守常ブログ データー集
父・内山守常が、日本の暦について調べて書いた「日本書紀朔日考」をまとめた。
冲方丁氏のベストセラー「天地明察《の主人公・渋川春海については、下ノ二と下ノ三にある。
最初に跋文を掲げる。これは、日本書紀朔日考 Ⅹの最後にある跋に、読みにくい部分に振り仮名を入れ、また書き換えた箇所がある。
跋
日本書紀の暦日は、前半分は、儀鳳暦(ぎほうれき)を平朔(へいさく)で用いて計算し、後から元嘉暦(げんかれき)に続けたというのが、亡き小川清彦氏の所論で、これを打ち破るような強力な論理は、どうあがいても書けないようである。
ただ日本書紀は、大局的には編集責任者が全部を統括したであろうが、その内容から一人の人が書いたとは思えないところがある。そして種々の資料をよせ集めると、それまでの色々な記録による朔干支(さくかんし)が入り混じってしまった部分があると思う。例えば上弦の日に出陣したとか、上弦を過ぎた頃だったとか、満月に近い日だったとか、月の見えない氷りつくような寒い日だったとかの、季節や日付に関するいろいろな口碑が、記録の形になり、それが根拠になったこともあろう。それにより計算と抵触する日付も出たり、全く別の所から日付の記るされた資料が伝ったりして全体を混乱させ、また矛盾のままに書き残された部分もあると思われる。
例えば推古天皇の紀年が1年ずれている問題であるが、六十干支の順に年を数える紀年法に対し、劉歆(りゅうきん)の太歳紀年法(たいさいきねんほう)などが勉強されて(実際書紀には各天皇の初に書かれている)、これによって紀年されたために、順に数える紀年法との間に1年の差が生じたのではないかと思う。太歳紀年法は、木星の動きの逆を考えるやり方であるが、こんな方法も入ったかも知れず、それが信奉されたのではないかと考える。
書紀は聖徳太子が摂政であった、推古天皇の九年(601)辛酉(しんしゅう)の歳を元にして、辛酉革命の讖緯説(しんいせつ)に基づいで、それより一蔀前(いちぼうまえ)、すなわち二十一元1260年前(一元は干支一巡りの60年)のBC660年を、神武即位、すなわち日本建国の年としたというのは、明治の先覚那珂通世(なかみちよ)の説(「日本上古年代考《辻善之助博士編『日本紀年論纂』昭和22年東海書房刊所収)であるが、この頃から、太子は蘇我氏と共に、天皇紀や国記の編纂を心掛けられたのであろう。その前年、すなわち推古天皇の八年(600)には、随書に倭国の使者の来着が記録されている。例の「日出づる国の天子」の書簡である。恐らくこの時中国の史書や暦書を求められたことであろう。そして翌十年十月には百済の僧観勒(かんろく)が来朝して、暦本、天文、地理書を献じているが、それは表向きで、実際は前代の朔計算等をやらせるために招いたのかも知れない。
私は書紀の基礎はこの時から始まったと思っている。そしてそれから約20年推古天皇の二十八年(620)に
皇太子、嶋大臣(=蘇我馬子)、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものをあわせておおみたからどものもとつふみ)を録すという書紀の記述がある。
そして、それから丁度百年後の元正天皇の養老四年(720)に書紀は成立するのである。
最近この国記、および天皇紀を基にして、天武天皇(持統天皇)と元明天皇の時代に2回の改作を経て書紀が出来たという論がクローズアップされてきた。天武天皇は壬申の乱を正当化する史書を必要としたし、その皇后の持統天皇は万世一系で孫の文武天皇に、また元明天皇も孫の聖武天皇に皇位を譲る熱望があった。それが、天照大御神が皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に天孫降臨という神話を作らせたというのである。そして天照大御神には外祖父の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)があるが、聖武天皇には外祖父の藤原上比等(ふじわらのふひと)がいた。全く同じ形体であり、聖徳太子の作られたものに追加して、藤原氏の祖先神である武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)及び天児屋根命(あめのこやねのみこと)が軍事権、祭祀権を独占し、藤原氏独裁の思想が暗々裡に語られているというのである。そして神話には藤原上比等の意志が強く働いていると云うのである。一つの見方と思う。
どうも脱線ばかりしているが、この稿は書紀の暦に対して、種々の説を集めて考察することを目的として書き始めたものである。最初は私が編集の責任を引受けていた論叢の自然科学編の原稿が少なく、自然科学のせいもあって、薄く背文字の入らない状態なので、米田桂三先生の退官記念号から、埋草のつもりで書き始めたのが最初である。
ところが書き始めてみると、資料が大変多く、ちょっとやそっとでは終らなくなってしまい、毎号埋草を書かせて頂く羽目になったが、あくまで埋草なので、他の原稿の多い時は少く、少い時は多く、自由に執筆させて頂いたが、毎号私の遅筆のために、編集委員の諸先生方には、大変御迷惑をかけたことを、お許し願いたい。
暦法はどうしても、紀年論に進むことになり、そうなると泥沼に入ったことになる。然し大変多くの研究すべきことを残していると思う。私は退官後の仕事として、続けてゆきたいと思っている。
最後に、本稿執筆中に、私に何度も御教えを頂いた東大名誉教授の広瀬秀雄博士が、去る10月27日におなくなりになり、私として最後の本を読んで頂くことが出来ず、大変淋しく思っている。また、水沢の緯度観測所長を勤められたことのある私の先輩池田徹郎先生も同じ10月2日におなくなりになり、私の先達の先生方をお送りしているわけだが、本当に悲しい限りである。ここに両先生の御冥福を祈って筆をおく。
日本書紀 朔日考(上)(12.27MB)
日本書紀 朔日考(中)(19.80MB)
日本書紀 朔日考(下ノ一)(5.05MB)
日本書紀 朔日考(下ノ二)(14.31MB)
日本書紀 朔日考(下ノ三)(10.60MB)
日本書紀朔日考 Ⅵ(15.05MB)
日本書紀朔日考 Ⅶ(3.78MB)
日本書紀朔日考 Ⅷ(15.05MB)
日本書紀朔日考 Ⅸ(16.68MB)
日本書紀朔日考 Ⅹ(17.35MB)
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