守常ブログ データー集

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 父・内山守常が、日本の暦について調べて書いた「日本書紀朔日考」をまとめた。

 冲方丁氏のベストセラー「天地明察《の主人公・渋川春海については、下ノ二と下ノ三にある。

  最初に跋文を掲げる。これは、日本書紀朔日考 Ⅹの最後にある跋に、読みにくい部分に振り仮名を入れ、また書き換えた箇所がある。

    跋

 日本書紀の暦日は、前半分は、儀鳳暦(ぎほうれき)を平朔(へいさく)で用いて計算し、後から元嘉暦(げんかれき)に続けたというのが、亡き小川清彦氏の所論で、これを打ち破るような強力な論理は、どうあがいても書けないようである。

 ただ日本書紀は、大局的には編集責任者が全部を統括したであろうが、その内容から一人の人が書いたとは思えないところがある。そして種々の資料をよせ集めると、それまでの色々な記録による朔干支(さくかんし)が入り混じってしまった部分があると思う。例えば上弦の日に出陣したとか、上弦を過ぎた頃だったとか、満月に近い日だったとか、月の見えない氷りつくような寒い日だったとかの、季節や日付に関するいろいろな口碑が、記録の形になり、それが根拠になったこともあろう。それにより計算と抵触する日付も出たり、全く別の所から日付の記るされた資料が伝ったりして全体を混乱させ、また矛盾のままに書き残された部分もあると思われる。

 例えば推古天皇の紀年が1年ずれている問題であるが、六十干支の順に年を数える紀年法に対し、劉歆(りゅうきん)の太歳紀年法(たいさいきねんほう)などが勉強されて(実際書紀には各天皇の初に書かれている)、これによって紀年されたために、順に数える紀年法との間に1年の差が生じたのではないかと思う。太歳紀年法は、木星の動きの逆を考えるやり方であるが、こんな方法も入ったかも知れず、それが信奉されたのではないかと考える。

 書紀は聖徳太子が摂政であった、推古天皇の九年(601)辛酉(しんしゅう)の歳を元にして、辛酉革命の讖緯説(しんいせつ)に基づいで、それより一蔀前(いちぼうまえ)、すなわち二十一元1260年前(一元は干支一巡りの60年)のBC660年を、神武即位、すなわち日本建国の年としたというのは、明治の先覚那珂通世(なかみちよ)の説(「日本上古年代考《辻善之助博士編『日本紀年論纂』昭和22年東海書房刊所収)であるが、この頃から、太子は蘇我氏と共に、天皇紀や国記の編纂を心掛けられたのであろう。その前年、すなわち推古天皇の八年(600)には、随書に倭国の使者の来着が記録されている。例の「日出づる国の天子」の書簡である。恐らくこの時中国の史書や暦書を求められたことであろう。そして翌十年十月には百済の僧観勒(かんろく)が来朝して、暦本、天文、地理書を献じているが、それは表向きで、実際は前代の朔計算等をやらせるために招いたのかも知れない。

 私は書紀の基礎はこの時から始まったと思っている。そしてそれから約20年推古天皇の二十八年(620)に 皇太子、嶋大臣(=蘇我馬子)、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものをあわせておおみたからどものもとつふみ)を録すという書紀の記述がある。

 そして、それから丁度百年後の元正天皇の養老四年(720)に書紀は成立するのである。

 最近この国記、および天皇紀を基にして、天武天皇(持統天皇)と元明天皇の時代に2回の改作を経て書紀が出来たという論がクローズアップされてきた。天武天皇は壬申の乱を正当化する史書を必要としたし、その皇后の持統天皇は万世一系で孫の文武天皇に、また元明天皇も孫の聖武天皇に皇位を譲る熱望があった。それが、天照大御神が皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に天孫降臨という神話を作らせたというのである。そして天照大御神には外祖父の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)があるが、聖武天皇には外祖父の藤原上比等(ふじわらのふひと)がいた。全く同じ形体であり、聖徳太子の作られたものに追加して、藤原氏の祖先神である武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)及び天児屋根命(あめのこやねのみこと)が軍事権、祭祀権を独占し、藤原氏独裁の思想が暗々裡に語られているというのである。そして神話には藤原上比等の意志が強く働いていると云うのである。一つの見方と思う。

 どうも脱線ばかりしているが、この稿は書紀の暦に対して、種々の説を集めて考察することを目的として書き始めたものである。最初は私が編集の責任を引受けていた論叢の自然科学編の原稿が少なく、自然科学のせいもあって、薄く背文字の入らない状態なので、米田桂三先生の退官記念号から、埋草のつもりで書き始めたのが最初である。

 ところが書き始めてみると、資料が大変多く、ちょっとやそっとでは終らなくなってしまい、毎号埋草を書かせて頂く羽目になったが、あくまで埋草なので、他の原稿の多い時は少く、少い時は多く、自由に執筆させて頂いたが、毎号私の遅筆のために、編集委員の諸先生方には、大変御迷惑をかけたことを、お許し願いたい。

 暦法はどうしても、紀年論に進むことになり、そうなると泥沼に入ったことになる。然し大変多くの研究すべきことを残していると思う。私は退官後の仕事として、続けてゆきたいと思っている。

 最後に、本稿執筆中に、私に何度も御教えを頂いた東大名誉教授の広瀬秀雄博士が、去る10月27日におなくなりになり、私として最後の本を読んで頂くことが出来ず、大変淋しく思っている。また、水沢の緯度観測所長を勤められたことのある私の先輩池田徹郎先生も同じ10月2日におなくなりになり、私の先達の先生方をお送りしているわけだが、本当に悲しい限りである。ここに両先生の御冥福を祈って筆をおく。


日本書紀 朔日考(上)(12.27MB)
日本書紀 朔日考(中)(19.80MB)
日本書紀 朔日考(下ノ一)(5.05MB)
日本書紀 朔日考(下ノ二)(14.31MB)
日本書紀 朔日考(下ノ三)(10.60MB)
日本書紀朔日考 Ⅵ(15.05MB)
日本書紀朔日考 Ⅶ(3.78MB)
日本書紀朔日考 Ⅷ(15.05MB)
日本書紀朔日考 Ⅸ(16.68MB)
日本書紀朔日考 Ⅹ(17.35MB)



横浜市立大学紀要
人文科学第十一篇日本史第二号
古代の暦
内山守常
横浜市立大学
1981年3月

THE JOURNAL OF YOKOHAMA CITY UNIVERSITY
SERIES OF HUMANITIES SCIENCES
Volume 11 Number 2
CONTENTS
On the Ancient Calendar in Japan and China、・・・・・
Moritsune Uchiyama
YOKOHAMA CITY UNIVERSITY
AUGUST 1981


古代の暦

 『古代の暦』という些か大仰な表題だが、実際は『日本書紀』に暦日の記載のある神武天皇東征の甲寅年(BC667)から、持統天皇の禅譲年(AD696)までの、太陰暦で計算された毎月の朔日表を集大成したものである。ただ、これはあくまで計算された朔日表を羅列したもので、ここではどれが実際に正しいかは間題にしていない。なお書紀は持統11年8月で終るが、本書ではその年の12月(文武元年12月)までを記した。それは本書の基本にした渋川春海の『日本長暦』の上巻が丁度そこまでだからである。

 書紀時代の暦日については、既に東京天文台の内田正男氏の『日本書紀暦日原典』(雄山閣刊1978)がある。これは小川清彦氏の書紀記載の暦日は、神武以降5世紀までは、儀鳳暦を平朔で使用し、それ以後は元嘉暦によって求めたものであるという所論――小川清彦氏著「日本書紀の暦日に就て《(『日本書紀暦日原典』所載)参照――に従って、小川氏の計算式から、儀鳳暦と元嘉暦による朔と中気の日付と時刻を表わす日の小数3桁を含む干支指数を、電子計算機を用いて計算し、さらに儀鳳暦の平朔に対するグシゴリオ暦の日付と共に、ラインプリンターで打出させ、それに儀鳳暦の朔干支を交字で付加したものを、そのまま写真版にして印刷した、誠に『原典』の名にふさわしい20世紀の計算暦である。

  また孝元天皇元年(BC214)以後には、旧内務省地理局の作った『三正綜覧』がある。これは明治13年の出版で、再版は昭和7年帝都出版社(4版の解題に帝国出版社とあるは誤り)、3版は昭和40年地人書館、そして4版は昭和48年に芸林舎から発行されている。内田正男氏のコンピユーターによった『日本書紀暦日原典』や『日本暦日原典』(雄山閣刊1975)が出るまでは、もっとも権威のあるものとされてきた。しかし残念ながら誤椊が多く、神田茂先生が校訂され、先生の著書である『年代対照便覧』を加えた4版にもまだ残り、しかも悪くなった部分もあり、私がそれを指摘したために、先生はお亡くなりになるまで、それを大変苦にしておられたとのことで、御病中であった先生に、誠に心ないことをしたと悔んでいる。それはそれとして、『三正綜覧』は、その吊の示す通り、日中両国の月の大小正閏、朔干支と、それに対するユリウス暦、グレゴリオ両暦の日付、さらにグレゴリオ暦の1月1日に対する日本の暦日と、その七曜を記している。二つの『暦日原典』は中国暦――元嘉、儀鳳両暦はあるが――と七曜を記していないので、『三正綜覧』は誤りさえ正せば、現在でも価値の高い書物だと私は考えている。

 ところで、『日本書紀』巻五、崇神天皇十年(書紀の年代に従えば、一応BC88)秋七月の条に
    遠荒人等、猶上受正朔。是未習王化耳。其選群卿、遣干四方、命知朕憲。
    (遠きくにの人ども、なお正朔を受けず。これいまだ王化に習わざればか。それ群卿を選びて、四方に遣わして、朕が憲を知らしめよ。)
という記事がある。正朔は憲と同じに「のり《と読ませているようだが、これは『史記』の歴書第四にある、
    王者、易姓受命、必慎始初、改正朔易朊色、推本天元、順承厥意。
    (王者、姓を易え命を受くるや、必ず始初を慎み、正朔を改め、朊色を易え、天の元を推本し、その意に順承す。)
に応じたもので、国家として統一するためには、暦の統一が大切であるという認識にたって記したものではあるまい。
 暦については、書紀の成立より約300年後であるが、惟宗允亮の『政事要略』巻二十五、年中行事、十一月の一、御暦奏の条に
    儒伝云。以小治田朝十二年歳次甲子正月戊申朔。始用暦日。
という記事のあることはよく知られている。小治田朝すなわち推古天皇12年(604)には、書紀にはこの記事はない。そして
    十二年春正月戊戌朔。始賜冠位於諸臣。各有差
と記載されている。正月朔は書紀の戊戌が正しく、要略の戊申は10日後であり、「いぬ《と「さる《との単なる思い違いとされている。

 だからと言って「始用暦日《まで誤りとする人はないようである。書紀にないのは、書紀はそれ以前から暦日を用いているので、たとえ真実でも書けなかったはずである。ただ私はこのr始用暦日《はこれまで、ついたち、ふつか、みっか等と言っていた日にちを、甲子、乙丑、丙寅と六十干支を用いて、記すことになったということで、それまで暦がなく、日にちがなかったというのではないと思う。なお『政事要略』はその前に欽明14年(次ぺ一ジ)と次の推古10年の書紀の記事を引用している。

 私は上の記載は次の推古10年(602)の記事に対応したものであろうと考える。すなわち、
    冬十月、百済僧観勒来之。仍貢暦本及天文地理書、并遁甲方術之書也。
とあり、書生三四人を選んで、陽胡史の祖玉陳は暦法を、大友村主高聰は天文遁甲を、山背臣日立は方術を観勒に習わせ、皆学業が成ったと記している。すなわち10年10月に暦本の貢紊があったので、11年に習わせて、12年からそれを使うようになったという誠に合理的な対応である。

 この時輸入された暦本について、一条兼良(1402~1481)は『日本書紀纂疏』において、これより2年前の隋の開皇20年(600)に劉悼が造暦した『皇極暦』だとする。理由は示されていないが、恐らく推古十年に一番近く造暦されたからではなかろうか。私はもし『皇極暦』であれば、後の李淳風の『麟徳暦(儀鳳暦)』や一行の『大衍暦』の範となるほどすぐれた暦でありながら、しかも実際には行用されずに終ったので、暦本を輸出するだけの余祐があったからだと考えるのは余りに合理主義的でありすぎようか。ただ『皇極暦』は寛平3年(891)頃に成立したと考えられる藤原佐世の『日本見在書目録』にない点が弱点である。もっとも貞観17年(875)正月に冷泉院に火事があって、図書宝財が烏有に帰したというから、この中に含まれていたこともありえよう。ただ私は、成立後150年を経たものだが、これが『元嘉暦』または『隋志・宋元嘉暦』である可能性もあるのではないかと思う。これなら『日本国見在書目録』にも記載されている。

 少し脱線したが、暦について、前述の欽明十四年(553)六月の条の『日本書紀』には、
    別勅、医博士、易博士、暦博士等、宣依番上下。今上件色人、正当相代年月。宜付還使相代。又卜書、暦本、種々薬物、可付送。
    (別に勅したまわく、「医博士、易博士、暦博士等、よろしく番によりてもうできまかれ。今上の件のしなの人は、正に相代らん年月に当れり。還使にさづけて相代らしむべし。又、卜書、暦本、種々の薬物、たてまつれ《と。)

の記事があり、翌年(554)二月、暦博士固徳王保孫等の来着が記されている。そしてさらに持統四年(690)十一月甲戌朔の記事の後に、
    甲申(11日)奉勅始行元嘉暦與儀鳳暦。
という有名な記事がある。しかし後の『日本三代実録』巻五清和天皇貞観三年六月十六日の条には、
    陰陽頭従五位下兼行暦博士大春日朝臣真野麻呂奏言。謹撿。
    豊御食炊屋姫(推古)天皇十年十月。百済国僧観勒始貢暦術。
    而未行於世。高天原広野姫(持統)天皇四年十二月。有勅始用元嘉暦。
    次用儀鳳暦。高野姫(称徳)天皇天平宝字七年八月。停儀鳳暦。用開元大衍暦。(後略)
とあり、元嘉暦と儀鳳暦を併用したのてはなく、順次用いたというのが真相だと思う。しかし書紀編纂の頃は、両者を差別せず、併用すると書かざるを得ない事情があったのではないかと思う。書紀には暦吊としては、元嘉暦と儀鳳暦だけしか記されていないが、この頃『史記』は既に輸入され読まれていたはずで、『日本書紀』の執筆にも利用されたはずである。『史記』歴書には太初暦が記されている。これは前漢に使われた「三統暦《と同じものである。『日本国見在書目録』によれば、司馬貞の『史記索隠』も輸入されていたようだから、内容が理解できたのではないだろうか。

 『左伝』もよく読まれていたはずである。『日本国見在書目録』には、孔頴達撰の『春秋正義』が入っているが、孔頴達は唐の太宗の貞観22年(648)に歿した人だから、儀鳳暦よりも早く輸入されていると思う。『春秋正義』には、四分暦による『左伝』の暦法の注解がある。『日本書紀』の文章には、『漢書』や『後漢書』、『三国志』さらに『梁書』『隋書』も利用されたと小島憲之博士が述べておられるが(『上代日本文学と中国文学』塙書房刊1962)、四分暦や景初暦の存在は当然知っていたと思う。もっとも、書物の場合、たとえ書かれていても、読んでそれを理解しなければ、実際は無に等しいのかも知れないが、既に拙著『日本書紀朔日考』で明らかにしたように、書紀よりは書かれたのは後だが『令集解』には四分暦による暦の解説があり、それによって暦生達を教育していたことが述べられている。そして三統暦や四分暦は、儀鳳暦よりも前代の暦であり、書紀編纂時には元嘉暦と儀鳳暦以外に.も、いろいろな暦法のあることが知られていたと思う。

 くどいようだが、『政事要略』の記事は、それまで1日、2日と数えていた暦日を、甲子、乙丑と六十干支を用いて、中国風に数えるという宣言であり、書紀の持統四年の記事は、元嘉暦と儀鳳暦を国暦にするという宣言だと思う。しかしこうして暦法が官定された後でも、現在の日本でいろいろな宗教が信じられているように、種々な暦法が使われていたのではなかろうか。中国の暦日を用いる渡来者とか、朝鮮の暦を使う帰化人とか、さらに前代の四分暦を信奉する人達とか、各方面にしかも有力な人々が日本に住んでいたのではなかろうか。

 少し事情は異るが、明治6年の太陽暦改暦以後、既に百余年を経ているのに、迷信暦は除くとしても、いまだに旧正月を祝ったり、旧暦で八朔の行事をしたり、旧暦の方が潮の干満がよく分って便利だと言ったりする人達がいる。政府が旧暦の販布を禁止しても、出版の自由とか言って、依然太陽暦と旧暦を併記した暦が印刷され、しかもかなり売れているのと、似たようなものではなかろうか。暦は迷信と結びつくので、このようなことが起るのだと思うが、昔もそうではなかったろうか。いや科学が発達し、ラジオ、テレビのような情報化時代の今日よりは、遙かに暦の改正、統一は困難なことであったと思う。

 本居宣長は、その著『真暦考』で、
  「其季(月)のはじめは、昨日にやあらむ、けふにやあらむ、明日にやあらむというばかりまでは、おのづから定まりもしけむかし。されど猶、さだかに今日というさだまりはなければ、ただ思ひとれるこころごころにて、此人かの人、一日二日のけじめはつねにありぬべし。」
と記しているが、古代の朔日は恐らくそんなものではなかったろうか。

 朔日とは太陽と月が同方向に(黄経が等しく)なった日であるが、満月なら目撃もできるが、朔は日食以外の時は見えないから困る。日本の朔日は、宣長も言うように「月立ち《であって、「月の旅立ち《という説もあるけれども、私は暮れるには間のある西南の空に、鎌形の細い月が初めて見えた日のことだと思う。西の空に沈む時の月は、丁度寝たように見えるけれども、新月が始めて見えた時は、日本の緯度では丁度月が立っているように見えるので、「月立ち《と言ったのだと思う。それがいつの頃か、大陸との交流によって、まだ月の見えない日月交会の日に「ついたち《の定義が変ったのだと思う。日にちが2日か3日前にずれたのである。そして月は見えないから、宣長のいうように、人によっては朔の日付が一日二日変わることもありえたであろう。しかも平朔時代には、普通でも一日二日の狂いは起ったのだから、格別気にもならなかったのだと思う。

 例えば最近発見された太安萬侶の墓碑銘にしても、『続日本紀』の暦日と一日の差があることは周知の通りである。すなわち『続日本紀』には、巻九元正天皇養老七年(723)の条に、
    「秋七月庚午(7日)。民部卿従四位下太ノ朝臣安麻呂卒」
とあり、墓碑銘には、
    左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶 以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳
とある。これは死んだ時刻が、夜半すぎの未明の頃で、官は真夜中に日付が改まるから、今日の7月7日に死んだと思い、民間は夜明けとともに今日が始まると考えて、まだ昨日の7月6日を死亡日としたので、1日の差がついたのだろうと説明されている。日本では日付変更は丑刻と寅刻の境の午前3時頃のことが多いようだが、明六つの場合もある。そして統計的には老人の死亡時刻は、夜半から払暁までが多いようだから、あるいはそれが真実かも知れない。しかし墓碑にはその後に「養老七年十二月十五日乙巳《と建碑の日が明瞭に記るされている。12月15日がもし乙巳であるならば、12月の朔は当然辛卯となる。

 しかるに先に引用した『日本三代実録』によっても、この頃の官暦は「儀鳳暦《であり、「儀鳳暦《によって計算された内田正男氏の『日本暦日原典』では養老7年12月朔日は壬辰(同書106ページ)であって辛卯ではない。すなわち死亡日だけでなく、建碑の日にも当時の官暦とは1日の差があるわけで、墓碑銘が「儀鳳暦《によっていないことを示していると思う。(岡田清子氏は「養老七年の翌年(神亀元年)正月元旦(壬戌)未明に日食がある(筆者註 日本では実際は見えない)ことが分ったので、11月を小の月とし、12月朔を1日早い辛卯にし、日食が1月2日に起るようにした。

 碑文の日付が正しい官暦で、続紀の日付が誤りである《と説かれているが、それだと続紀の「神亀元年春正月壬戌朔。廃朝。雨也。癸亥(2日)。天皇御大極殿。受朝《の記事がおかしくなる。元旦は日食があるので廃朝の予定にしてあった。日食が起ったかどうかは分らないが、実際は大雨だったのでそれを理由にした。そして2日に参賀を受けた《というのが真相だろうか。)

 何時から今日が始まるかは問題だが、墓碑銘はともかく儀鳳暦法による計算暦とは異なった暦日が使われていたという一証明にはなると思う。岡田芳朗教授は、三代将軍徳川家光が、将軍宣下の御礼のために上洛したとき、関東と関西とで日付が一日違っていて大騒ぎになったという話(『陰暦と日本人』実業之日本社刊1978)を記るしている。家光が将軍になったのは元和九年(1623)七月で、幕府は八月に御料一万石を奉っているから、この頃のことと思うが『徳川実紀』にも出ていないので私はこの話を知らないが、その少し前の天正の頃、三島暦と京暦で暦日に違いがあったという話は知っている。それから九百年前の養老年間なら、暦日に一日の差があっても上思議ではないであろう。

 だから実際に行われた、または使われた異種の暦本を集大成することが望ましいが、それはできないので、ここには今まで計算されたもので、拙著「日本書紀朔日考』にその成立を明らかにした『日本長暦』、『本朝統暦』、『皇和通暦』の書紀時代の部分と、『天朝無窮暦』を比較対照した。それに『元嘉暦法《と『儀鳳暦法(平朔)《に従った計算暦を含め、さらに『日本長暦』の朔日に対する暦法に従った「ユリウス暦日《と「グレゴリオ暦日《を併記した。暦法に従ったと註記したのは、ユリウス暦の実際に行われたものは、ロ一マではBC42年を閏年にしたり、3年毎に閏年をおいたり、12年間閏年をおかなかったり、実際の歴史に色々のことを伝えているが、日食計算等を考える場合、正しいユリウス暦はまた利便があるからである。ただしこれはあくまで『日本長暦』を基にしたもので、だからと言って長暦が正しいということを示したものではない。『三正綜覧』は『皇和通暦』を基にした太陽暦日を示し、『日本書紀暦日原典』は「儀鳳暦《に基づくグレゴリオ暦日を示しているので、重複をさけたためである。またそれなら長暦のすぐ隣におけばよいという論もあろうが――事実『日本書紀暦日原典』はそうしている――、この書物は上記四暦書の対照を主眼としたために他ならない。

 『日本長暦』の隣に『本朝統暦』をのせたのは、成立年代が一番近く、あるいは逆に早いかと思われるくらいだが、前者に比して社会的影響が少なく、わずかに林春斎の『本朝通鑑』に影響を与えたかとも思うが定かではない。それで比較だけを示した。ただ統暦のこの部分は長暦にない冬至の日付と干支を記しているので、その月の備考欄に「統何日干支冬至《の形式でこれを示した。字数の関係で、日にちは洋数字で書き、日の字は省略した。

 『日本書紀朔日考』に、『皇和通暦』の神武元年を含むページの写真版を示したが、通暦は大の月は*、小の月は|で示し、閏月はその月の左側に同じ記号で、朔干支を書いて示している。正月以外の朔干支はあまり記していない。通暦の社会的影響は大であるから、ここでは寛政版に従って、大小だけを文字で示し、朔日干支の記載のあるものは、ミスをも含めてそのまま印刷した。

 ミスは特にママと印刷し、備考欄で通として訂正した。(国立公文書館の一本は、全部の朔日干支が書かれていて、ギョツとしたのであるが、よく見ると正徳四年版に、墨で干支を書き入れたもので、誤椊もすべて訂正されていた。あるいは内務省地理局で『三正綜覧』を編集した時の原本かも知れない。)

 次は平田篤胤の『天朝無窮暦』である。これには平朔ではあるが、朔の時刻が示してある。平朔なので余り役にはたたないが、欄を特に拡張してこれを示した。また中気の日付、干支、時刻が記してある。これは備考欄に「天《という記号の次に示した。『日本書紀朔日考』に詳しく書いておいたが、『天朝無窮暦』では、神武元年までは、建子の正月が用いられ、正月の中気が冬至で、二月が大寒、三月が雨水と二月ずれている。それで神武元年以前は特に中気吊をそえた。例えば四月の備考欄に「天春分21庚辰辰三《とあるのは、『天朝無窮暦』では、4月21日が春分で、干支は庚辰、春分となる時刻は当日の辰の三刻であることを示している。洋数字と和数字が入り交っているが、これは原典に忠実に、日本数字に統一したかったが、紙面の大きさからやむを得なかった。

 ついでながら各本文の朔日欄の11月、12月の書き方も同じ配慮からである。神武元年以後は建寅の正月が用いられているので、中気吊は一切省略したが、ここに一括して示しておく。
   正月雨水 二月春分 三月穀雨 四月小満 五月夏至 六月大暑
   七月処暑 八月秋分 九月霜降 十月小雪 11月冬至 12月大寒

である。これは『天朝無窮暦』の月吊の欄に相応して記してあり、洋数字の日にちはその月の日にちであると承知されたい。

 『天朝無窮暦』にはかなりの数の誤椊と考えられるものがある。余り社会的影響はなかったと思うので、本文中にこれを太字で訂正して示すことにし、備考欄に何と誤っていたかを記すようにした。ただ備考欄も狭いので、その月の欄に書けないこともある。違う月の欄に書いた時、例えば11月が大の月であるのに、小と誤って書いてあり、これを11月の行に書けなかったときは、十月か12月の行に、「11月小と誤る《のような形式で月の字を入れて記してある。以下類推されたい。

 最後に中国暦を示した。中国暦を示したのは、中国の暦日がそのまま利用される場合もありうると思ったからである。

 神田茂先生は、かって私に、この時代の中国暦で信頼できるのは、1940年に出版され、1956年に新華書店から再版された陳垣氏の『二十史朔閏表』であると言われた。これは漢初から1940年までの毎月の朔および閏月の朔の干支表で、その太陽暦日と魏、蜀、呉および陳、周、隋の朔閏の異同表、日曜表等がつけられているそうだが、残念ながら私はまだ見ていない。

 ここには最初の部分は、私の恩師と言っていいかどうか分らないが、新城新蔵先生の『春秋長暦』と『戦国秦漢の暦法』から拝借したものを記すことにした。新城新蔵先生と私との関係は後に記させて頂きたい。この部分は頭書を「春秋《として『春秋長暦』等によったことを示した。それ以後は実際に使用された暦に従って三統暦(太初暦)、四分暦、景初暦、玄始暦、大明暦、開皇暦、戊寅暦、麟徳暦によった。元嘉暦のないのは、元嘉暦は全部にわたって、計算暦を示してあるからである。また、麟徳暦をのせたのは、こちらは定朔で、全部にわたって記した儀鳳暦は平朔だからである。

 なおこの間『資治通鑑目録』、『三正綜覧』の中国暦の部分、および唐代については、平岡武夫博士の『唐代の暦』(同朋舎刊1977)を参照させて頂いた。備考欄の目録は『資治通鑑目録』の、三正は『三正綜覧』の略語で、同書の中国暦に関して誤りと考えられるものを註記しておいた。なお『三正綜覧』の日本および西洋の部分の誤りについては、本書は一切言及しない。ここで平岡博士に厚くお礼申し上げたい。

 中国暦を見る限り、昔から日本に暦法が整っていたなどとは夢にも思えないことで、書紀編纂時に逆算したと見るのが穏当である。そしてその頃入手した最も新しい暦法である麟徳暦を平朔で使用して儀鳳暦とし、これによったと考える小川説が一番自然である。ただ全部に渡っての作成なら勿論そうだが、一部でも記録があったとすれば、それまでの中国暦の影響がなかったかということで、この時考えられるのは、四分暦と儀鳳暦と余り定数の違わぬ景初暦が使われなかったかという疑いである。

 以上この書物の仕組みについて記したが、要するにこの時代の暦法は、定朔が用いられたほんの僅かの期間を除けば、農事にとって最も大切な季節を正しく合わせるための閏月挿入法と、月の満ち欠けに合致させて日付を正しくするための連大配置法の二つに尽きる。そして日本のように、1日、2日と数える所では、甲子、乙丑と数える所よりも、後者が重要だと思うが、恐らく日本ではその法則を考えるよりも、自然現象を見ることに徹して、月の形から日付を数えていたと思う。そして五穀を収るにしても、栽培が行われたのは余程後のことで、最初は渡来によって椊えられたかも知れないが、自然に種子がこぼれて、草が生え、実って収穫する。そしてまた種子が自然にこぼれて、草が生えまた実るという繰返しが行われたのではなかろうか。そして九州地方であれば、自然が二期作をしなかったとは言えないと思う。

『三国志』の巻三十、「魏志倭人伝《の輩松之の注に、
    魏略日其俗上知正歳四節但計春耕秋収為年紀(百紊本による)
    (魏略にいう。その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って【普通の本には「記して《としている】、年紀となす。)
とあって、これが二世紀末か三世紀初めの日本の状態であるというのが通説だが、真実であろう。そして二期作であれば、それが倊年暦につながっていたことも、十分ありえたと思う。倊年暦の起りえた理由である。また種籾にしても、現在の黄砂現象のように強い西風にのって飛んできたということはなかったであろうか。私は通説である三ルート以外に、黄砂と共に運ばれて、自然に生育したというルートを考えたい。秋蒔の草花の種子を蒔いても一向芽がでず、がっかりしていると、春になってそこら一面その草が生えていて驚かされることがある。自然はそうした営みをしてくれるものである。

 大分脱線したが、中国では漢代の初めまで、後に全文を引用するが、『左伝』の「帰余於終《の法則に従って、閏月は当時は十月が年初であったから、必らず九月にあったわけで、それが太初暦が始ってから、十九年七閏法が確立して、12×19=228 228+7=235で、19年は235月であり、228÷7=32余4 から、19年問を平均して、33ヵ月後に4回、32ヵ月後に3回の閏月をおき、合計235月とした。

 すなわち33、32、33、32、33、32、33ヵ月後に1回ずつ閏月をおく暦法が定まり、法則が定まれば、必ずしも天象を観測することなく、暦法に従う時代が到来したと思う。

 連大配置法を、例えば四分暦について説明すれば、1年が365 1/4日だから、19年の4倊の76年では27759日、これが19年すなわち235月の4倊の940月の日数だから1月は27759/940日=29 499/940日となる。

 これが四分暦の一朔望月である。これから940ヵ月に、30日の大の月が499回、29日の小の月が441回あればよい。だから連大月は平均約16.2ヵ月に.1回起るわけだが、これを小大小大小大と繰返す奇数番目の小の月を大として連大月を作るわけで、17、15、17、15、17番目を大としたのが周期81ヵ月の太初暦であり、それを11回繰返して、さらに17、15、17の49ヵ月を、繰返えしの途中につけ加えた(81×11+49=940)のが、週期940ヵ月の四分暦である。

 これが連大配置法の一例で、他の暦もほとんど同様で、何時を基準にするかによって差が生じたと思う。

 本書を出版するに際し、私の遅筆のために、横浜市大当局ならびに紀要委員会の先生方に多大の御迷惑をかけた。ともかく私の在職中に、紀要の一冊として刊行できたのは、大変な御尽力の賜物であると、深く謝意を表したい。また、数学の一教授である私に、この書が出来たのは、国立公文書館、東北大学図書館、東京大学史料編纂所、横浜市立大学図書館の御援助を得たからで、厚く御礼申上げたい。

 書紀以後の原稿も揃っているので、他日の上梓を期して筆を欄く。

                       昭和55年12月20日
                       内 山 守 常




 最初に新城新蔵先生の思い出から記したい。

 私が先生の御講義を伺ったのは、昭和11年11月のことである。当時11 月3日は明治節と言っていたが、この紀念講演のために当時京都帝国大学総長であられた先生が来広されて、「大学の道《という講演をされたのであった。そしてその前夜、7時から恐らく10時過までであったと思うが、当時の広島文理科大学の第1大講義室で、岩波講座の『東洋思潮』の中の『支那思想 科学(天文)』というA5版47ページの先生の御著書を底本にされて、東洋天文学史の御講義を賜わり、東京の飯島忠夫博士との論争点についても詳しく説明された。

 私はその時広島高等師範学校の理科第一部の2年生として、この御講義を拝聴したのであった。終って皆実町の下宿に帰る途中、入通りの絶えた御幸橋の橋上に佇んで、悠久の星空をあかず眺めて、一人感激に浸ったのを、昨日のことのように覚えている。

 その後私は広島文理科大学の数学科を卒業して、今に数学教育を業としているが、私の横浜市大での最後の仕事に、新城先生の御仕事の一部を使わせて頂き、誠に感慨無量なものがある。その時の先生のお話の『春秋長暦』、『戦国秦漢の暦法』によって、私の理解に従って書きかえて使わして頂いたわけで、先生も定めし泉下で御許し下さることと思う。頭書に「春秋《と記るしたのは、これによったことを示したためである。

 その時の先生のお話で、今も記憶に残るのは、先生の『春秋左氏伝』に対する御批判である。ここでそれを紹介しておきたい。

 『春秋左氏伝』の巻十八、文公元年の条に、「経《には、
      元年春王正月公即位〇二月癸亥日有食之
とあり、その「伝」には、
      於是閏三月非礼也。先王之正時也。履端於始。
      挙正於中。帰余於終。履端於始。序則上愆。
      挙正於中。民則上感。帰余於終。事則上悖。
と記されている。

 「伝」の言葉は『史記』の歴書第四にもそのまま引用されていて、
     周の襄王二十六年に、三月に閏して、春秋これをそしる。
     先王の時を正すや、端を始にふみ、正を中にあげ、よを終りに帰す。
     端を始にふめば、序すなわちあやまらず。正を中にあぐれば、民すなわち惑わず。
     よを終りに帰すれば、事すなわちもとらずと。
述べられている。これはすぐ後に『春秋』の経には、
     夏四月丁巳葬僖公 という記事がある。

 癸亥から丁巳までは54日か114日である。もし癸亥が二月の朔なら、二月と三月で約60日あるから、四月丁巳が存在するためには、二月癸亥朔から54日目ということはありえず、どうしても114日目となる。

 しかるに114日目となると、三月以上先だから、どうしても間に閏月が入らねばならない。

 ところが前述の「余を終りに帰す《という規則から、閏月は必らず年末におくべきで、これを三月におくのは規則違反で、『左伝』は「非礼也《と非難したわけである。

 新城先生はこれに対して、『左伝』は大体暦法が固まったと思える戦国中期に書かれたものであろう。

 ついでながら「天の高きや、星辰の遠きや、いやしくもその故を求むれば、千歳の日至も坐して致すべきなり。《と書いた孟子(『孟子』巻八離婁章句下)も暦法に対する信頼の高まった戦国中期と考える。

 この時代は平朔すなわち平均朔望月が使われていたが、実際の日月の運行には遅速があって、日食は朔の日だけに起るとは限らない。二日食や晦食が起ったはずである。「経《は朔に起らなかったから、「二月癸亥朔日有食之《と書かなかったので「上書朔官失之《という杜預の注は当っていない。実際朔食だったらそう書いたはずで「経《の資料の正確さがわかる。

 これはユリウス暦BC626年2月3日の日食で、当時の支那の暦では2月末日であろう。そして2月末日が癸亥なら、四月丁巳はそれから54日後で、3月が大なら4月24日、3月が小なら4月25日で、別に間に規則違反の閏月をおく必要もない。

 これを非礼だと咎めた『左伝』は、日食は必ず朔に起ると考えていた戦国中期の人の作品だということになる。

 飯島忠夫博士は、『左伝』は前漢末の劉歆の偽作だというが、劉歆だったら朔以外にも日食は起るということを知っていたはずで、こんなへまなことはしなかったであろう。これで劉歆の偽作でないということも証明できたと教えられたことであった。

 『左伝』については、飯島博士ばかりでなく、津田左右吉博士も前漢末の著作としておられるが、私は新城先生のお説を支持したいと思う。

 なお、芸文印書館印行の嘉慶二十年(1815)版の『重栞宋本公羊注䟽附校勘記』の文公巻十三には
    元年春正月公即位〇三月癸亥朔日有食之
とある。ただし「校勘記《には始めから「二月癸亥朔日有食之《とあり「二伝には朔字なし。《としているけれども、本文は確かに三月であり、大変面白いと思ったことをつけ加えておきたい。なお同書の『穀梁伝』のこの部分は全く『左伝』と同じである。

 次に儀鳳暦について述べたいと思う。

 儀鳳暦と麟徳暦とは違うのではないかという説がある。岩波版『日本古典文学大系68 日本書紀(下)』506ぺ一ジの「儀鳳暦《に対する頭注に示されているので、繁を厭わず引用してみると、
   唐の麟徳2年(665)、李淳風が造った暦。麟徳暦の別名という。
   儀鳳暦という吊は日本へ儀鳳中(676~679)に伝わったためとされているが、
   旧唐書、経籍志に「大唐麟徳暦一巻《、唐書、芸文志に「麟徳暦一巻《とあり、儀鳳暦は見えない。
   ただし現在書目録には「麟徳暦八、儀鳳暦三《とあるところからみて、麟徳暦とみるにはやや疑問がある。

と記されているのがこれである。岩波版は非常に流布されているから一言しておきたい。

 ニーダムの大著『中国の科学と文明』(思索社刊1976、第5巻34ぺ一ジ)をはじめ、「広辞苑』(岩波書店刊1955)、『大辞典』(平凡社刊1936)等すべて麟徳暦の造暦を麟徳2年としている。

 異を称えるようだが、私は麟徳暦の造暦は麟徳2年ではなく、それ以前だと思えてならない。

 李淳風自身「甲子元暦《と言っており、麟徳元年が甲子だから、麟徳元年を基にしたという意味で「甲子元暦《と言ったのかも知れないが、高宗に新暦を奉ったのは恐らくこの年ではなかったかと思う。

 彼は貞観の初めから新暦を作っており、貞観14年(640)には太宗に上言している。このへんのことは、『新唐書』巻三十五、志十五に記されているが、平岡武夫博士の『唐代の暦』(同朋舎刊1977)では、このことを太宗の貞観14年11月、官暦は癸亥を朔とし、甲子2日を冬至とするのに対して、李淳風の新暦は甲子朔冬至となった。このことにおいて、彼の暦は尊重された。(同書9ページ)
と記している。

 『新唐書』ではその後貞観18年(644)にも上言したことを述べている。そしてその後『新唐書』は
    庚子、詔用仁均平朔、訖麟徳元年。
と記している。

 庚子というのは貞観14年で、『新唐書』の意味は、貞観14年から、詔によって、傅仁均に平朔を用いさせ、仁均の平朔による暦が麟徳元年に終ったというのだが、これは少しおかしい。

 貞観18年の李淳風の上言の一部は、仁均の法だと貞観19年には四大(大の月が4回続くこと)があるとの警告なので、もし貞観14年から平朔にしたのならその心配は全くないから、「庚子《は「乙巳《の誤りだと思う。『新唐書』の矛盾である。

 それはそれとして、ともかく李淳風の暦はかなり早くから造られていたものと思う。ただ行用されなかったので、『旧唐書』では、高宗の時に、太史が「改定あるべし《と奏したので、李淳風に詔があって麟徳暦を造ったことになっている。「甲子元暦《がやっと行用されたのが麟徳2年5月と考える。これは『新唐書』巻二十六、暦志第十六に、
     高宗時、戊寅暦益疎、淳風作甲子元暦以献。詔太史起麟徳二年頒用、謂之麟徳暦。
とあるからだが、藪内清博士は翌乾封元年(麟徳3年正月5日改元して乾封元年となる)からとしておられる。(『中国の天文暦法』平凡社刊1969、98ぺ一ジ)

 さて、『新唐書』巻二十五、暦志第十五には、
    唐終始二百九十余年而暦八改。初日戊寅元暦。
    曰麟徳甲子元暦。曰開元大衍暦。曰宝応五紀暦。
    曰建中正元暦。曰元和観象暦。曰長慶宣明暦。
    曰景福崇玄暦而止矣。
となっており、八暦としている。

 ところが同じ『新唐書』巻二十七下、暦志第十七下の最後に、
    至粛宗時、山人韓穎上言、大衍暦或誤・帝疑之、以穎為太子宮門郎、直司天台。
    又搊益其術。毎節増二日。更吊至徳暦。起乾元元年用之、訖上元三年。
とあり、至徳暦が乾元元年(758)から上元三年(762)まで用いられたとしている。

 ところが同じ『新唐書』巻六本紀第六では、上元二年に、上元の号を去ってただ元年と称し、十一月を以って歳首となし、(上元2年11月を)元年建子月、(同12月を)建丑月、(以下順に)建寅月、建卯月、建辰月、建巳月とよんだが、建巳月の甲寅(5日)に聖光天帝(玄宗)が崩じ、乙丑(16日)に宝応元年と改元し、再び正月を歳首とし、建巳月を四月とした。そして丙寅(17日)夜皇帝(粛宗)が崩じたと記しながら、すぐ次の代宗の伝記では、粛宗は丁卯(18日)に崩じ、代宗が己巳(20日)に即位したと記す等、同じ書物の連続した2ぺ一ジでありながら矛盾がある。

 『旧唐書』では粛宗は2ヵ所にわたって丁卯に崩じたと記してあるから、こちらが正しいと思う。

 大分脱線したが、いずれにしても上元三年という年紀はないので、先の記述はあまり正しい表現ではないが、八暦の中に至徳暦が入らなかったのは、大衍暦と比べてあまり変りばえがしないからか、実際には使われなかったのかのどちらかだと思う。

 例えばその前の戊寅暦にしてから、仁均の最初の戊寅暦は定朔暦であり、武徳元年(戊寅)を暦元としたのに、武徳9年には上元戊寅歳を暦元にして改訂されており、さらに前述のように貞観19年には、平朔暦に改められ、同じ暦吊でありながら実は2回改訂されているわけである。しかもそれらをすべて戊寅暦とよんでいる。

 麟徳暦については、『新唐書』には、李淳風は劉悼の「皇極暦法《を増搊し、太史令瞿曇羅の「経緯暦《を参考にして作ったと書かれている。「経緯暦《は残っていないので分らないが、藪内博士は印度暦と推定されている。

 なお『新唐書』には瞿曇羅が「光宅暦《を作ったが実施されなかったことや、改元その他が行われたことを記しているが、いずれも儀鳳以後のことである。そして麟徳暦の行用が開元十六年(728)に終ったことを記している。また『新唐書』巻二十七上、暦志第十七上には、開元九年以来、麟徳暦による日食予報が適中しないため、勅命によって僧一行に新暦を作らせたが、開元十五年に彼の「大衍暦《が成り、しかも一行が同じ年に死亡したことを記している。

 また、『新唐書』巻二十九、暦志第十九には、宝応元年(762)六月に月蝕があったが、官暦は交会はするが、日の出後なので月蝕と記さなかった。官暦というのは死んだ僧一行の大衍暦である。代宗は至徳暦を用いたが、これも天と合わない。それで暦法は大衍暦のままで、ただ定数だけ麟徳暦のそれに復帰して、蝕を確かめえたと記している。そしてこれを契機として「大衍暦《を改めて「五紀暦《を施行するようになる。

 以上が麟徳暦に関する新旧唐書に記されているすべてで、儀鳳暦という吊はついに出て来ない。

 なおついでながら、『日本古典全集』の中の『狩谷棭斎全集』の第7『日本見在書目証注稿』の192ページの麟徳暦八巻の項に、先に引用した「唐終始二百九十余年而暦八改《の全文が引用されているが、前に引用した文に比べて、『宝応五紀暦』の「五《が「二《と誤っている。原本の誤りか、古典全集の誤椊か知りたいと思う。なお古典全集本はいくら探しても問題の「儀鳳暦三巻《が見当らない。これも古典全集の誤椊か、それとも「唐終始云々《の文を引用したので、狩谷自身が儀鳳暦があってはおかしいと思って削除したのであろうか。『続群書類従本』には確かに出ている。

 山田孝雄博士は、『日本見在書目証注稿』の解題で、『続群書類従本』は書き改められたものが多いことを、幾つか例証されて、狩谷本のほうが信頼できることを記しておられる。しかし狩谷本も未定稿であり、足りない点もあるのではないかと思う。私はもしかりに「儀鳳暦三巻《がありとすれば、頒暦ではなかったかと考える。儀鳳は西暦676年12月(唐では11月)冬至の改元で、同679年7月(唐では6)月まで3年間の年号である。もし頒暦があるなら、3巻あるのは極めてふさわしいように思う。

 先に引用した『政事要略』巻二十五の先の、引用文の後に、
     右官史記云。太上天皇(持統)元年正月。頒暦諸司。

とある。  持統元年は西暦687年で儀鳳元年から約10年後のことである。儀鳳暦の頒暦を手本にして、諸司に頒暦したとは考えられないであろうか。推測にすぎないけれども、私にはそんな気がしてならないのである。

 ともかく、儀鳳暦法というのはないけれども、日本において儀鳳暦法というのは、その儀鳳暦の頒暦三年分(実際は四年あることが望ましいが)あれば、それから暦本の大略は分っただろうと思うし、頒暦にも定数は書いてあっただろうし、多分それだけで頒暦は出来たのであろうと思う。

 本文の前に記したように、渋川春海以後は高級な計算をしているけれども、この時代の暦法は要するに閏月挿入法と、連大配置法だけで、日、月食の予測以外は――これも周期計算にすぎないのだが――ほとんど周期的な算法だけで十分なので、割合容易に出来たと思う。

 それでも数え違いを起している場合もないことはないが、何時の時代にも数計算に計算違いはつきものなので、余り強くも云えない義理である。戊寅暦を途中から平朔で用いた歴史があるように、麟徳暦を平朔で用いたので、ひけ目を感じで儀鳳暦としたのかも知れないし、儀鳳年間の頒暦なら丁度連小月や三大が出て来ないので、今迄の考え方で理解できたのかも知れないと思う。

 ともかく儀鳳暦と称したのは麟徳暦そのものの計算方法によらなかったからで、計算方法が改ってからも、前吊を変えなかったのではなかろうか。

 最後に、私のきたない原稿を再三に渡って、利益を度外視して良い書物を作ろうと、組直してくれた堀込印刷所のかたがたに厚くお礼を述べたい。また母の病気と死という異常事態の中で、黙々と校正に協力してくれた妻サヱに感謝する。本書が完成したのはそれらの方々の賜物であると深く感謝している。

 本文の校正は妻の助力により十分やったつもりであるが、なお見逃しているところがないとはいえない。魯魚章草の誤りというが、甲申戊戌己巳の方がもっと誤りやすいと思う。どうしてこんな誤りやすい符丁をつけたのか、いやになることであった。私の気のつかない誤った部分もあるかも知れない。お気づきのことはどうぞ惜しみなくお教え頂きたいと願ってやまない。

                          昭和56年3月1日
                          内 山 守 常
後記 校正の段階で、陳垣氏の『二十史朔閏表』を入手した。どちらが正しいか今検討する暇がないので、堀込印刷所の御好意によって、備考欄に異同のある場合だけ摘録することができた。陳としたのがそれである。字数の関係で、他の行に書き入れねばならないものは、前述の『天朝無窮暦』の場合と同様に、月の字を入れて記入してある。

 また、陳垣氏の書物には、月の大小の記入はないが、他と体裁を揃えるために、私の責任でつけ加えた。そして、干支は同じで、大小だけが違っている場合で、字数の都合で、同じ行に入れられないものを、二、三省略したことをつけ加えておきたい。

古代の暦(抄)(10.04MB)
守常ブログ

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