拳銃で発射された38スペシャル弾丸で、その他数種類の拳銃と弾丸の組み合わせのデーターを考慮しているに過ぎない。それなのに、CMS基準がすべての拳銃と実包の組み合わせ、さらにはすべての工具によって付けられる線条痕についても成立するかのように主張している。
さらに言わせてもらうと、公表されている研究結果は、異なる銃器によって発射された2個の弾丸の、特定の1条の旋丘痕を比較対照し、その特定の1条の旋丘痕でCMS基準を上回る連続一致条痕が発見されれば、それらが同一工具に由来する痕跡と結論しても誤鑑定とならないとしている。しかしながら、見逃し鑑定を防止するために、すべての旋丘痕で認められる連続一致条痕の総数を基準としていると述べている鑑定者もいる。それにもかかわらず大半の研究は、単一の旋丘痕に認められる連続一致条痕の本数がCMS基準を満たせば誤鑑定は発生しないとする視点で行われている。すべての旋丘痕で認められる連続一致条痕本数に対してCMS基準を適用しても、誤鑑定が発生しないのかを明らかにしている研究はない。
(6) どちらの手法が優れているのか?
従来の手法とCMSのいずれの手法も、銃器工具痕鑑定に十分な統計的・経験的根拠を示していない。結局のところ、銃器工具痕鑑定の分野に、十分な統計的・経験的根拠は存在しない。従来の主観的鑑定手法は、統計や数学的研究の必要性を否定している。一方のCMSも極めて不完全な理論であり、この問題に対する正しい取り組み方ではない。
(7) 銃器工具痕鑑定には科学的信頼性が欠けている
米国学術研究会議(National Research Council)の委員会報告書(NRC Report)は、銃器工具痕鑑定に、しっかりとした統計的基礎がないと明言している。そして鑑定結果は、確実な統計的基礎に基づいて示すべきであると提言している。さらに、鑑定者の主観に基づく鑑定結果なのに、当該の工具痕が由来する銃器として1丁の容疑銃器を特定し、この世に存在するその他すべての銃器が除外できると結論し、その結論の誤り確率は0であるとの非現実的な主張をしている、と述べている。
報告書の批判は当を得ているのだが、その批判は手ぬるいものである。銃器工具痕鑑定には統計的基礎が欠落しており、たとえ「容疑銃器以外のこの世のすべての銃器を除外できる」という主張が取り下げられたとしても、その鑑定が非科学的だというそしりは免れないのである。
「『銃器工具痕鑑定には、ランダムに選択した工具によって、犯罪現場の工具痕にどれだけ類似した工具痕を付けることができるのか』を明らかにする統計的・経験的基礎が必要である。この分野では、鑑定者は結論の確実性を示そうとしない。確実性が100%であるとも、それ以下であるとも語らない。」と述べた裁判官がいる。しかしながら、この裁判官も、統計的根拠のない鑑定は信用できず、証拠として認められない、というところまでは踏み込まなかった。「鑑定人は、自らの意見には相当の確実性があるとのみ主張するように。」と述べるにとどまった。
さらにこの判事は特定の証言を、「銃器工具痕鑑定者の間で合意されているものではない」、と拒絶もしている。「銃器工具痕鑑定分野では、統計的信頼性と論理的信頼性を区別すべきもので、それらは一致しない」、としたこの判事の決定は、論理的に矛盾しており、今後も悪しき判例となるが、弁護側にとっては極めて有利な決定である。
別の事件で、「鑑定結果はドーバートの基準から証拠価値を認めるが、鑑定人は、『この世のすべての銃器を除外できる』という文言を結論から除外しなさい。『特定の弾丸と薬きょうが特定の銃器から発射された可能性は、銃器鑑定分野で妥当とされる確実性をもって主張できる』としなさい。」と決定した判事がいる。この判事は、痕跡鑑定の結論に、統計的・経験的基礎が必要であることを理解できないでいる。そして、「この鑑定技術の現在の発展段階では、個々の鑑定で誤り率を示すことは現実的ではない。痕跡パターンは確率計算に適したものではない。弁護側の要求は、この鑑定技術の範囲を超えている。陪審員に統計的モデルを提示する方法を探究することは、銃器鑑識に携わる専門家の至高の目標として課せられたものである。」と論じた。
銃器工具痕鑑定の鑑定者の証言を「銃器鑑定分野で妥当とされる確実性を持っている」と限定させることには二つの問題がある。第1に、この証言では、銃器工具痕鑑定が重大な科学的問題を抱えていることを陪審員に気づかせないことになる。確かに、政府は弁護側の反論に対して、銃器鑑定者にこのような証言をするように提案している。
第2に、最高裁判所はクモホタイヤ事件において、「鑑定証人の証言は、その手法自体に信頼性がないことから、証拠価値は認められない。それは、占星術、降霊術に基づいた証言が認められないのと同じことである。」との見解を示した。これと同様に、本来確率的に示さなければならない結論を、統計的・経験的根拠なしに結論を導いている銃器工具痕鑑定は信頼性を欠いている。それなのに、銃器工具痕鑑定分野で共通認識となっている一定の確実性があれば、統計的・経験的基礎が存在しなくても、その結論に証拠価値があるとする判事の認識は認められるものではない。
素晴らしいことに、2008年の連邦裁判で、銃器工具痕鑑定者が「銃器鑑定分野で妥当とされる確実性を持っている」との証言をすることも、その結論に科学的根拠があると証言することも認めなかった判事がいる。その決定の中で判事は、「弾道鑑定がどのような名称で呼ばれようが、それを科学と呼ぶことはできない。その手法は、『銃器鑑定分野で妥当とされる確実性を持っている』と証言させるには、あまりにも主観的である。」と述べている。
この判事が、「銃器工具痕鑑定は科学的でなく、ドーバートの基準には適合しないとしたものの、クモホタイヤの基準のもとにその証言は認められる。」としたことは残念である。ただし、「クモホタイヤの基準を採用するにしても、その証言に証拠能力を認めることには問題は残る。」とした。そして、「弾道検査は厳密な科学ではないことに加え、他の法科学分野の証拠と比較しても、その不確実性が大きいものである。陪審員は、すべての法科学鑑定には不確実性があることを理解しているとはいえ、鑑定手法が不完全な銃器工具痕鑑定に不当な信頼性を寄せてしまうことを防止しながら、その証拠価値を認める方法を探すことが難しいことに問題点がある。」と述べている。この問題点に対して、その判事が採用した解決法は、銃器工具痕鑑定者には、鑑定結果について「その可能性がある」とのみ証言させることであった。
この判事が採用した銃器工具痕鑑定の証拠価値に対する判断は、弁護側にとって一つの勝利であった。銃器工具痕鑑定の結果が、単に「その可能性がある」程度のものであれば、それを唯一の証拠として容疑者を有罪とすることはできないからである。しかしながら、この決定によって、銃器工具痕鑑定の証拠価値は制限されたものの、その証言を全く排除することはできなくなった。科学的厳密性が劣る証拠でも、厳密性の劣る証拠としての基準で証拠価値を認めてしまう点では、後退したともいえる。これに反し、連邦証拠法702条の2000年の改定時の諮問委員会の注釈では「証拠の信頼性を決定する要因は、関連分野ごとに異なる。科学の領域に含まれない鑑定分野であるからといって、安易にその分野の証拠価値の受容基準を緩めて、鑑定証人の証言を認めてしまうことはできない。科学者でない鑑定人の意見を認める際でも、科学者の証言を認める時と同様の精査を行う必要がある。」とした。
さらに付け加えると、銃器工具痕分野の鑑定結論を、「その可能性が高い」に限定したとしても、その決定は、この分野の鑑定に統計的・経験的根拠に問題があることを十分吟味していないことになる。判例が示すように、「銃器工具痕鑑定者は、結論に100%の確実性を主張できないことはもちろん、いかなる確実性の程度を示すこともできない。」ところが、銃器工具痕鑑定者が「その可能性が高い」と証言することは、その鑑定が統計的な信頼性をある程度持っていると主張していることになるからである。
(8) 何も知らずに行う弁護を排除しよう(鑑定人は見ただけで分からない)
弁護人は、銃器工具痕鑑定の実態を知らずして、彼らが正しい結論を導いていると考えて行う弁護活動をやめなければならない。実際、銃器工具痕鑑定者のロナルド・ニコルスは次のように述べている。「痕跡を見れば結論が得られるとの主張に対してしばしば批判を受けるが、それは、厳しい訓練を受けた銃器工具痕鑑定者のみができる技である。」米国アルコール銃器タバコ局の鑑定者であるニコルスは、「特定の鑑定において、鑑定者ごとで結論を「不明」にするか「一致」にするかで意見に相違が生じることは、驚くに値しないし、想定内のことである。」とも述べている。彼を始め、この分野の鑑定者は、誰の結論が正しいのかを決定する基準は存在しないことを認めている。したがって、現実の鑑定における誤り率を求めることは不可能なのである。「物(ブツ)を見れば結論が出る」式の教育訓練を受ける鑑定実務分野で、鑑定者ごとで結論が一致しないことがあり、誰の結論が正しいかを決定する根拠もない鑑定分野なのである。
ニコルスは、この種の批判を退けるために、個別の事件で銃器工具痕鑑定の結論に論争が生じた場合には、その論争を鑑定者側で解決することはできないので、裁判所は陪審員の判断にゆだねるようにすべきであると主張している。ニコルスにこのような発言をさせたことは、まさに彼が苦境に陥っていることを示している。対立する鑑定結果のどちらが正しいのかの判断力が、鑑定者よりも陪審員の方が優れているとするなら、銃器工具痕鑑定者の証言には、鑑定証人が「裁判所が事実を判断する上で助けとなる専門家」という最も基本的な要求水準を満たしていないことになる。銃器工具痕鑑定の対立する結論に決着をつける上で、鑑定者の方が陪審員より優れているのであれば、陪審員がそのような決着をつけるべきではなかろう。言い換えば、銃器工具痕鑑定者の間で同じ物件に対する鑑定結果が異なった場合に、陪審員に可能な、それらの証言が裁判所が事実を究明する上で助けになる判断とは、鑑定者の証言を認めないということになる。
同じ理由から、「現場薬きょうは、その拳銃が発射された時に排出されのものであり、この世のそれ以外の拳銃を発射した時に排出されたものではない。」という鑑定人の証言を許可せず、「時間的に古い薬きょう(現場薬きょう)と、(その後容疑拳銃で試射して得られた)新しい薬きょうとの間には類似性がある」との証言のみを許可した判事の判断に、何ら正当性はない。痕跡鑑定の専門家である鑑定人に、痕跡が類似していることの意味の判断をさせずに、鑑定の専門家でない陪審員にその役目を割り当てることのどこに正当性があるだろうか?
この判事が、鑑定者に発射銃器の特定をすることを許さず、痕跡が類似していることだけを証言させたことは、科学的理由からではなく政治的判断で行われたものである。この判事は、以下のように述べている。「これ以外の決定は、控訴審によって棄却されると考えられることから、仕方なくこの結論に至った。ドーバート・クモホの基準は、TV番組にみられるような完全な基準(CSIは厳密ではない)より緩いものであり、被告の生死がかかっているような場合には考え直す必要がある。被告が死刑となる可能性がある本件では、我が国全体の基準より、さらに厳しい基準を用いるべきであろう。この種の工具痕鑑定に対して、鑑定書なしの証言のみで鑑定結果に証拠価値を認めたり、技能検定試験結果や証拠物件の信頼性を吟味せずに証拠価値を認める緩い基準で運用していることが多いが、我々はもっと厳密な基準を採用する。」
(9) 不完全な既存体制
現在の鑑定機関の教育体制、鑑定機関の信頼性認定制度、鑑定人の技能検定試験制度などのシステムのすべてを合わせても、銃器工具痕鑑定の鑑定手法に統計的・経験的根拠がないことや、日常の鑑定の実際の誤り率を計算できないことを補償することにはならない。銃器工具痕鑑定者には、科学に関する教育歴が要求されず、しばしばその種の教育を受けたことのない者が鑑定を行っている。たとえば、マサチューセッツ州警察の、私が担当した事件の鑑定者は、大学教育を受けていなかった。この事件の担当判事は、「彼の科学についての教育歴は十分ではない。」としながらも、彼には鑑定専門家として証言する資格があると認定した。彼は科学教育を受けていないし、資格を認められた鑑定者でもないし、銃器工具痕鑑定者の団体にも属しておらず、この鑑定分野の文献を一切読んでいなかった。私が担当した別の事件で、サンフランシスコ警察の鑑定者は、「鑑定結果を確率的に答えてください。」との裁判官の指示に対し、「私は統計学者ではないし、数学家でもない。」と答えていた。ところが、彼はAFTEの2007年の年会で、「ドーバート法廷に立つには。サンフランシスコにおけドーバート法廷。それはどのようなものか」という講演を行っていた。
実際、高名な銃器工具痕鑑定者の一人であるシュテファン・バンチ(Stephen Bunch)は,「連続一致の理論(CMS)よりも従来の鑑定手法が好まれる理由は、銃器工具痕鑑定者は、この種の統計的理論を理解したり評価する能力に欠けているからである。」と述べている。この発言は、この分野の鑑定者と裁判システムに対する強烈なパンチである。バンチの発言を言い換えれば、科学的知識に欠けていることは何ら問題ないということだ。それでも、鑑定結果を科学的基礎に基づいて表現しようとしたときに問題は生じる。そのような時、鑑定者は自らの発言の根拠を知らないのだから、判事も陪審員も困惑する以外はなく、裁判システムは機能しなくなる。
銃器工具痕鑑定者に対する教育水準の条件が存在しないことは、アメリカの銃器工具痕鑑定機関の認証条件に教育水準の要求がないことと符合している。鑑定機関が、アメリカ犯罪捜査研究所長会議(ASCLD-アスクラッド)による認証を受けるか否かも任意である。さらに問題なのは、たとえASCLD認証研究所であっても、銃器工具痕鑑定者の技術水準が厳しく検査されているとは言えないことにある。ASCLDは、認証研究所に所属する鑑定者に、毎年鑑定技能検定試験の受験を義務付けている、ところが、DNA部門は全員が受験しなければならないが、その他の部門は研究所の中で1名のみがASCLDが認めた試験機関の試験を受ければ済むとされている。その他の鑑定者は、内部と外部の技能検定試験の受験はともに任意である。もし2名以上の鑑定者がASCLD認定試験機関の技能検定試験を受験したとしても、ASCLDの認証審査委員会に報告する義務のあるのは、そのうちの1名の試験結果だけである。
銃器工具痕鑑定者がASCLD認証試験機関の技能検定試験を受験し、試験結果をASCLDに報告したとしても、その試験結果が厳しく問われることはない。銃器工具痕の技能検定試験を提供している試験機関のうち、現在ASCLDが認証しているは共同試験機関(Collaborative Testing Services Inc. (CTS))のみである。CTSは、「我々の試験は、試験対象分野の技術水準を試しているのではなく、試験結果をそのように受け取られては困る。」と慎重な見解を示している。
CTSの技能検定試験には、銃器工具痕鑑定者自らも認めている大きな問題がある。それは、指針の与えられた試験であり、全くのブラインド試験ではないことで、試験の難易度も日常の鑑定よりも易しいことにある。皮肉にも、「銃器工具痕鑑定はドーバートの基準を満たしている」とするグルジボゥスキー(Grzybowski)の論文に、「CTSの試験は、多数の試験用資料を均質に作成しなければならない制約から、その問題は単純となり、あまり難しくないものになりがちである。」と述べられている。
ここで、CTSの試験結果が正確とは言えず、むしろ誇張されたものであることを示そう。弁護側は、鑑定者の鑑定能力を推測するためには、ネット上に提供されているCTSの試験問題と採点結果、及び受験者の回答内容と受験者のコメントを最大限活用する必要がある。
CTSの2005年と2006年の試験問題を調べただけでも、異なるメーカーの銃器による発射弾丸類の検査と、同一メーカであっても異なるモデルの銃器による発射弾丸類の検査となっている。もっと難しい同一メーカーの同一モデルの銃器の発射弾丸と薬きょうの間で、発射痕を判別させる試験を行っていないことが分かる。
2006年のCTSの試験の受験者の一人のコメントに、「この試験は直接的で、きわめて容易な問題であった。準型式特徴の影響もないことから、2、3分で正解に到達できた。私は、試験問題をもっと難しくするよう提案する。現実の鑑定では、識別の難しいボーダーラインの事例が多く、そのような場合の鑑定の誤り率を評価できるような難しい問題とすべきである。」というものがある。2005年のCTS試験の受験者のコメントには次のようなものがあった。「簡単な問題だ。いや、簡単すぎる問題だ。」遊底頭痕と撃針痕によって発射銃器を識別する問題を解いた別の受験者は、「容疑の拳銃では付けられるはずのない形状の遊底頭痕と撃針痕が含まれていたため、容易に判別できた。」とコメントしている。「物件番号1と3の撃針痕の型式特徴は、容疑銃器のものとあまりにも違いすぎ、肉眼で判別できた。」とコメントしている受験者すらいた。
同種の銃器による工具痕の識別というより難しい問題を課せられていないにもかかわらず、2005年と2006年のCTSの試験では、かなりの人数が正しい結論を出しそこなっている。2006年の弾丸の試験問題では、物件番号1の弾丸が容疑銃器から発射された弾丸であったが、受験者中3名(2%)が、物件番号2の弾丸が容疑銃器による発射弾丸であると回答し、受験者中2名(1%)は、物件番号3の弾丸が容疑銃器による発射弾丸と回答している。驚いたことに、受験者中38名(24%)は、物件番号3の弾丸を容疑銃器とは関連なしと除外できず、結論を「不明」としているのである。2006年の薬きょうの試験問題では、受験者中19名(7%)が、除外すべき薬きょうについて「不明」の結論を導いており、2005年の薬きょうの試験問題では、受験者中5名(4%)が、除外すべき薬きょうについて「不明」の結論を導いている。2006年と2005年の薬きょうの試験問題では、それぞれ2名(1%)の受験者が、「一致」すべき薬きょうを「不明」と回答している。
2007年の弾丸と薬きょうの試験問題は、2005年と2006年の問題とは異なり、同一メーカーの同一種類の拳銃によって発射されたものが課題とされた。2007年の弾丸の試験問題では2名(1%)が誤鑑定をし、114名(40%)が、除外すべき2個の資料に対して「不明」と答えている。そして、1%は「一致」すべき資料を「不明」と回答している。2007年の薬きょうの試験問題では、9名(5%)は容疑銃器から発射されたものでない2個の薬きょうを「不明」と回答している。また1名(1%)は一致すべき資料を「不明」と回答している。
CTSの試験結果に対して、これまでかなり低い誤鑑定率が与えられてきた。たとえば、1978年から1991年の間のCTSの銃器鑑定の見逃し鑑定率は1.4%、誤鑑定率は0.6%としている報告や、1978年から2002年の間の誤鑑定率が1.3%としている報告がある。しかしながら、これらの計算結果は、本来誤鑑定率や見逃し率に含めるべき「一致」あるいは「除外」とすべき工具痕を「不明」と回答した割合を含めていない値である。2007年のCTS試験では、同一メーカーの同一モデルの異なる銃器による発射痕を区別することを受験者は求められていたが、40%の受験者は、その区別ができずに「不明」と回答している。型式特徴が同一の発射痕の識別ができない鑑定者の割合を誤鑑定率に含めないのでは、誤鑑定率を低く見積もりすぎている。さらに、CTS試験はブラインド試験ではなく受験者が試験を受けていることを自覚している公開型の試験であるため、本来は「一致」の結論を導ける場合に「不明」と答えることは答えとはなっていない。このような試験で、「不明」の結論を誤鑑定率の計算から排除することは、鑑定人の能力を過大評価することにつながっている。
ピーターソン(Peterson)とマーカム(Markham)による古い研究では、「不明」結論は誤鑑定に含めており、見逃し鑑定と誤鑑定(誤って一致とする空振り鑑定)の両者を誤鑑定率に含めている。それによると、1978年から1991年のCTSの試験の銃器試験の誤鑑定率は12%で、1981年から1991年の工具痕試験の誤鑑定率は26%としている。この誤鑑定率は、日常の現実の鑑定を考える上で参考とすべき値である。ピーターソンとマーカムによれば、試験の分量とそれにかけている時間を考えると、鑑定者は日常の鑑定に掛けている鑑定時間以上の時間を試験問題に費やしていると思われる。ジェニン・アルヴィズ(Janine Arvizu)は、公開型の試験ではなくブラインド試験とすべきであるという議論の中で、「法科学の技能検定試験は、その試験結果で鑑定技能を判定されることを知った上で受験しており、ピーターソンとマーカムの研究も、その他の研究も、実際の誤鑑定率を明らかにしているものではない。」と論じている。この種の公開型の技能検定試験の成績がブラインド型の技能検定試験の成績を上回ることは、広く知られた事実である。
CTSの技能検定試験の受験は任意であり、米国内の鑑定機関の内の約3分の2の機関しか受験しておらず、さらに回答を寄せているのはその内の3分の1に過ぎないことから、ピーターソンとマーカムの誤鑑定率の評価は、現実の誤鑑定率をさらに過小評価したものだろう。受験の任意性による偏りと、課題を解けた者のみが回答を寄せているという偏りが、銃器と工具痕の技能検定試験には含まれている。
私が担当した事件の判事も、「CTSの技能検定試験のデータには偏りがあり、銃器工具痕鑑定の誤鑑定率を正当に評価した値は存在しない」と結論している。ところがこの判事も、誤鑑定率が存在しないことから、科学分野の鑑定専門家の証言を評価するドーバートの基準にかなわず、銃器工具痕鑑定は証拠から排除されなければならないことを知りながら、私が弁護を担当した事件の銃器工具痕鑑定の証拠価値を以下の理由から認めた。「誤鑑定率が重要でないとは言わないが、科学分野以外の鑑定専門家証言においては、必要不可欠のファクターとはいえない。」
(10) 捜査を追認する偏り
銃器工具痕の日々の鑑定と、この分野の研究において、捜査結果を追認する偏りが蔓延している。銃器工具痕鑑定者の従来の役割は、「捜査結果を検証する」ことに限定されていた。鑑定者は、捜査員が目星をつけた容疑工具あるいは容疑銃器を、犯罪現場の工具痕と結びつくことを示せばよいだけであり、鑑定者はその結びつきを示すことが自らの役割と自覚していた。このような状況では、相互が相手の情報に頼ってしまう危険性が発生する。現場の工具痕と容疑工具の工具痕の類似性のみから鑑定結論を導くのではなく、その容疑工具が犯罪に使われたものと捜査員がすでに特定している、という情報にも頼ってしまうのである。その情報に頼らないとしても、無意識といえども、容疑の工具であることで安心して鑑定をするようになる。米国内の鑑定機関の大半が捜査機関に設置されていることから、この捜査側と鑑定側の相互依存関係は高い。すべてではないが、採用当初捜査員としての教育をうけた者が鑑定者となっている例が多いのが実態である。
捜査員が提供した捜査情報によって鑑定結果に偏りが生じることは、その後のチェック体制をすり抜けてしまう。なぜなら、ひとたび特定の銃器や工具が現場の痕跡を付けたものと特定されてしまうと、もはやその痕跡を別の銃器や工具と比較する作業は行われないからである。鑑定者仲間による鑑定結果の確認作業も、捜査情報による鑑定結果の偏りを助長する傾向にある。なぜなら、このような鑑定者仲間による鑑定結果の確認作業は、「一致」の結論が得られた場合にのみ行われるものであり、確認を依頼された鑑定者は、依頼された物件が「一致」しているとの先入観をもって行うからである。
結局のところ、私が担当した事件の判事が言及した、米国における銃器工具痕鑑定に対する次のような見方は、八部通りの真実を言い当てているといえる。「鑑定者が調べさせられる唯一の凶器は容疑銃器である。依頼される鑑定事項は、犯罪現場に残された打ち殻薬きょうがその容疑銃器から排出されたことを示すことだけである。その検査は、科学者によるブラインド検査の定義とは全く異なり、あらかじめ示された結論を導くことができることを示す作業でしかない。現場薬きょうを、警察が押収した容疑銃器以外のハイポイント自動装てん式拳銃の試射薬きょうとの痕跡照合を依頼されることはない。それ以外の銃の薬きょうとの照合などありえない。鑑定者の仕事は、整列させた人物の中から目撃者が犯人を選び出す作業と同種のものなのだ。鑑定者の仕事は、別の鑑定者によってチェックされるとはいっても、その鑑定者も同じ条件の下で結論をチェックするという、同様の作業をするだけのことである。」エヴァン・トンプソン(Evan Thompson)とヤン・デ・キンダー(Jan De Kinder)は次のように述べている。「大半の銃器工具痕鑑定者の行う仕事は、特定の銃器や工具を凶器の可能性から排除するという、より困難な仕事を要求されることは少なく、『この弾丸はこの銃器によって発射されたものである』とか『このドライバーが、そのドアをこじ開けた痕跡が付けたものである』ことを確認するというもっと単純な作業である。
これと同様の偏りが、政府関係の鑑定者が法廷の証言で引用する、この分野の研究についても存在する。これらの研究には、すべての工具に識別可能な固有特徴があることを示す「最悪条件の研究」として、連続生産された銃器や各種の工具の痕跡を調べたものがある。この種の研究のほとんどすべては、ブラインド検査ではなく、検査対象が異なる銃器や工具によって付けられた痕跡であること検査者が知った上で行われたものである。したがって、これらの「研究」は、同一工具による工具痕の類似性が高いことを示すことが意図された、本質的に偏った研究である。
弁護側が、この種の方法論的欠陥を指摘しているにもかかわらず、多くの判事は、各工具に固有性が存在するとする政府側が提出した「研究」結果は、ドーバート基準が要求する、検証可能性と同業者の査読の基準を満たしたものとして、証拠価値を認めた。私は、NRC報告書が、このような裁判所の不当な判断を覆すものと期待している。個々の工具には、固有性と再現性のある特徴が存在するとの銃器工具痕鑑定の前提に対して、NRC報告書が疑問を投げかけていることをすでに認めた判事もいる。その一方で、NRC報告書には、弾道鑑定の中核的前提に対して、新たな問題点を何ら提起していないと判断した判事もいる。NRC報告書は、銃器工具痕鑑定に対してフライの審問をしなければならないとしたものではないと判断した判事もいる。
(11) 銃器工具痕鑑定の個別排除
代替案として、銃器工具痕鑑定には本質的な問題はないとして、それを認めるが、問題点のある個別の鑑定を排除しようとする考え方がある。銃器工具痕鑑定には科学的に問題があることを示した、弁護側が提出した証拠を見て、その内容を理解できた裁判官でさえ、銃器工具痕の鑑定人証言を全面的に排除してしまうことには気が進まないようである。「銃器工具痕の鑑定証拠の信頼性を問題視することに、裁判所は慎重にならざるを得ない。」と述べた判事がいる。銃器工具痕鑑定の証拠価値を棄却することに裁判官が慎重となる別の事例も私は経験した。ボルトカッターの工具痕が証拠となった2004年の裁判で、弁護側が銃器工具痕鑑定の信頼性について全面的に争ったところ、判事は、「私は23年間この職にあるが、誰もこのような異議を唱えてこなかった。私がこの証拠を排除してしまうと、その影響はアメリカ全体に重大な結果を及ぼすであろう(だからそのような決定はできない)。」と述べた。
この裁判では、銃器工具痕鑑定の証拠価値を全面的に否定することはなかったものの、個別の証言には証拠として認められなかったものが出た。銃器工具痕鑑定の原理について検証する必要があることはもちろんであるが、その原理を応用した特定の鑑定についても検証する必要があることを裁判所は認めたのである。
(12) 不備な鑑定書面
私が担当した事件で判事は、鑑定書面の不備を理由に、マサチューセッツ州警察の銃器鑑定者に対して証言することを許さなかった。この鑑定人の所属する研究所には、単に「痕跡が一致した」とだけ記載された鑑定書が残されていた。この鑑定人は、痕跡の一致状況を示す写真は撮影せず、スケッチも残さず、自らの結論を導いた根拠を示す手がかりを何も残していなかった。
鑑定書の不備は、2001年のフロリダ州のラミレス事件で、銃器工具痕鑑定者が、特定のナイフが被害者を刺したナイフであり、それ以外のこの世に存在するすべてのナイフは被害者を刺したものではないと証言したが、この証言はフライの基準に適合しないとして問題とされた。裁判所は、検察側の証人となった鑑定人の、次のような証言を批判した。「この分野の鑑定人は、通常痕跡の比較写真は撮影しない。素人には痕跡の異同識別の原理は理解できず、比較写真を示しても仕方ないからである。同じ理由から、結論の根拠となる痕跡のスケッチや書面は用意しなかった。」
弁護側による、研究所の公式な鑑定書面と鑑定者の鑑定メモの提出要求は、鑑定者の結論を確認する上で当然のことである。痕跡の鑑定結果は、「現場弾丸と試射弾丸の痕跡は『細かい条痕に至るまで』よく一致していた」とか、「閉塞壁痕と撃針痕あるいはその他の痕跡が一致していたので、それらの薬きょうは同一銃器に由来するものと結論した」のように示される。ところが、その鑑定結果の裏付けとなる、痕跡の対応状況を示す写真やスケッチが提出されることはめったにない。
モンテイロ事件とラミレス事件の後、弁護側は、鑑定書のない鑑定結果は、銃器工具痕鑑定分野の鑑定基準を満たした鑑定を行っていないので、それを証拠として採用しないように要求するようになった。この主張は、銃器工具痕鑑定者の側からも支持されるべきである。AFTEの鑑定理論には、政府機関に所属する鑑定専門家によって「鑑定者は、工具痕鑑定における発見事項を客観的に示す鑑定書の作成をすべきである。」と主張されている。グルジボゥスキーらは、「すべての銃器工具痕鑑定者は、鑑定結果を、他人が理解しやすいように写真を用いて示すとともに、結論が理解しやすいような言葉で鑑定書を記述すべきである。」と勧告している。銃器工具痕鑑定者のブルース・モランも、鑑定書に写真を付けることを熱心に勧めており、「我々の仕事は、他の鑑定者から理解されて初めて正当化されるものである。そのためには、我々が結論を導く上で利用したすべての物件や観察結果を、明確に示す必要がある。」と述べている。
弁護側の追及が厳しくなるにつれて、鑑定機関も不備な点のある鑑定文書には、鑑定者に再検査を指示し、鑑定書の再作成を促すようになった。このような動きに対して、一旦作成した鑑定書の書き直しは、当初の鑑定結果の追認バイアス(偏り)が存在するため、書き直された鑑定書の信頼性は低いと判断した裁判官がいる。「鑑定時に、ろくに記録も取らずに、いい加減な鑑定書を作成した法科学者が、裁判直前になって、それを取り繕うために再検査をしたものと思われる。その行為が、正直な動機に基づくものと最大限譲歩したとしても、その再鑑定の目的は、当初の結論を追認し、それに沿った証言をするためだけであろう。当初のいい加減な鑑定は誤っている可能性があり、その鑑定結果の根拠の大半を記憶に頼らざるを得ないであろう。今回の証言は、さらに詳しく鑑定し直した結果に基づくというより、最初の鑑定が正しいという仮定と、その仮定が正しいとの期待感が先行し、再鑑定で新たな発見はなされなかったであろう。」と論じた。
裁判の前日になって行われる、鑑定書の内容をより客観的にするための再鑑定は、鑑定者が中立の立場に立って行う再鑑定ではありえず、元の鑑定結果を再確認する動機で行われるものでしかない。ある事件の鑑定を行ったボストン警察署の鑑定者は、作成した鑑定書に写真やスケッチを添付していなかった。鑑定から3年後、証人出廷の前日になって、弁護側が鑑定書写真を要求していることを地方検事補から伝えられた彼は、急きょ物件の再鑑定を行ったが、以前の鑑定で見付けた痕跡の「一致」箇所を見付けることができなかった。彼の2002年8月8日付けの鑑定書では、被害者の遺体から回収された弾丸の1条の旋丘痕に(試射弾丸との間で)良好な一致条痕が認められるはずであった。困った彼は、2005年になって容疑の回転弾倉式拳銃から新たな試射弾丸を発射し、新しく赴任した上司の助けも借りて、3条の旋丘痕と2条の旋底痕で良好な対応条痕を認められるとの再鑑定をした。以前の鑑定では2条の旋丘痕と1条の旋底痕で対応条痕が見られたとされていた。以前の鑑定と鑑定結果が異なる内容となっている点を指摘されると、この鑑定人も彼の上司も、「同一の物件を検査しても、鑑定人によって、異なる部分に重要性を見出すことは、ごく当たり前のことである。」と証言した。
この事件を担当した判事は、当初の鑑定書は、書面の鑑定書としては極めて不十分なもので、鑑定書が存在しないも同然である、とする私の主張を認めた。さらに、同一機関の複数の鑑定者の鑑定結果が同等になって当然であろう、という私の要求にも分があることを認めた。それにもかかわらず、この判事は、この事件に関連するすべての鑑定書の証拠価値を認めたのである。しかしながら、後の再鑑定が妥当なものになったとしても、以前の鑑定書に不備があったことを弁護人が論じることを妨げるものではないとした。
サンフランシスコ警察犯罪捜査研究所が関わったドーバート審問で、「顕微鏡写真こそが、鑑定者の結論を補強する唯一の文書である」、との判定が下ったことで弁護側は満足すればよいのであろうか?鑑定者は、現場の工具痕と容疑資料の工具による工具痕の類似状況を写真撮影することは当然であるが、それと同時に、それらの痕跡の類似状況から、それらの工具痕が同一の工具あるいは銃器に由来するものであるとの結論に鑑定者が至った経緯を、言葉で記述したものも残すべきである。そうでなければ、「比較写真の類似性と、比較対照作業時点で鑑定者が感じた類似性の両者に基づいて結論を導くものである」とのサンフランシスコ警察の鑑定者の裁判における証言に背くことになる。
(13) 容疑銃器不在下の鑑定結果
政府系の機関の鑑定では、いろいろな犯罪現場から採取された現場弾丸や現場薬きょうと、被疑者の家や所持品の中から発見された弾丸や薬きょうとが、同一の銃器による発射弾丸あるいは薬きょうである、とする鑑定書がしばしば提出される。それらを発射した銃器が結局発見されなくても、その結論は正しいとされる。銃器がなければ、準型式特徴の影響を排除することができないのであるから、この種の鑑定の信頼性は極めて低いものといわなければならない。2002年のテキサス州刑事控訴裁判所は、容疑銃器が存在しない場合の鑑定は信頼できず、その証拠価値はないと判断した。この判断は、2004年の連邦第5巡回裁判所の判決でも支持された。ただ、弁護側はこの判決に十分慎重であるべきだ。なぜなら、それらの判決の中で、「容疑銃器が発見され、その後試射弾丸類が得られれば、100%確実な鑑定が可能となる。これによって誤鑑定率が0%の銃器鑑定が可能となる。」と述べられているからだ。
(14) 捜査機関が偏向している確たる証拠
事件によっては、検察側の主張に沿った鑑定が行われ、検察側の主張を確認するだけのために鑑定が行われている。私はそれを示す確たる証拠をもっており、弁護側は「鑑定結果に信頼性はなく、到底受け入れられるものではない」との主張を行うべきである。私が担当した連邦裁判となった事件で、鑑定メモと研究所の公式鑑定書の提出を要求したところ、ロサンゼルス警察犯罪捜査研究所長が刑事に宛てた次のような礼状の存在が明らかとなった。その中には、「(2件の殺人事件の間に)関連性があるとの見込み情報を提供してくれてありがとう。」「我々は、そちらの要求に見合った仕事をする必要があることを十分承知している。」と書かれた部分があった。この情報によって、鑑定担当者は、通常行う検査に加えて、ドラッグファイヤーを用いた特別な検索を行った。その結果、この管理責任者は、「大ヒットよ。それらの事件の関連性は極めて高い。」と刑事に伝えた部分がある。その女性管理者は、「(ドラッグファイヤーの画面上ではなく)実物資料を比較対照しないと最終的な結論は得られない」、と刑事に伝えてはいるものの、捜査情報を追認する形の鑑定を行っていることは明らかだ。刑事に宛てた手紙は以下のように続く。「自らの仕事をほめたたえる時間を持った方がいいわよ。素晴らし推測よ。刑事として素晴らしい。警察官として良い仕事をしたわよ。」
この礼状の主は、ロサンゼルス警察のすべての鑑定業務の監督責任者である。鑑定部門の責任者が、このような検察(捜査側)べったりの態度であることは、この事件だけでなく、すべての事件の鑑定結果が偏向していることを疑わせるに十分である。この事件でも、判事が証拠の受容性についての審問の開催を拒否した。このことは、銃器工具痕鑑定にきわめて深刻な科学的問題があるにもかかわらず、それを証拠から排除するという仕事がいかに困難であるかを示している。
(15) あとがき
(a) 全体を通じての感想
この論文は、全米刑事被告人弁護士会(National Association of Criminal Defense Lawyers)の機関誌のチャンピョン誌(Champion Magazine)の2008年10月~12月号に掲載されたものである。冒頭の銃器工具痕鑑定とは何かを解説した部分と、具体的な事件名や判事名の一部は省略したが、その他の部分の大半は紹介たつもりである。銃器工具痕鑑定者として紹介されている人物は、すべてが私の知り合いであるが、その主張は正しく伝えられており、実名で載せた。通読してまず感じたことは、シュヴァルツ教授が確信して主張していることが、法廷でなかなか認められないことで、さぞかしストレスを感じられているであろうということだった。批判の内容は、事実を伝えており、裁判で認められて当然と思って主張しているようである。ただ、その主張の根拠は、自分が裁判所で経験したことを除くと、取材した銃器工具痕鑑定者の主張や伝聞、あるいは読んだ論文に基づく批判であり、銃器工具痕鑑定の実態を必ずしも理解してはいないものと感じられた。
彼女の主張は、アメリカの裁判で全面的には認められて来なかった。それを認めることによる混乱が大きすぎるからであろう、問題点があるからといって、それを全部否定してしまうとどうなるのか?アメリカでは、殺人事件の大半が銃器によるもので、その証拠が否定されてしまうと、凶悪犯を有罪にする手段が失われてしまう。アメリカでは日本より物的証拠の価値を重視しており、捜査の積み上げによる状況証拠や被疑者の自白で有罪とすることの多い日本とは状況が異なる。一部に含まれる冤罪事件のために、すべての銃器使用殺人事件の証拠が否定されれば、すべてが無罪となる可能性も生じる。それでよいのだろうか?冤罪事件はなくしたいが、安全安心な生活も守りたいと考えるのが普通であろう。それは、現在大きな論争となっている原発問題とも通じる点があろう。原発事故は御免こうむりたいが、豊富な電力を使用する生活は続けたいという問題構造と通じるところがある。日本の銃器犯罪の裁判では、発射痕の証拠以外のものが重視されることから、弁護側がここまで発射痕証拠を批判することは少なかった。
ここで紹介した論文の批判内容は、全体として良い点を突いているのだが、部外者による批判であることから、分かっていないな、との歯がゆさを感じる点が多々あった。以下、当事者であった立場から補足してみたい。
(b) 銃器工具痕鑑定の原理には矛盾がある
シュヴァルツ教授は、「銃器工具痕鑑定には重大な3欠点がある」としているが、その欠点を3つに分ける必要はない。「工具痕には、その痕跡を付けた工具の特徴が、一定の再現性をもって残されている。」というのが、工具痕鑑定の原理であり、それ以外のものはない。工具痕に、どのような形で、その痕跡を付けた工具の特徴が残されているかを調べる(見つける)のが工具痕鑑定者の役割である。その特徴は、場合ごとに、いろいろな場所に、様々な形で残されていることから、駆け出しの鑑定者がよい仕事をすることは難しい。長い経験を積んだ鑑定者の方が良い仕事をする。この分野では、「経験10年はひよこだ」といわれてきたが、そのような分野は多いだろう。最近天竜川の川下り船の事故で、「(船頭)経験4、5年はまだひよこだ」という、こちらが駆け出しのころ先輩からけなされた時の懐かしい言葉を聞いた。ただ、こちらの場合は、経験4、5年ではなく10年でもひよこだという言葉だった。
船頭の仕事が科学的であるかどうか、部外者なので分からないが、誰が船を操っても同じような結果が出て、その方法を他人に分かり易く教えることができるのであれば、かなり科学的な仕事であろう。銃器工具痕鑑定も、その程度で科学的である。少なくとも、どのような教育を行おうが、銃器工具痕鑑定は、誰がやっても同じ結論、同じ結果が出るという種類の仕事ではない。できる人もいれば、できない人がいるというのが長年の教育経験で得た結論である。船頭の仕事もたぶんそうであろう。突然の難しい事態が発生した時、熟練した船頭は危機を回避できるだろうが、未熟な船頭では回避できずに沈没させてしまうことになる。エラーの発生である。このようなエラーの発生率、エラーレイトの大小の問題以前に、熟練者と未熟者との間では、その仕事をこなす上での自信の大きさの程度が違うであろう。
実力がないのに、自信過剰の人もいる。ある世代にそのような人が多いようにも感じてきたが、たとえ自信を持っていても、実力がなければ失敗は生じる。その失敗で自らの自信過剰を修正できる人もいれば、仕事を辞めてしまう人もいる。自信とは、いろいろな異常事態が生じても、それらに対処できるであろうという見込みがあって生まれるものだ。自分には対処できそうにない異常事態が発生することを想定できない人は自信過剰に陥る。日ごろ、様々な条件を想定して訓練することによって、次第に根拠のある自信が身に付くことになる。
銃器工具痕鑑定の原理には、もともと矛盾点があることから、自信を持ってその仕事をこなすことは難しい。鑑定の原理とされるものが、ある場面では、製品を加工した工具が同一であることを言い当てることができる根拠として使用され、ある場合には、製品を加工した工具が同一であったとしても、加工品の工具痕には製品を識別するだけの違いがあるとの根拠として使い分けられているからである。分かり易く言うと、同じ銃身を通過した弾丸には、同じ痕跡が付くが、同じ工具で加工された銃身表面の加工痕跡には、それぞれを識別できる異なった特徴があるとしている。このような都合の良い仮定の下に、誤りのない鑑定を行うためには、相当数の工具とその痕跡を詳細に観察した後でなければ、自信を持って結論を導くことができるはずがない世界である。工具痕鑑定の難しさは、痕跡の再現性の予測が難しい点にある。痕跡の再現性の予測が困難なことに起因する問題点を、シュヴァルツ教授は3つの欠点に分けているが、これはもとは一つの問題である。
工具痕には型式特徴と固有特徴及び準型式特徴があるというのがアメリカの工具痕鑑定における考え方である。型式特徴とは、工具の設計図面に現れている特徴であり、工具を製造する前から分かっている特徴とされる。たとえば、ねじを回すドライバーの刃を考えると、そのドライバーの刃先の寸法が型式特徴となる。場合によっては、刃先の仕上げ粗さが図面に示されていれば、それも型式特徴かもしれない。型式特徴は、製品管理上、製造後に寸法検査などで測定されることもある。
固有特徴とは、製造した際に現れる表面特徴で、図面では管理されていない特徴である。これは、製造してみなければどのような形状になるか分からず、製造した後も、その形状が記録されることはない。アメリカのニューヨーク州やメリーランド州で行われた打ち殻薬きょうの痕跡登録法がその例外である。
同一工具によって付けられた工具痕の間で、対応する痕跡のみを固有特徴というわけではない。製造図面で管理できない痕跡特徴のすべてが固有特徴である。確かに、それらの中のある部分は、互いに対応する痕跡となっているであろう。そして、工具痕を識別する際に固有特徴という言葉は、「同一の工具によって付けられた痕跡であることを示す特徴で、同種の他の工具による痕跡とは区別できる十分な固有性のある痕跡」といった意味で用いられることが多い。同種の工具による工具痕と共通しているような痕跡特徴は、固有特徴には含めないのである。このような定義のあいまいさは、シュヴァルツ教授が指摘されている通りに存在する。この、同種の工具による工具痕と共通している痕跡特徴で、図面で管理されていないものが、準型式特徴である。
準型式特徴はSub-class characteristicsの訳語である。意味するところは固有特徴と見誤るような、互いにきわめて類似した特徴であるが、連続生産された製品のあるスパンにわたって認められる共通した痕跡特徴である。型式特徴は、設計図面に指定された特徴であるが、準型式特徴は製造図面には指定されていない特徴であり、製造後の検査対象にもならない工具の表面形状の一種である。したがって、固有特徴の一種なのである。同一工具で連続生産された製品表面に、それらが同一工具によって製造されたことを言い当てることができるような形状で残されている痕跡である。ただ、詳細に検査すれば、形状に矛盾点(工具の表面形状が変化したのではなく、元から異なる形状をしていた工具によって付けられた痕跡であることをうかがわせる部分)が認められることから、固有特徴と区別できるとされる。
準型式特徴には、工具痕鑑定を時に誤鑑定に導く可能性のある痕跡として、Sub-class characteristicsという名称がジョン・マードックによって与えられた。この名称が定められたのは1989年10月のFBIアカデミーにおける会議の席上であった。1930年代に銃器工具痕鑑定分野で固有特徴と型式特徴の名前が用いられるようになってから、実に50年以上を経て定義された新しい用語であった。私はその会議に招かれており、日本語の感覚では偽固有特徴の方が適切な名称かと思った。pseudo individual characteristicsというような名称が思い浮かぶが、英語力のない私が、自信満々のジョンと渡り合うことはできなかった。現在、英語ではSub-class characteristicsは確立した用語となっているが、準型式特徴という訳語は20年以上経過しても定着しそうにない。
ところで、よく考えてみると、発射弾丸を特定の銃身に結び付けているのは、この準型式特徴を用いて行っているともいえる。ある銃身から、連続して弾丸を発射すると、一定の発数の間は、発射弾丸の表面に共通した痕跡特徴が残される。これはまさに準型式特徴と同じである。一方、個々の発射弾丸の痕跡の間には、詳細に調べれば必ず相違点があり、1発1発の弾丸を区別できる固有性がある。
ジョンが想定していた準型式特徴は線条痕の形態をした工具痕であった。ところで、準型式特徴の問題は、孫に相当する工具痕に祖父に相当する工具の影響が表れることを言っているもので、なにも線条痕としてだけ現れる特徴ではない。この問題は、痕跡の再現性の問題として、もっと統一的に考えなければならないのだが、それを強く言うと銃器工具痕鑑定の土台が危うくなるので、あいまいにされている。
ここで準型式特徴の問題を理解するため、痕跡の再現性が完全である場合、すなわち再現性が常に100%である場合を仮定すると、何が起こるか考えてみよう。工具痕の再現性が100%ということは、工具自体に変化があっては実現困難である。すなわち、工具に摩耗や損傷が一切生じない場合に限って実現される。また、工具と加工物の表面との接触条件なども常に同一でなければ実現されない。これは現実にはあり得ない仮定であるが、思考実験として考えてみよう。
工具痕の再現性が100%であれば、同一工具によって製造された製品表面に残される工具痕は、完全に同一の痕跡となる。すなわち、型式特徴が完全に一致するだけでなく、固有特徴痕まで完全に一致する。続いて、その製品が工具となって新たな製品を製造した場合に、その製品の表面にも全く同一の工具痕が付けられる。この場合、孫の製品に準型式特徴が現れたというが、全く同じ痕跡を共有する孫製品が出来上がる。このような条件では、同一工具痕の製品が際限なく再生されることになる。
この条件を発射弾丸についあてはめてみよう。ある1本のブローチを用いて、連続して多数の銃身の腔旋を加工したとする。工具痕の再現性が100%であれば、これらの銃身の腔旋の旋底表面には、全く同一の表面形状の工具痕が残される。それらの銃身から、多数の弾丸を発射したとする。すると、1本の銃身から発射された多数の弾丸に残される旋底痕が全く同一の痕跡となるばかりでなく、その1本のブローチで腔旋を加工されたすべての銃身から発射された弾丸すべてで、全く同一の旋底痕が付けられることになる。これが、工具痕の再現性が100%である場合の結果である。したがって、このような条件下では、ある1本のブローチが製造に関わった銃身が装着されたすべての銃器の発射弾丸には、全く同一の旋底痕が残される。ただし、腔旋の旋丘部分はブローチで加工されず、ガンドリルやリーマの加工方向は銃身軸に直角であることから、それぞれ異なった旋丘痕が残されるであろう。すなわち、ブローチで加工された銃身から発射された弾丸に残される旋丘痕には、準型式特徴の問題はまったく存在しない。一方で、冷間鍛造で加工された銃身の場合では、工具痕の再現性が100%の仮定をすると、全く同一の工具痕の銃身が多数製造されることになり、それら銃身を通過した弾丸の発射痕はすべて同一になる。
これに対して、工具痕の再現性が0%の場合には、工具によって加工された表面に残される工具痕には、工具に由来する痕跡が付けられるものの、連続生産された製品に残される工具痕が次から次へと大きく変化し、その工具痕の間に関連性を認識できない。すなわち、複数の工具痕を観察しても、それを加工した工具が同一であることは言い当てられない。たとえ同一のブローチで加工した銃身であっても、その加工面に同一工具が使用された形跡は一切認められず、同じ銃身から発射された弾丸の表面にも、銃身が同一であることを示す形跡は一切認められないことになる。ただし、切削加工や研削加工では、工具痕の再現性が低くなる可能性はあるが、プレス加工や冷間鍛造などでは、工具痕の再現性が0%という条件は現実的でないだろう。
現実の工具痕の再現性は、この両極端な場合の間にある。ただ、従来の発射痕・工具痕鑑定が期待している条件は、加工精度がそれほど高くなく、製品ごとのばらつきが大きかった時代の状況を引き継いだもので、楽観的に過ぎるきらいがある。大量生産技術が発達する以前、あるいはその発達過程の製造技術を前提とした識別技術を引き継いで現在も鑑定を行っている部分がある。銃器あるいは銃器部品の大量生産を行っている会社では、製造技術と製品管理技術がその時代より進歩しており、製造された製品のばらつきは小さくなっているであろう。加工材料の均質性も高く、連続して製造される部品相互の形状の均質性は高くなっている。また、部品の互換性が高くなり、部品交換がされることも多くなった。このような環境では、それまでの技術をそのまま引き継いだ鑑定法では誤まりが生じることがあろう。
一方発射弾丸は、エネルギーをもって飛び出す物体であればことが足り、発射弾丸の形状を揃えることは弾丸発射の目的ではない。弾丸は発射して使い捨てられるものなので、競技射撃や狙撃などの目的でもない限り、廉価な弾丸が好まれる。1か所の発砲事件で、弾丸の材質や形状がばらばらのものが次々に発射されることも珍しくなく、連続発射された弾丸だからといって表面形状の均質性が低いことが多い。1丁の拳銃から多数の弾丸が発射された発砲現場でも、回収された弾丸の間で発射痕跡を合わせられないことは珍しくない。特に弾丸が破片化してしまうと、全体の痕跡の把握が困難となり、使用された拳銃の丁数を確定させることも難しくなる。
結局、銃器の部品表面には均質性の高い工具痕が残され、発射弾丸に残される痕跡は、発射ごとに大きく異なることが一般的な事実である。複数の発射弾丸に残されている痕跡から、それらが同一銃器に由来する痕跡であるのか否かの判断を、現実にはわずか残されている類似性のある痕跡から行う必要があるのが現実であろう。そして、それは経験を積んだ鑑定者にしかできない技で、「ひよこ」にはできないというのが、私がこの世界に入った時に先輩から言われた言葉であった。
(c) 銃器工具痕鑑定にはおける統計的・経験的基礎
シュヴァルツ教授は、「信頼性のある銃器工具痕鑑定の結論は、本来確率的表現がなされるべきものである。・・・工具痕の異同識別の鑑定結果を、断定的に結論するにしても確率的に結論するにしても、その結論を導く上で必要とされる経験的、統計的根拠が希薄なのである。」と述べている。そして、その後の主張の中で、「政府系の鑑定者(government’s firearms and toolmark experts)」という言葉で、警察関係の鑑定者を批判している。体制批判の論調が強いことを感じるが、銃器工具痕鑑定において、体制側が悪いという論調はあてはまるであろうか?
政府系の鑑定者も民間の鑑定者も、ともにこの仕事を飯のタネとして行っていることは確かであるが、民間の鑑定者は、鑑定結果が直接報酬に結びつく度合いが高く、政府系の鑑定者はその結びつきが弱いのが実態と思う。特に、日本国内の警察関係の「○○研究所」などの鑑定機関では、職員の鑑定業務実績に対する評価は極めて低く、それに対して研究業績を高く評価しているというのが実態である。鑑定には極力時間を割かずに、個人の研究に時間を割いた方が給料が上がる評価システムとなっている。人事評価をする管理者が、鑑定内容をよく理解できない傾向も強い。したがって、鑑定結果が捜査を支援する結論であろうが、捜査と矛盾する結論であろうが、内容による個人業績の評価はできないことから、捜査側に寄り添う鑑定を行う動機付けは薄い。
一方、誤鑑定が発生した場合の人事評価のマイナス点はことのほか大きく、鑑定では無難な結論を導くことになる。アメリカの鑑定者が行っているような、「この世に存在するすべての工具を排除できる」などとの結論を導く鑑定者はいないであろう。「可能性がある」などの無難な鑑定書を作る方が得策である。これは、最近の公務員の人事評価システムによって、必然的にたどり着く結果である。
昔はどうであったかというと、この世界は徒弟制度で、先輩達は自らの持っている技を他人に教えないことによって、自らの立場を維持してきた。自らの鑑定は、自らの統計的・経験的基礎に基づいて行い、その基礎があることを誇りとし、しかしその経験を後輩には教えたがらなかった。鑑定を新人に任せることはなく、先輩たちが行い、「新人はどうしようもない」とけなすことによって自らを高めるといった世界であった。統計的・経験的基礎がないのではなく、それは秘伝であり、公開しないものであった。統計的・経験的基礎がないのであれば、鑑定結果は誤りだらけとなり、その業務が破たんしていることは傍からも分かってしまう。大きな誤りもなく鑑定を継続してきたことによって、この業務が存続できたのであり、そのことは統計的・経験的基礎がこの分野にもあったことを示している。ただ、それが公表されることはなく、それを尋ねられても公開できるような文書は存在せず、先輩鑑定者が引退したり死亡したりしたときに、そのデーターは失われるものであった。
(d) 伝統的な主観的鑑定手法について
シュヴァルツ教授は、従来の銃器工具痕鑑定は、鑑定者の主観に基づくものであり科学的でない、といった主張をしている。そして、鑑定者の間の統一見解は存在しないと主張している。これは事実である。しかし、数値で示すことのできるような客観的な判断基準が存在しないことと、鑑定結果が誤っていることとは同一ではない。誤鑑定を繰り返していては、この世界で鑑定者として生きていけるわけはない。鑑定者は誤鑑定を避けるための最善の努力をして鑑定結果を導いている。ただ、その努力は、鑑定作業に当てられより、鑑定結論を曖昧にすることに向けられることが多いのが実態である。
腔旋痕諸元を用いて発射銃種の推定を行うには、各種の銃器の腔旋諸元データをそろえることが必須である。そのようなデータを精力的に収集した人として、マシューズ博士が有名である。博士は膨大な腔旋諸元データを集めたにもかかわらず、いや集めたからなのか、銃種推定の鑑定結論には、誤りを回避させるためのあいまいな表現を残しておく必要性を説いている。「「資料の弾丸を発射した銃器が○○であると確信した場合であっても、発射銃器は○○あるいは、これと同種の腔旋諸元を有する銃器」とせよ、とのことである。
発射銃種の推定を腔旋痕諸元で行う場合、各種の銃器の出現率(押収数割合)のデータがあれば、確率的表現をした銃種推定が可能である。ところが、実際の事件は奇異なもので、それまでにほとんど使用されたことのない銃器、あるいは押収されたことのない銃器が使われることがある。銃種推定リストの末尾にあるような1%の確率の銃器が使用された場合、いくら数字で確度が示されているとは言っても、捜査側は「先生も間違えましたね」となる。○か×かの世界であり、確率99%の結論の価値は認められない。
銃器工具痕鑑定のような経験に基づく鑑定を行っている分野は、自らの結論に愛着を持っている。一方、米国学術会議がその科学性を評価しているDNA鑑定や化学鑑定の分野は、単に分析した結果を示したまでで、誤る確率はどれだけで、もし誤ったのなら、その値に入っていたのだと、結論にそれほど愛着は持っていないようである。
死亡時期の推定で、「その人物の生存が確認されていた時期と、その人物の死亡が確認された時期の間である」としか答えなかった高名な先生の話が有名である。誤りを防止するために、誤りが含まれない意味のない結論にする鑑定の方が多いのが実態であろう。それなのに、「容疑工具以外のこの世のすべての工具を排除できる」というような結論が導かれた場合、よほど痕跡の対応がよかったのだろうと考えられる。ただ、この分野の仕事を長年続けていない人には、それが理解できないだけのことである。
AFTEの鑑定基準は、誤一致鑑定を防止できる一方で、見逃し鑑定が多くなる基準である。鑑定者が自らの基準で判断していることが、何か悪いことに用に語られているが、鑑定者が自らの基準で判断したものであれば、鑑定者はその結論に自信を持っており、結論に責任を持つであろう。個々の鑑定者の結論に対して、基準を策定した人も、鑑定書を決裁した人も責任を取ることはない。最終的には、鑑定者がその結論の責任を取ることになるのであるから、鑑定者が責任を持てる結論を自らの基準に基づいて鑑定書を書くべきなのである。
(e) CMS理論に対する的確な見解
シュヴァルツ教授は、銃器工具痕鑑定関係の文献をよく読み、裁判で検察側の証人となった鑑定者をよく研究していることから、CMS理論(連続一致条痕の判断基準)について的確な見解を述べている。あくまでも、部外者の見解であるが、かえって偏りのない批判になっているように思えた。
CMS理論は、比較している線条痕の間で、連続的に対応している線条痕の本数が最大で何本あるかを数えて、その結果に基づいて異同識別の結論を導くものである。判断基準とする具体的な本数はともかくとして、どちらの痕跡の方がよく対応しているかを客観的に示すことはできる。ただ、太い条痕と細い条痕、深い条痕と浅い条痕のどちらも1本は1本であり、重みづけがなされない。この点については、太い条痕や深い条痕に重みを付ける考え方もある。パターン鑑定では、通常重みを付けている。ただ、太い条痕や深い条痕は、工具痕の祖父にあたる工具の影響を受けやすいという主張がある。浅く、細い条痕で、一見ランダムに見える条痕こそ、工具痕の異同識別の決め手となる条痕であるという見解があり、重みを付けない方がよいともされている。
一方、位置と幅が対応する条痕であっても、深さが同等でない条痕を、対応条痕として数える手法と数えない手法とがある。深さが異なっていても対応条痕として数える方法が、2次元的な手法とされ、深さが異なっていれば対応条痕として数えない方法が、3次元的な手法とされる。弾丸の材質が異なる場合や、弾丸表面に磨滅が生じた場合に、再現性の高いパラメーターは、条痕の位置、条痕の幅、条痕の深さの順となる。実際の事件では、資料の状態を見ながら、条痕の深さも考慮した方がよいのか、深さは重視しない方がよいのかを判断することになる。
このような判断は、熟練した鑑定者は、無意識に迅速に行い、頭で本数を数えることもなく結論に至る。比較顕微鏡で観察している際に、確かに条痕の対応関係を見ているわけだから、それを「数えている」という言い方をすれば、誰でもCMS的な判断を行っていることになる。しかし、鑑定者の間でCMS理論の人気が高まらなかった理由としては、その基準が厳しすぎて、見逃し鑑定が増加してしまうことと、具体的数字を示すと、鑑定結果に上げ足を取られる機会を増やすことになるからであろう。線条痕の数え方に厳密な方法が存在しない以上、「こんな条痕を数えたのか。まだまだだな。」といった指摘を仲間内から受ける可能性が増大する。
現実には、弾丸発射ごとの発射痕の変動が大きく、CMS基準が厳しすぎて見逃し鑑定が増加することは大きな問題である。密造拳銃の発射痕変動は特に大きいが、その腔旋痕形状が特殊であり、その形状は銃身ごとに大きく異なり、線条痕は対応しなくても腔旋痕の全体形状の対応が良好であれば、同一銃身を通過した弾丸とする結論が誤る可能性は極めて低い。そのような場合にはCMS基準は邪魔となる。
一方、CMS基準をクリアしている場合には、その比較写真の左右の類似性は高く、それを見ただけで自ずと結論が得られる場合が多い。逆にCMS基準はクリアしているが、その比較写真を見ても、左右の痕跡の間の類似性が低く感じられる場合は要注意である。パターン鑑定もCMS鑑定も、どちらかが優れているというものではない。ただ、結果を追認する場合にCMSを適用することが多いだろう。合うかどうかが全く分からない資料に対しては、パターン比較で一致の可能性を迅速に棄却可能で、本数を数える必要すらないことが多い。現実の比較対照において、そのような場合が、類似性が少しでも見られる場合の100倍以上あるというのが実感であり、現実の鑑定でCMSを適用する機会は少ない。
(f) どちらの手法が優れているかの議論
銃器工具痕鑑定の伝統的な手法とCMSのどちらが優れているかについて、シュヴァルツ教授はどちらも不完全で、この問題に対する正しい取り組み方ではない、と簡単に片づけてしまっている。銃器工具痕鑑定の証拠価値を否定すると、少なくともアメリカの司法界では大混乱が生じるが、それを楽しむような非建設的な態度である。アメリカでは、極めて大量の銃器工具痕鑑定が行われ、そのほとんどが問題なく処理されてきていたのに、それをすべて否定するという方針が、まともな考え方であるはずがない。
シュヴァルツ教授の議論には、「限られた予算の中で、効率的に業務を処理する」という視点が欠けている。大量の事件が発生する中で、限られた人材と資機材を用いて事件を処理していかなければならない。厳密な分析が重要で、処理時間の短縮は問題でないとする議論があるが、これは大間違いである。必要人員以上の人員が配置されている部署に限って、そのような主張をする人がいる。全体の仕事量に見合った処理時間で鑑定を処理しなければ、単に積み残し鑑定(バックログ)が増大するだけである。積み残しの中には、今担当している事件より重要な事件があるかもしれない。部署によっては、人員増の口実にするために、積み残し鑑定を増やすであろう。一方、処理時間を削って積み残し鑑定の削減のために、必死に頭を絞っているところもある。その場合でも、単に手抜き鑑定をするのではなく、最善と想定される処理をしているはずである。
銃器工具痕鑑定の処理量の大半は、一目見て異なる痕跡を、「該当せず」として棄却する作業である。少しでも類似痕跡が認められる比較件数と、全く痕跡が異なる比較件数の比は、1000倍とか1万倍のオーダーである。痕跡比較を迅速に処理するには、異なる痕跡を迅速に棄却する能力を高めることが最も重要である。痕跡処理システムで、最初から条痕の細かい対応関係を分析するシステムの実用性は低い。処理速度が上がらないからだ。人間の目で見たら全然異なる痕跡を迅速に跳ねる能力が、自動処理システムに最も必要とされる能力である。このような局面でCMSの出番はない。
シュヴァルツ教授は、銃器工具痕鑑定に経験的・統計的データーが欠落していると主張しているが、昔から鑑定者は自分の頭の中にそれらのデーターをしまいこんでいた。銃器工具痕鑑定で重要な経験的・統計的データは、何も痕跡の対応関係の状態を分析したデーターには限らない。逆に、痕跡の対応に関する統計データーは鑑定を迅速に処理する上で、あまり役に立たないデーターである。そのようなデーターは、直観に頼った結論とあまり変わらないもので、頭で想像できる範囲内のものだからだ。よく似ている痕跡は、統計的に出現頻度が少なく、対応関係があまり良くない痕跡が統計的に出現頻度が多いことは、常識的な感覚と一致している。一方、最も重要で、外部に公開されることのない統計的データは、捜査員が持ってくる容疑銃が本星である確率であろう。この確率が99%であることを知っていれば、そのような頭で鑑定を行い、その鑑定の結論が誤る確率は極めて低いであろう。なお、この値は一定値ではなく、時代とともに捜査環境も変わり変化してきた。たぶん公開されることはないであろう。
これ以外にも鑑定に役立つ統計的データがある。それは、容疑銃器とともに実包あるいは打ち殻薬きょうが押収された場合に使えるものである。その実包や打ち殻薬きょうが、問題の事件の現場で発砲された実包と同一種類のものであれば、その拳銃が本星である確率が、異なる種類の実包が押収された場合と比較してきわめて高い。その値も、出せと言われれば出せるのであろうが、公表されることはないであろう。何も、データーブックに載っている統計データのみが統計データーではない。経験の豊富な鑑定者は、様々な統計的データーを頭にしまいこみ、鑑定を行っている。そのデーターの大半は、対象とする資料の迅速な絞り込みに大きな威力を発揮している。そのため、経験の豊富な鑑定者とそうでない鑑定者との間で、業務の処理スピードに大きな違いが生じる。一方で、鑑定の最終段階である痕跡の対応関係には、統計的データを持ち込んでもそれほど大きな変化は生じないであろう。そのため、センスの良い新人と、熟練鑑定者との間で、痕跡比較の鑑定処理速度の違いはあまり大きくないかもしれない。かえって、元気で目の良い新人の方が、それまでの長年の顕微鏡観察で目を酷使してしまった熟練鑑定者より処理速度が速かもしれない。
いずれにしても、熟練の鑑定者は、鑑定のあらゆる段階で、様々な経験的・統計的データーを駆使して鑑定を行っており、部外者がその全体像を理解することは難しい。また、裁判でもそのような点を追及されることは少なく、明らかにされることもない。このような統計的データの使用法が分かると、弁護側は統計的データーに基づいた鑑定とは言わずに、先入観に基づいた鑑定と非難する。そのような非難をする方が、統計や経験の利用法を知らないだけである。
(g) 銃器工具痕鑑定に科学的信頼性がないという議論について
シュヴァルツ教授は、銃器工具痕鑑定には科学的信頼性がないことから、その鑑定を全面的に棄却すべきであるという長い議論を展開している。要約すれば、「銃器工具痕鑑定には統計的・経験的基礎がなく、鑑定者の主観に基づく判断であり、科学的でない。容疑工具以外のこの世のすべての工具を除外できるという結論が認められないことは当然として、科学的基礎がないのだから、可能性の大小すら論じさせてはならない。」というものだ。
このような議論を聞くと、世の中に多くの鑑定がある中で、なぜシュヴァルツ教授が銃器工具痕鑑定を目の敵にしているのかについて疑問を持たざるを得なくなる。古美術品の鑑定など、「鑑定」という用語が用いられる世界では、その結論の信頼性が100%でないことは想定される。それでも、それらの鑑定の価値は全否定されていないであろう。一方、これらの分野では、鑑定人が誰であるかが重要視されている。誰でも同じ結論に至るわけではなく、鑑定の信頼性が鑑定人に依存しているからである。
鑑定分野によっては、正反対の鑑定結果が必ず出てくる。精神鑑定や筆跡鑑定などはその傾向が強い。そのような分野では、どちらの結論を採用してよいのかきわめて難しい判断を迫られる。銃器工具痕鑑定でも、正反対の結論が出ることがあるが、毎日多数の鑑定をこなしている鑑定人、長年同じ仕事をしている鑑定人の間で、正反対の鑑定結果が出ることは稀である。大きな事件で、弁護側から鑑定依頼を受けて鑑定を行った大学の先生などの鑑定との間でそのようなことが生じる。弁護側が依頼した鑑定人には、この分野で経験的・統計的基礎が不足しているのは明らかである。また、そのような鑑定人は、その後継続してこの分野の鑑定を行うわけではなく、無責任な意見を述べてもその後の仕事でマイナスとなることは少ない。また、異分野の考え方を持ち込み、その考え方が必ずしも的確でないことがある。一方、職業として銃器工具痕鑑定を行っている鑑定人は、誤鑑定はその後の生活に大きな影響を与える。一旦行った無責任は発言は、その後長らく別の事件の裁判で追及されることになる。
銃器工具痕鑑定は手作業である。鑑定件数は、鑑定従事時間と直接関係している。定型的な仕事は少なく、扱う対象によって、処理も異なる。鑑定のあらゆる局面で自らの判断を要求されることから、多くの鑑定をこなした鑑定人は、それなりの経験がある。その経験に基づいた判断を、全く信頼できないものだとする考え方は、現実を見る目がなく、想像力を欠いた見解である。
(h) 何も知らずに弁護はするなの議論について
この部分でシュヴァルツ教授は、鑑定者の間で異なった結論が得られた場合、どちらの結論が正しいのか銃器工具痕の鑑定人は決めることができないことから、その判断が銃器工具痕鑑定の知識のない陪審員にゆだねられてしまうのはおかしいと論じている。ここでまず言えることは、どちらが正しいかを簡単に決められない種類の問題であるから、異なった結論が出てくるのだということである。黒白を簡単に決められるのに、異なった結論が出てくるのではおかしいであろう。正しくない方の結論を提出した鑑定人の立場が全く失われてしまう。そのような鑑定人が生きていくことはできないだろうから、簡単に黒白が付けられるような場合に意見対立が生じることはないであろう。
アメリカの裁判で銃器工具痕鑑定が問題となるのは、ほとんどの場合で殺人事件である。死刑のある州では、その鑑定結果で被告人が死刑となる可能性が高い。日本の銃器鑑定では、その鑑定結果で被告人が死刑となる例は稀である。普段は威勢の良い鑑定者でも、自分の鑑定結果で被告人が死刑になることが予想される場合には、途端に歯切れが悪くなる例を見てきた。そのような場合でも、普段と同じ態度で鑑定を行える鑑定人は立派である。
銃器工具痕鑑定で、痕跡が合う部分を見つける作業は、痕跡が合わない部分を見つける作業より大変である。逆の表現をすれば、痕跡を合わせられる部分以外の少しずれた部分を比較すれば痕跡は合わないのだから、痕跡が合わないと主張することは極めて容易である。また、痕跡が100%合うことは絶対にないので、正しい位相を比較していたとしても、痕跡が合わない部分は必ずある。その合わない痕跡に着目して、「異なる工具による痕跡」との結論を導き、それがたとえ正しくない結論であっても、「痕跡にこれだけ異なっている部分があるのだから、これらが異なる工具による痕跡とした自分の判断に誤りはない。」と主張することに、後ろめたさを感じない鑑定者は多い。「疑わしきは被告人の有利に」の原則を持ち出せば、そのような結論を導いた場合の気分はさらにスッキリとする。したがって、銃器工具痕鑑定でも、精神鑑定や筆跡鑑定ほどではないが、対立する鑑定結果が提出されることがある。
対立する鑑定結果が出された場合、私なら、細かい吟味をしなくても、その鑑定人が誰であるか、その鑑定人がこれまでどれだけの鑑定を行い、どれだけの事件解決に貢献してきたのかなどの、いわゆる鑑定経歴の比較をすれば、どちらの主張に分があるかの予想は付く。そして、その予想はたぶん正しいであろう。経験豊富で、多くの痕跡を合わせてきて、多くの鑑定書を作成し、その鑑定者が裁判で受け入れられてきた鑑定人の主張の方が、痕跡を合わせた経験の少ない鑑定人の意見より信頼性が高い。このことから、陪審員はシュヴァルツ教授が主張するような難しい判断をしなくてもよい。陪審員の判断は、鑑定の内容の細部を検討するのではなく、その鑑定人の経歴や鑑定人の態度を見て行えば済むことなのだ。鑑定経験が豊富な鑑定者の結論を尊重すればよいだけのことである。政府系の鑑定者といえども、白を黒といって得することはない。鑑定業務自体の評価はもともと低く、評価を受けない仕事で虚偽の主張をする理由などない。その一方で、虚偽事実が判明した時に所属部署は守ってくれないし、処罰が待っているだけなのだ。
シュヴァルツ教授は、死刑が適用されそうな場合に、裁判官が慎重になる例を紹介している。そのような考え方を全面的に否定するものではないが、死刑事件であろうとそうでない事件であろうと、銃器工具痕鑑定の内容は同じである。いや、死刑事件の方が一般に良い結果が得られる。なぜならば、体内に入った弾丸の変形は、器物損壊事件などで窓ガラスや玄関扉に当たった弾丸より損傷変形が少なく、強い結論を導くことができる可能性が高いからだ。破片化した弾丸で、何とか弱い結論を導いたのに、主張があっさりと認められ、状態の良い弾丸で強い結論を導いたのに、重大事件だからその結論を全面的に認めるわけにはいかないというのはおかしなことであるが、よくあることだ。
このようなおかしな判断が行われる理由の一つは、現実の工具痕の再現性は低く、対応条痕が少ない中で、同一工具由来の痕跡との結論を鑑定者が導いていることが多いからだ。CMSの基準は、何10本もある条痕の中で、連続した数本の条痕がありさえすれば、それらは同一工具由来の痕跡と結論する。経験のない人にとって、あまりにも少ない対応条痕に思えるであろう。それでもこの基準は、見逃し率の大きな基準なのである。
(i) 不完全な既存体制の議論について
この部分でシュヴァルツ教授は、鑑定人の教育水準、鑑定機関の認証制度、鑑定人の技能検定試験のいずれもが不十分であると主張している。この問題を順に考えてみよう。
鑑定人の学歴は、客観的な条件であり、批判に用いるに容易な条件となっている。ただ、鑑定人の年齢と、その鑑定人の年代の大学進学率を考慮して議論すべき問題である。日米ともに第2次世界大戦後のしばらくの間は大学進学率は低く、その後大学進学率は高まった。大学進学率が低かった年代の鑑定人が高卒であっても、その鑑定人の能力を否定する材料とはならない。特にアメリカでは徴兵によって大学教育を受けにくかった世代が存在する。その分、軍隊経験がある人たちが警察に勤めている。高卒の鑑定人では教育歴が十分でないと裁判で指摘されたことが紹介されているが、それでも鑑定経験が豊富なため、その証言が裁判で認められているのである。学位を持っている鑑定人は、研究に時間を割いてきた人たちであり、その分鑑定に時間を割いていないので、鑑定経験は乏しく、その発言の信頼性が一段低い場合があると感じるのは私だけであろうか?この分野では、実務者は常にデーターとともにあり、研究者は人の集めたデータを基にして論文を書くだけの人の場合が多いように感じる。
鑑定結果を確率的に示すことを要求されたサンフランシスコ警察の鑑定者が「統計学者でも数学家でもない」と答えた例が紹介されている。彼(シュヴァルツ教授は名前を伏せているがアンディー・スミスである)はこの問題に詳しくない統計学者や数学家よりも適切な答えができるのに、裁判戦略上あえてそう答えただけである。
CMSより従来の鑑定手法が好まれる理由として、シュテファン・バンチの「この分野の鑑定者には、統計的理論を理解したり評価する能力が欠けているからである」との主張が紹介されている。これもFBIに身を置くバンチ特有の言い方である。実際は、従来行ってきた鑑定手法を続けたいという鑑定者が、何も新しい方法で鑑定することはないと拒否しているのだ、という内実を言いたくなかったのだろう。
日本でも、昭和の時代は高卒の鑑定者が存在したが、現在ではいなくなった。同じように、アメリカでも2000年以降は高卒の鑑定者はほとんどいなくなっている。そして、大卒を条件にしてもよい時期を現在模索している状態である。近々そのような条件が設定されそうである。この間、学歴詐称が裁判で問題となり、親しくしていたメリーランド州の鑑定者の一人が自殺するという悲しい事件も発生した。学歴がないと発言を重視してもらえないという、悲しい現実があったのだ。
シュヴァルツ教授は、鑑定機関が、アメリカ犯罪捜査研究所長会議(アスクラッド)による認証を受けるか否かが任意で、また認証の基準も甘いといった議論をしている。この点についても、両者の議論に耳を傾ける必要がある。鑑定業務の需要が大きいところで、突然アスクラッド認証研究所しか鑑定ができなくなったら、認証研究機関の鑑定負担が増大し、認証基準に沿った鑑定を行っていたら、バックログが増大するだろう。適時、適切な鑑定をすることが何よりも大切なことを前提とすれば、現状をすぐに変更しない方が正しい選択となる。
アメリカの銃器鑑定者の話を聞くと、アスクラッドの検査官が傍若無人とも思える態度で、鑑定検査資機材のメンテナンス状況を調べたり、適切なログの管理や物件管理が行われているかを、まさに荒らし回って帰って行くことに憤慨している人が多い。決して、甘い認証制度ではない。
シュヴァルツ教授はCTSの試験が、現実の鑑定よりも易しい試験でしかないという批判をしている。1980年代から20年以上受験してきた経験から言って、確かに最近の試験問題は以前のものより優しくなったといえる。以前は、グロックのポリゴンライフルの問題が出されたこともあったし、上下2連のデリンジャー型拳銃で、上下の銃身の腔旋の工具痕が類似しているものを探して、試験問題を作成したこともあった。そのころは、鑑定人の鑑定能力を試す目的が含まれていたように思われる。現在はごく標準的な問題となっている。鑑定人が、一定の基準を超える鑑定能力があることを確認する方向に、試験の内容が変化したのだろう。
簡単な問題であれば、広範囲の鑑定者が正しい結論に達することができることを確認することは、銃器工具痕鑑定の方法の信頼性を示す上で重要である。シュヴァルツ教授が主張するように、信頼性を全く欠いた鑑定ではないのだ。一方で、鑑定者が誤鑑定を防止するために、多くの「不明」結論を出していることも明らかとなっている。シュヴァルツ教授は、黒か白かの選択をすることが想定されている試験で、「不明」の回答は誤回答に含まれると主張している。その程度のことは知った上で、「不明」の結論を導いている鑑定者が多いということだ。誤った結論を導くぐらいなら、「不明」にするという、この分野の多くの鑑定者の立場が表れている。そのような姿勢の鑑定者が、現実の鑑定で急に無理な結論を導くことはないはずである。はたから見ると、優柔不断に見える結論を導く鑑定者が多い分野であり、その結論は「疑わしきは被告人の利益に」なる場合が多い。
そのような慎重な鑑定姿勢から、手元に容疑銃器がなければ、痕跡の異同の結論を一切出さないとする立場をとる鑑定者がいる。そのような頑なな態度を取らなくてもよい課題があることを、CTSの現在の試験問題は示している。手元に容疑銃器がなくても痕跡の異同識別の結論が出せるような問題となっており、その鑑定手法に一定の根拠が存在することを示している。
(j) 捜査を追認する偏りの議論について
従来の銃器工具痕鑑定が、捜査員が目星をつけた容器工具あるいは容疑銃器を、犯罪現場の工具痕と結びつくことを示すだけだった、とするシュヴァルツ教授の主張は正しい。それに対して、不特定多数の資料の中から、痕跡が対応する資料を探す作業は、それなりの道具立てがなければ実行不可能である。
捜査員が可能性を示した工具や銃器と、現場工具痕あるいは現場弾丸との関連性を調べる鑑定は、御指名鑑定と呼ばれてきた。御指名鑑定は、比較する相手が限定されており、集中して鑑定をすることが可能である。それでも、それらが同一工具あるいは銃器に由来するものとの結論を導くのに、数十分あるいは数時間をかけて鑑定している鑑定者が多いはずである。痕跡が合う部分を見付けるのに時間がかかるからである。不特定でかつ多数の資料との間の痕跡の比較対照作業を、これと同じような密度で行うとすると、膨大な時間がかかってしまう。古くからわが国ではこの種の鑑定作業を行ってきたが、御指名鑑定とは密度の違う処理がなされてきた。「合う」との情報がないのだから、「合わない」ことを前提に鑑定するため、ざっと見て良く合う部分がなければ、即座に可能性を棄却してしまうからである。
一方、御指名鑑定では、一度見て合うところが分からなくても、詳細に調べなおし、それでも見つからなくても、捜査員が容疑工具あるいは容疑銃器と言っているのだから、さらに詳しく調べ、苦労して合う部分を探す。そのように、探し回ると、最初は気が付かなかった合う部分に気が付くことがある。先輩の中には、同じ資料を2箇月も3箇月もかけて調べていた人もいたほどだ。
ところが、前情報のない資料に対して、そのような時間をかけて鑑定をすることはなかった。明らかに、捜査情報によって鑑定作業の密度を変えている。はたから見ても、御指名鑑定では無理に合わせているのではないか、捜査情報のない鑑定はいい加減に処理しているのではないかと感じられることもある。しかし、鑑定書を書く段階になると、比較写真もつけなければならないので、無理に合わせて強い結論を導くことは案外難しい。そのため、良い写真を得ようとして、さらに時間がかかることにもなるが、その過程で無理な結論は放棄されることが多いだろう。一方、前情報がなく密度の薄い鑑定を行った資料には、見落としが生じることは避けられない。
シュヴァルツ教授の主張する捜査を追認する偏りは、見逃し鑑定を少なくする方向には作用するが、合わないものを誤って合わせてしまう方向には、働きにくい。痕跡が合っていないのに合っているという鑑定書は書きにくいからだ。無理に合わせた鑑定書の矛盾点は、同業者に気付かれてしまう。一方、見逃し鑑定は、鑑定書が作成されるわけではなく、永遠に埋もれることになる。
不特定多数の資料の中からヒットを重ねた経験からいうと、全国の鑑定資料が集まる環境では、特定の事件の捜査員が持つ銃器関連情報より広範囲な、あるいは複合的な情報を集められる。それらの情報を自ら前情報として組み立てて、密度の高い鑑定をする資料を選択することによって、不特定多数の資料からヒットが得られる。漫然と痕跡を見ているだけで、そのようなヒットが得られるとは思わない。痕跡合わせの仕事は、漫然と痕跡を見ているだけで良い結果が得られるものではない。集中力はそれほど持続しないからだ。IBISの効用も、可能性の高い痕跡を選別してくれることにあり、IBISが選別した資料を集中して調べると、時としてヒットにつながることがあるというものである。
痕跡の合う部分を見つけることは大変な作業である。一方で、合わない痕跡はどこにでもごろごろしている。シュヴァルツ教授の批判が悪意に基づいていないとすれば、彼女は合わない痕跡を合う痕跡と丸め込むことが容易と考えている点にあるようだ。見る人が見れば、合う痕跡と合わない痕跡の区別は付く。その区別が付かない人の意見を重用すると、捜査員の言いなりに合わない痕跡を合う痕跡とする鑑定書が作成容易とする誤解に陥ることになる。
(k) 銃器工具痕鑑定の個別排除の議論について
銃器工具痕鑑定が原理的に誤っており、銃器工具痕鑑定の証拠価値は裁判で全面的に否定されるべきだというシュヴァルツ教授の主張は、アメリカの裁判所で受け入れられることはなかった。ただし、個別の鑑定では、部分的に鑑定証人の証言内容を裁判所が認めない事例が出てきているので、弁護側にとって一歩前進したとの主張である。この主張は正しい。
銃器工具痕鑑定は、多数のステップを踏んで行われるが、その大半の作業が手作業であり、鑑定人の知識と経験によって行われる。その作業は、時には誤った判断が紛れ込む余地のある作業である。いずれかの段階で誤った判断が紛れ込むと、最終結論に重大な誤りが含まれることもあるし、結論には大きな影響を与えないこともある。途中の過程で曖昧な判断をすることによって、最終結論に良い影響を与える場合もあるし、悪い結果をもたらす場合もある。また、銃器工具痕鑑定者の多くは、多数の鑑定を抱えて多忙であり、ぎりぎりの時間配分で鑑定を行っていることが多い。そのため、個々の鑑定で誤りが発生することは当然考えられる。
鑑定は、尋ねられた鑑定事項に答える形式の鑑定書として完成する。その中では、鑑定事項に対応する箇条書きの鑑定結果が示される。その鑑定結果が妥当な結論となるように、鑑定人は最大限の注意を払う。結論を得るまでの論理の筋道が一本でない場合もあるので、途中の議論に曖昧な部分があっても、最終的な結論に誤りが含まれない場合もある。
弁護側の質問は、よく「重箱の隅をつつくような質問」で、それによって一部にでも不適当な箇所が発見されれば、鑑定全体の信用性を失われたとする戦略がとられる。たとえ、本筋に重大な影響を与えない問題であっても、誤りは誤りである。、鑑定人は、それを指摘されることによって、その後の鑑定業務をより慎重に行うようになり、鑑定人としても成長する。そうとはいえ、鑑定人の未熟さによって、重大な事件の犯人を無罪にすることのないように、初めから慎重でなければならない。ただ、銃器工具痕の鑑定結果が唯一の物的証拠である事件が少なく、重箱の隅の問題で無罪となることは稀である。やはり、重大な判断ミスが致命傷となる。
(l) 不備な鑑定書面の議論について
アメリカの銃器工具痕鑑定者は鑑定の負担が大きく、比較写真を撮影せずに痕跡が対応しているとする鑑定書が、一時期は多く作成されてきた。鑑定書も結果のみを示す、ごく簡単なものであることが多かった。そして、詳細は裁判で説明するという姿勢であった。これを批判しているシュヴァルツ教授の主張は正しいものである。鑑定処理件数が増加すればするほど、痕跡特徴を記憶することは難しくなる。鑑定処理件数の多い鑑定者が、痕跡の対応状況を裁判のときまで記憶しているとする主張は、ほとんど信用できない。年に1、2件しか鑑定しない鑑定者には、そのようなことがあるかもしれないが、それでも何らかのスケッチや言葉によるメモを残していなければ、痕跡の対応状況の記憶を正しくよみがえらせることは困難と思う。
痕跡の比較写真を撮影するのを嫌がる理由は、素人が比較写真を理解できないからではない。比較写真を撮影するのが面倒な点が最大の理由であろう。また、現実にはあまりよく対応していない痕跡を、言葉では良好な対応をしていると説明しようとする場合も、比較写真をあえて撮影することはないだろう。痕跡の対応状況が良好な場合には、比較写真を撮影する作業は簡単で、短時間で済む。そして、その後の対応も楽になるから、鑑定者にとって比較写真を撮影することのメリットの方が大きい。現在はデジタル写真がいとも簡単に撮影できる。それでも一切の比較写真を残さないという口実は、現在では説得力を全く失っている。
比較写真は、何も他人を説得させるためにだけ撮影するものではない。自分のために撮影するものだ。比較写真が残されていれば、比較した場所の再現も容易であるし、裁判までの時間間隔が年の単位で離れてしまっても、自信を持って自分の行った鑑定結果について語ることができるようになる。
裁判の前日になって行われる再鑑定が、以前に行った鑑定結果を再確認する動機で行われることは、シュヴァルツ教授の主張のとおりであろう。弁護側が追及する点が漏れ伝わってきた場合には、それに対抗する手段を探すための目的でも再鑑定は行われるだろう。そして、以前の鑑定時より痕跡がよく合うという方向で再鑑定は行われるだろう。そのため、よく合う旋丘痕の条数が以前より増加することはあるだろう。その方が説得力があると考えるからだ。以前の鑑定結果と異なるとの批判を受けるとは考えが及ばないのだ。最初の鑑定時に十分な量の比較写真が撮影されていて、それがよく整理されていれば、このような再鑑定を行う必要がなくなるし、もし行うとしても、以前の結果を確認するためだけの短時間のもので済む。一方、比較写真が撮影されていなかったり、撮影された比較写真の整理が悪い場合には、再鑑定にも当初の鑑定時と同様の時間を必要とすることになり、多忙な中では大きなマイナスとなる。
この部分のシュヴァルツ教授の指摘は、全くもって的確なものである。
(m) 容疑銃器不在下の鑑定結果の議論について
指紋によって個人が特定されることが知られるようになると、手袋をして犯罪現場に指紋を残さない犯罪者が増加した。同様に、銃器や工具が、犯罪現場に残される痕跡と結びつけることができることが知れ渡ると、犯罪に使用された銃器や工具は海や河川に投棄されることが多くなった。銃器の入手と、それに用いる実包の入手が同程度に困難なわが国では、弾(たま)を撃ち尽くした銃器は、もったいないようだが、その後の役に立たないことから、投棄されることが多い。重大な犯罪を犯した場合には、特にその傾向が強い。
ところで、銃器を用いて犯罪を行う際に、必要があれば発射することを前提としている場合は特に、どこかで試し撃ちがなされる。犯罪後投棄された銃器は発見できなくても、試し撃ちの際に発射された弾丸や打ち殻薬きょうが発見されれば、それを犯罪現場で得られた弾丸や打ち殻薬きょうの痕跡と比較対照することによって、それらの結びつきを明らかにすることができる。このような鑑定が、容疑銃器不在下の鑑定である。
CTSの試験のところでも触れたが、容疑銃器が手元にないと、痕跡の異同の結論を一切出さないとする立場をとる鑑定者がいる。発射銃種によっては、準型式特徴の影響があり、容疑銃器が手元にないと、その影響を確定できないことがその理由の一つとされている。ただ、多くの鑑定経験を積み、発射弾丸や薬きょうから、その発射銃種を詳細に推定可能となると、そのような条件下の鑑定に対する自信もついてきて、ある程度の結論は導けるようになるはずである。
この種の痕跡の鑑定は、与えられた現場弾丸類と容疑者周辺から押収された弾丸類との間にみられる痕跡の類似性に基づいて、それらが同一の銃器に由来するものか否かの結論を示すことである。痕跡の鑑定者の責任範囲は、それらの間に認められる痕跡の類似性だけである。発射痕跡の結びつきが得られた資料と容疑者との関係が、どの程度確実であるのかは別問題である。容疑者の身辺からではなく、不特定多数の人物が立ち入り可能な山林等から弾丸や薬きょうが発見された場合、その資料と容疑者との関係がどれだけ確実であるのかの検証の方が、比較写真から準型式特徴の問題があるか否かを判断するより難しい場合が多いだろう。
容疑者が身柄を拘束された時に、身に着けていた衣服のポケットに打ち殻薬きょうがあり、その痕跡が殺人事件現場に残されていた打ち殻薬きょうと痕跡が対応したとしよう。容疑者がその打ち殻薬きょうの発射銃器をかって所持していたことを否定し、殺人事件の現場で被害者に向けてその銃器を発射したことはありえないと主張しているとしよう。そのような事件の裁判で、それらの間の痕跡の対応関係が準型式特徴が一致しただけであるのか、固有特徴が一致しているのであるのかの鑑定者の判断が全く信じられないと弁護側が主張することがある。弁護側は、もっと違う点で全面的に争えばいいのにと思うことがある。鑑定人としては、それらの痕跡の対応関係が、同種の銃ではなく、同一の銃による打ち殻薬きょうにしか見られない対応状況と判断した根拠を説明するだけである。
(n) 捜査機関が偏向している確たる証拠の議論について
シュヴァルツ教授は、犯罪捜査研究所の鑑定が捜査側の言いなりで、捜査結果を追認しているものであり、信頼できないと主張している。これは、限られた人員と時間の中で、最大限に効率的な鑑定処理を行い、社会の安全と安心に貢献しようと知恵を絞っている側の苦労を全く理解しない批判である。ここでは実名が挙げられていなかったが、この部分で非難の対象となっているのは、積み残し鑑定の増大によって機能不全に陥ったロサンゼルス警察犯罪捜査研究所の大改革を行い、その業績が高く評価されているドリーン・ハドソン(Doreen Hudson)である。
彼女は、効率性の低いロサンゼルス警察犯罪捜査研究所の銃器鑑定部門が、銃器犯罪解決への貢献を高める方策を研究してきた。それまで、捜査員が直観に基づいて持ち込む情報に基づいて、捜査員が持ち込んだ銃器と現場資料の痕跡を比較対照してきたが、捜査員の情報が的を得ている確率がわずか30%しかないことが明らかになったという。以前、この種の捜査情報の信頼性の値として、99%の値を示し、このような統計データーは日本では明らかにされないだろうと書いた。アメリカでは、それを公表している研究結果があるのだ。
押収銃器が発砲事件と関連していないことを明らかにすることは、それなりに重要な仕事であるが、鑑定残が累積している状況では、それは許容できない事態らしい。鑑定者の業務時間の3割しか事件解決に貢献していないと評価したのである。そこで、捜査員の直観に頼らず、痕跡画像をIBIS/NIBINに集積させ、機械的にスクリーニングをかけてから鑑定することによって、鑑定者の業務時間の7割を、事件解決に直接貢献する仕事に割り振ることができるようになったという。そして、その後の努力の結果、その時間割合はさらに8割にまで向上したという。
このように、捜査員の持ち込む情報の3割しか的を得ていないことを知っていたドリーンは、正しい情報を提供した捜査員に礼状をしたためる気になったのであろう。極めて忙しい環境では、仕事を省略しながら、いかに成果を上げるかが問われているのだ。ドリーンは積み残し鑑定を一掃するために、「水曜日は飛び込み鑑定OKの日(Walk-in Wednesday)」という試みを行った。水曜日は、朝から晩まで鑑定業務以外はしないことを所員に命じた。重要事件を優先し、水曜日に極力鑑定処理を行うことを命じた。水曜日は、捜査側からの重要事件の飛び込み鑑定を受け入れ、24時間以内に関連事件の有無を答えること、などで事件解決に協力し、社会の安全安心の向上を図ったのである。殺人事件の鑑定が優先されることはもちろんであるが、口径9mm(0.38インチ)未満の小型拳銃については、凶悪事件に使われないとの前提で、鑑定を一切行わないことで、積み残し鑑定の一掃を図ったのである。ここまで徹底した対策を取ったことことには驚かされた。
この対策によって、それまでは積み残されていた鑑定の中に、凶悪事件が解決できる資料が多く埋もれていたこと、とにかく資料を調べてみなければ事件は解決できないことなどの重要な教訓が得られた。発砲事件の現場に発射弾丸類が遺留され、それを発射した銃器が押収されて研究所に持ち込まれれば、原理的には事件は解決するはずである。実際には、大量の鑑定資料を処理できず、貴重な資料が埋もれていた。その状態が継続すると、犯罪者側も、発砲事件で捕まることはない、捕まっても犯罪事実を証明できるはずがないという確信が生まれる。そのような状況が一転して、証拠を突きつけられれば驚くだろう。
捜査員の情報によって、普段は行わないドラッグファイヤー検索を行ったというようにシュヴァルツ教授は主張しているが、ドラッグファイヤー検索あるいはNIBIN検索は必ず行うべきものである。それを行っていないのは、怠慢として非難されるべきものなのである。NIBINは莫大な予算を投じて整備されたものであり、それが有効活用されていないのであれば、納税者は批判してしかるべきであろう。
最後に余計なことを一言付け加える。どこかの国では、以前は捜査の追認どころか、裁判が開始されても鑑定書を作成できない鑑定者がいた。口ではいろいろ言っても、公式の鑑定書は作成できないのである。分からないとすると自分の鑑定能力の否定になるとでも思っていたのであろうか?単に鑑定能力がなかっただけなのだろうか?銃器工具痕の鑑定は、普段通りの鑑定を淡々とこなすだけのものである。
(2011.9.10)
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